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ガイア・クロニクル ~世界は、星界の旅人を待ってはくれない~  作者: またおれがっ
第一章 「狂想の主」

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プロローグ

鉄山砦の前線では、七日ものあいだ大地が揺れ続けていた。


はじめ、その震動は巨獣の森から伝わってきた。


大地を覆う深緑の樹海から、巨大な何かに掻き回されている。幾重もの樹冠が波打つように伏し、また跳ね上がる。


茂みから飛び出した小型の魔獣は群れをなして防柵へ殺到し、甲殻に覆われた巨獣は背中を弩の矢で埋め尽くされてもなお、塹壕を踏み潰して突き進んだ。


霧を破って現れた飛行魔獣の群れが空の半分を黒く染める。城壁から放たれた火矢と投射機がその群れを引き裂き、燃え盛る肉片を戦場へ降らせた。


やがて、鉄山砦そのものが震動の源になった。


弩砲が反動で軋み、岩塊が軌道を転がり落ちる。城壁の裏では、ドワーフの職人たちが折れた鉄骨を戦いのさなかに継ぎ直していた。


怒号。角笛。鋼の激突。炸裂する魔法。


山腹の奥深くに設けられた昇降機さえ息を切らしているかのように、矢束や盾、負傷兵、そして新たな守備兵を休みなく前線へ運び続けていた。



七日目の夕暮れ。


魔獣の大氾濫(スタンピード)は、ようやく終わりの兆しを見せていた。


本来なら、誰もが安堵の息をつくべき瞬間だった。


第二遠征団は、西側外壁の下に築かれた臨時陣地を守っていた。


もともと、そこは彼らの担当区域ではない。


三日目、Aランク魔獣の突進で南側の旧塹壕が崩壊し、鉄山砦守備隊は周辺にいた星界の旅人たちを急遽そちらへ回した。五日目の夜には、巨獣の森から押し寄せる群れが西の渓谷へ進路を変え、第二遠征団も守備兵とともに移動を強いられた。


七日目ともなると、自分たちがどの区画を守っているのか、もはや誰にも分からなかった。


人手が足りない場所へ、Atlasが皆を連れていく。ただそれだけだった。


足元には砕けた木材、折れた矢、黒焦げの魔獣の肉片が幾重にも積もり、踏み荒らされた泥と混じり合っている。


Atlasは陣形の先頭に立っていた。手にした大剣の切っ先は地面へ垂れ、刃にはいくつもの欠けがある。胸甲の左側には亀裂が走っていた。今朝、鉄山砦の槍兵を庇って魔獣の一撃を受けた痕だ。


治癒術で傷は塞げても、骨の髄にこびりついた疲労までは拭えない。


何度か深く息を吸ってから、Atlasは森の縁に残るまばらな獣影から目を離した。


「まだ動けるのは何人だ?」


鈴音は、横倒しになった木箱の陰に座っていた。膝に紙を置き、淡々と記録をつけている。字は普段どおり整っていたが、ペン先はいつもより深く紙へ食い込んでいた。


「主力班でまともに戦えるのは四割以下。後方支援で物を運べるのが二十七人。そのうち、武器を持たせれば第二線に立てそうなのが十一人。あと三十分で、砕岳槌の小隊が復活する」


そこで一度言葉を切る。


「晴れ晴れの治癒ポーションは底をついた。軍師によれば、砦からの補給が届くまで最低でも三十分」


「三十分か」


Atlasは乾いた笑いを漏らした。


少し離れた崩れ壁に、周がもたれかかっていた。盾を身体の前に立て、今にもそのまま眠り込みそうな姿だ。笑い声を聞いて、重たげにまぶたを上げる。


「団長。その笑い方、喜びには聞こえませんよ」


「喜びじゃないから。だが――」


Atlasは森へ視線を戻した。


「スタンピードのほうも、あと三十分はもたないだろう」



森の縁では、最後に残った魔獣の一群が、鉄山砦の主城壁から浴びせられる弩砲に押し戻されていた。


敗走ではない。


長く続いた災厄が、ついに力尽きようとしている。そんな光景だった。


城壁の上で、誰かが掠れた歓声をあげた。だが、すぐに将校の怒鳴り声がそれを押し潰す。


最後の一頭が倒れるまで、決して気を抜いてはならない。鉄山砦では、早すぎる歓声は次の瞬間、魔獣の牙に喉を食い破られる合図になりかねなかった。


それでも、誰の目にも分かっていた。


あと少しで、乗り切れる。


そのときだった。


巨獣の森の向こう側に、紫黒の炎が灯った。


森が燃えたのではない。


炎は空気そのものから滲み出した。はじめは細い一筋。それが瞬く間に広がり、遠い斜面を禍々しい光で染め上げる。


歪む光の奥から、黒い甲冑に身を包んだ人影が列をなして現れた。


人間よりもひと回り大きな身体。額や側頭部から伸びる湾曲した角。杖、長剣、軍旗が残照を受け、冷たい輝きを放っている。


城壁の兵が、ほんの一瞬だけ呆然とした。


次の瞬間、角笛の音が変わった。


「南西、新手だ!」


「魔獣じゃない!」


「術者がいるぞ!」


紫黒の火球が森を越え、ようやく持ち直したばかりの前線へ降り注いだ。


爆発が、疲れ果てた者たちを悪夢の底へ叩き戻す。


水を一口飲む暇すらなかったプレイヤーが爆風にさらわれ、泥の上を転がった。鉄山砦の弩兵隊が弦を張り替えているところへ黒炎が落ち、遮蔽用の木盾は半面が一瞬で歪な灰に変わった。


