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誰も導かなかった世界で、俺たちは答えを与えなかった 救わない勇者たちが世界を変えた理由  作者: 慈架太子


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教国の断罪

広間は、埋まっていた。


かつて神の栄光を讃える賛美歌が鳴り響き、香炉の煙が幾重にも重なっていた大聖堂。今はそのすべてが消え失せ、ただ重苦しい人の気配だけが充満している。

神官たちが、その位階に応じた場所に立っている。

信者たちが、石床の上に隙間なく座り込んでいる。

数千の人間がそこにいながら、広間は驚くほどに静かだった。誰も、声を出さない。咳払い一つ、衣が擦れる音一つさえ、誰かの神聖を汚すことを恐れるような静寂。


中央に、アリアが立っていた。

かつてその身を包んでいた豪奢な法衣も、権威を示す錫杖も、今は一分子も身につけていない。泥に汚れた質素な服を纏い、武器も持たず、ただ一本の杭のようにそこに立っている。

無数の視線が、彼女という一点に集まる。

非難、困惑、あるいは縋るような期待。

アリアは、そのすべてを逸らさない。逃げ場のない視線の渦の中で、彼女は真っ直ぐに前を見据えていた。


「……」


アリアは、しばらく何も言わなかった。

ただ、深い肺の底から静かな呼吸を繰り返す。そのわずかな胸の上下だけが、彼女が生きていることを示していた。

やがて。

乾いた空気を裂くように、彼女が口を開く。


「……救済は、嘘だった」


静かな声。

しかしそれは、大聖堂の巨大な石柱を伝い、高い天井に撥ね返り、広間の隅々にまで冷徹に落ちていった。

誰も、動かない。

心臓が止まったかのような静止。あまりにも巨大な否定を突きつけられ、人々の脳は処理を拒絶していた。


「……救われると、言った。この教国に従い、法を守り、祈りを捧げれば、魂は救われると」

「……信じれば、痛みは消え、報われると言い続けた」


一拍。

アリアの瞳が、わずかに潤んだように見えたが、その光はすぐに冷たく研ぎ澄まされた。


「……違った。それは、一分子の真実も含まぬ欺瞞だった」


沈黙。

信者の中で、耐えきれずにわずかに体を揺らす者がいる。口を震わせ、今にも叫び出そうとする者がいる。

それでも、声は出ない。

彼女の放つ言葉が、彼らの人生を支えていた土台を、一寸の猶予もなく削り取っていく。


「……私は」


言葉が、続く。

堰を切ったように、彼女の内側から溢れ出す。


「……見ていた。救われぬ者が、泥の中で死んでいくのを。知っていた。私たちが語る奇跡が、ただの偶然か、あるいは巧妙な演出に過ぎないことを」


空気が、変わる。

それは絶望という名の重圧となって、広場にいた全員の肩にのしかかった。


「……それでも」


アリアは、一度だけ目を閉じた。

瞼の裏に浮かぶのは、かつて自分が無理やり祈らせ、死へと送り出した無数の顔。


「……私は、言わなかった。真実を告げる代わりに、私は人々に祈らせた。……従わせた。神の名を使えば、人は簡単に思考を捨て、自らを差し出すからだ」


声が、地の底を這うように落ちる。


「……そうして私は、お前たちの人生を、心を、この手で壊したのだ」


誰も、否定しない。

彼女を「そんなことはない」と擁護する者も、「お前のせいだ」と罵る者もいない。

あまりにも純粋な、剥き出しの告白。

アリアは、目を開ける。

前を見る。逃げも隠れもしない。


「……これは、神の意志ではない。神が沈黙しているのをいいことに、私が、私たちが選んだ、あまりにも醜い選択だ」


言い切る。

広間は、静かだ。

泣き崩れる者も、暴れる者もいない。

それでも。

何かが、音もなく崩れ落ちている。

人々の胸の中にあった、形のない、しかし強固だった拠り所が、一分子の残骸も残さず消滅していく。


一人の年老いた信者が、座ったまま、掠れた声で言った。


「……じゃあ」


言葉が、止まる。

震える唇を噛み締め、震える手で地面を叩く。


「……我々が捧げてきた時間は、失った家族への祈りは、何だったんだ。……何のために、我々は生きてきたんだ」


答えは、ない。

アリアは、その問いを正面から受け止めたまま、ただ見つめている。


「……嘘だった。それ以外に、言葉はない」


それだけ。

誰も、叫ばない。

誰も、泣かない。

あまりにも巨大な絶望は、感情を表に出すことさえ許さない。

ただ。

崩れる音がしない崩壊が、静かに、確実に起きている。

精神の支柱を失った人間たちが、魂の抜け殻のようにその場に停滞している。


神官たちが、石像のように立っている。

動かない。

その中の一人が、耐えきれずにゆっくりと膝をついた。

それでも、声は出ない。

自分の人生そのものが、一つの巨大な犯罪加担であったことを、彼は認めざるを得なかった。


アリアは、動かない。

人々の憎しみも、虚無も、すべてを自分の体で引き受けるように、ただそこに立っている。

逃げない。

それが、彼女にできる唯一の、そして最後の贖罪だった。


カイは、広間の遠い影からその光景を見ていた。

何も言わない。

神を殺すのではなく、神という名の幻想を、その担い手自らが解体する。

その冷徹なまでの誠実さを、彼は見届けていた。


ミーナは、静かに目を伏せる。

真実が必ずしも人を救わないことを、彼女は知っていた。

アリアの言葉は、人々を自由にしたかもしれないが、同時に彼らから唯一の安らぎを奪い去った。


マーガレットは、動かない。

かつて自分が仕えた騎士の、その壮絶な「断罪」の姿を。

逸らさずに見つめ続けていた。


ユークスが、医療鞄を握り直し、低く呟いた。


「……壊したな。目に見える建物ではなく、目に見えない世界の理を、根こそぎな」


リーヴは何も言わず、ただ街を吹き抜ける、祈りの消えた冷たい風を感じていた。

ガルドは、無造作に新しい道具を置き去る。その音が、広場の沈黙を虚しく叩いた。


時間は、静かに、重厚に過ぎていく。

誰も、祈らない。

かつては数分おきに誰かが唱えていた聖句も、もう一分子も聞こえない。

誰も、言葉を使わない。

何を言っても、それは昨日までの「嘘」の延長に思えてしまうからだ。


神は、否定されていない。

天に神がいるかいないか、そんなことはもうどうでもよかった。


ただ。

信じられなくなっただけだ。

神を語る人間の言葉が、救いという名の物語が、もはや誰の心にも届かなくなった。


その日。

教国は、崩れた。

石の壁が崩れたのではない。

その国を支えていた「思想」という名の背骨が、粉々に砕け散ったのだ。


そして。

それは、二度と戻らなかった。

一度自分の足で立ち、冷たい真実を飲み込んだ者は、二度とあの甘い偽りの救済を欲しがることはない。

人々は、空っぽになった大聖堂を、一人、また一人と去っていく。

アリアは、誰もいなくなった広間の中央で、独り、消えない罪を背負ったまま立ち続けていた。

天は相変わらず高く、そして何も語らない。

それが、新しい世界の、あまりにも静かで残酷な始まりだった。




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