Atlasは腕を上げ、押し寄せる熱風から顔を庇った。


城壁の上で、風術師が広域伝声の魔法を発動する。


『魔族が巨獣山脈を越えて侵攻してきた! ローランド領主の援軍はすでにこちらへ向かっている! 戦線を死守せよ!』


周が悪態をついた。


その報せは陣地全体を大きく揺さぶった。


恐怖。怒り。絶望。そして、抗う意志。



魔族。


危険極まりない巨獣山脈と果てしない樹海の彼方に住み、一部の者にとっては昔話の存在でしかなかった種族が、攻めてきた。


これほどの大侵攻に、本当に前兆はなかったのか。


ローランド伯爵は、鉄山砦が力を使い果たす最後の瞬間まで、意図的に援軍を出さなかったのではないか。


疑念はいくらでも浮かぶ。だが、生死を分ける今この瞬間、それを問いただす余裕などどこにもない。


魔族もまた、鉄山砦に息を整える時間や、降伏を選ぶ猶予を与えるつもりはないようだった。


最初の魔族部隊が戦場へ雪崩れ込んだとき、第二遠征団は崩れた隊列のまま正面から受け止めるしかなかった。


魔族の前衛は、長年魔獣と戦い続けてきた鉄山砦の守備兵に比べれば、近接戦の腕で大きく劣っていた。なかには、その動きから星界の旅人特有の未熟さが透けて見える者さえいる。


だが、彼らは近接戦で勝つ必要などなかった。


前衛の役目は、最初の反撃を食い止めることだけ。


本当の脅威は、その後方にいた。


黒炎。氷槍。呪いのように蠢く暗色の鎖。


魔法の嵐が幾重にも、疲弊した鉄山砦の戦列へ叩き込まれる。


一人のドワーフ兵が盾を構えて突進した。だが盾を敵へぶつけるより先に、足元から噴き上がった黒炎に全身を呑まれた。


二人のプレイヤーが側面へ回ろうとする。盾列を離れた途端、身につけていた護符が同時に砕け、見えない手に引き倒されたように膝をついた。


「追うな!」


Atlasの怒号が飛ぶ。


「ここを守れ!」


だが、それさえ次第に難しくなっていく。


第二遠征団の強みは、組織力だった。連携し、穴を埋め、ただのプレイヤーの集まりを、鉄山砦の者たちが前線を任せられる戦力へと鍛え上げてきた。


今、彼らが相手にしているのは、同じようにプレイヤーを知り、戦場を知り、どの瞬間に息の根を止めるべきかを知る敵だった。


そして何より、こちらは全員が疲れ切っている。



陣地の後方では、晴れ晴れが短杖を握っていた。その先に灯る光は、術を使うたび弱くなっていく。


死の淵にいたNPCの弩兵をどうにか引き戻した直後、彼女の指が小さく震えた。


鈴音がその腕を支える。


「少し休んだほうがいい」


「そしたら、誰がこの人たちを助けるの?」


鈴音は口を開き――何も言えず、閉じた。


そのとき、空が一瞬だけ暗くなった。


雲ではない。


飛行魔獣でもない。


鉄山砦の南西。魔族陣営の後方に、漆黒の亀裂が音もなく生まれていた。


あまりに静かな出現だった。


戦場は爆音と喊声で満ちている。糸ほどの細い亀裂に、すぐ気づいた者はほとんどいなかった。


だが、黒い筋が突如として左右へ大きく開き、空気を音もなく吸い込み始める。近くにいた魔族術師たちの炎が一斉に傾き、そこでようやく異変に気づく者が現れた。


双角を生やし、濃紫の長衣をまとった指揮官が振り返る。


次の瞬間、亀裂から黒い前脚が一本、ぬっと突き出た。


続いて姿を現したのは、巨大な黒猫だった。


普通の黒豹よりも、はるかに大きい。背骨に沿って並ぶ骨の鰭が夕闇のなかで冷たく光り、断ち切られた尾がゆらりと揺れた。まるで、戦場に漂う雑多な臭いを嫌がっているかのようだった。


魔族の指揮官は、命令を最後まで口にすることさえできなかった。


背後に、再び亀裂が開く。


そこから伸びた手が外套の襟首を掴み、穀物袋でも扱うような気軽さで、指揮官を闇の向こうへ引きずり込んだ。


空間が閉じる。


指揮官は消えた。


魔族陣営が、束の間の静寂に包まれる。


そして、二つ目の亀裂が開いた。


今度は大規模魔法陣を維持していた術師だった。周囲には四人の護衛。足元には複雑な紫の術式が広がっている。


黒い線が魔法陣の中央を走り、紙を刃物で裂くように術式を断ち切った。


護衛たちが武器を構えたときには、術師の身体はすでに半分まで亀裂へ呑まれていた。


術師は恐怖に顔を歪め、仲間の手首を掴む。


だが、引き止めることはできなかった。


三つ目。


四つ目。


五つ目。


黒い亀裂が、魔族陣営のあちこちで次々と口を開いた。


規則性などない。軍旗の背後に現れたかと思えば、魔法陣のど真ん中を切り裂き、見るからに地位の高そうな者の足元を掠めるように走る。


湾曲した角を生やした者。立派な甲冑をまとった者。杖を手にし、明らかに指揮権を持つ者。


重要人物ばかりが、次々と呑み込まれていった。


殺されているのではない。


攫われている。


魔族の前線は、一気に混乱へ陥った。


彼らとて空間魔法への対処を知らないわけではない。高位術師たちは即座に障壁を展開し、周囲の空間を固定しようとした。長杖を地面へ突き立てる者もいる。黒紫の光紋が地を這うように広がっていった。


しかし、黒豹はすでにそこにはいなかった。


一つの亀裂へ飛び込み、別の亀裂から飛び出す。その姿は陣地を駆け抜ける黒い稲妻そのものだった。


黒豹が着地するたび、周囲の空間がざわめき立つ。より原始的で、より獰猛な何かが、世界そのものへ爪を立てているように。


そして実際に人を攫うあの手は、いつだって理不尽としか言いようのない場所から伸びてきた。



鉄山砦の城壁では、誰もが言葉を失っていた。


周は盾を構えたまま、たっぷり二秒ほど無表情になった。


「あれ……劉か?」


Atlasは混乱する魔族陣営を見つめながら、以前、周から紹介されたプレイヤーを思い出していた。


プレイヤーネームは【狂想の主】。


奇妙な魔法を使い、近接戦の腕も立つ。そして、本物のブラックシャドウを連れている。


ただし、その黒豹はあまり言うことを聞かないうえ、本人は空間魔法など使えなかったはずだ。


それから十五分後。


攫われた最初の魔族指揮官が、鉄山砦の城壁へ姿を現した。


正確には、城壁へ落ちてきた。


守備兵たちの背後に黒い亀裂が開き、双角の指揮官が宙から転がり出る。外套はくしゃくしゃに乱れ、顔には消えきらない怒りと困惑が浮かんでいた。


起き上がろうとした瞬間、三本の槍、二枚の盾、そしてドワーフ兵の斧の腹が、いっせいにその身体を石床へ押さえつけた。


「縛れ!」


ホーンは、すでに潰れかけた声で叫んだ。


二人目。


三人目。


明らかに身分の高そうな魔族が、次々と城壁へ放り出される。


杖を握ったままの者。半分消えかけた障壁をまとった者。呪文を唱えようと口を開き、目ざといプレイヤーにぼろ布を突っ込まれた者までいた。


驚愕から立ち直ったあとの鉄山砦守備兵は、呆れるほど迅速に動いた。


何が起きているのかは分からない。


ただし、城壁へ送り届けられた魔族を二度と帰してはならない。それだけは、全員が理解していた。


やがて魔族の攻勢は途切れた。


まず術式の連携が崩れ、次に命令を失った前衛が動きを止める。それから、鉄山砦へ迫っていた黒炎が一つ、また一つと消えていった。


遠くではスタンピードの生き残りが咆哮している。だが、魔族部隊は戦列を立て直すため、後退せざるを得なかった。


黄昏の最後の光が、山稜の向こうへ沈んでいく。


鉄山砦の前線から歓声はあがらなかった。


皆、あまりにも疲れすぎていた。そして、生き延びたことを信じるには、あまりにも多くを耐えすぎていた。



戦場がようやく静けさを取り戻した頃。


後方の野営地に、聞き覚えのある声がのんびりと響いた。


「誰かいる?」


晴れ晴れは負傷者の治療に追われ、野営地を走り回っていた。顔を上げると、入口から一人のプレイヤーが歩いてくる。


全身は埃まみれ。服の端には、焼け焦げた穴がいくつも開いていた。


傍らには、あの黒豹がいる。


歩みはゆっくりで、少し散歩に出て戻ってきただけとでも言いたげだ。背中の骨鰭は寝かされ、口元にはどこでつけたのか分からない黒い煤が残っている。


劉も似たようなものだった。頬には浅い擦り傷。髪は嵐にでも巻き込まれたように乱れている。それでも表情だけは、妙にのんびりしていた。


辺りを見回し、焚き火のそばに置かれた焼き網を見つける。


「晴れ晴れ、だよな?」


劉は軽く手を挙げた。


「ちょっと悪いんだけど」


晴れ晴れは彼を見つめたまま、言葉を返せなかった。


劉はごく自然に火のそばへしゃがみ込み、両手を擦り合わせる。


「何か食べるもの、残ってない?」


黒豹が隣に腰を下ろし、短い尾の先で地面を軽く掃いた。


劉は少し考えてから、付け加えた。


「できれば、多めに。こちらの旦那も腹が減ってるみたいだから」

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