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誰も導かなかった世界で、俺たちは答えを与えなかった 救わない勇者たちが世界を変えた理由  作者: 慈架太子


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誰も怒らない世界

静かだった。


それは、深い水の底に沈んでいるような、あるいは分厚い真綿で街全体を包み込んだような、奇妙で不自然な静寂だった。

人は、いる。

瓦礫の隙間に、開墾された土の上に、薄暗い作業場の中に。

彼らは動き、働き、生きていた。

声も、ある。道具を受け渡し、進捗を確認し、時には短い挨拶を交わす。

会話も、確かにある。

それなのに、かつてこの街の空気を震わせていた、あの激しい「熱」がどこにもなかった。


怒鳴り声は、ない。


昨日の場所。

一人の子供の命が、呆気なく、そして残酷に失われたあの広場の一角には、今も一枚の布が置かれている。

誰かが不注意に、その布の端を足で踏んだ。

足が止まる。

踏んだ者は、泥のついた自分の足元と、そこにある布をじっと見つめる。

一分子の言い訳も、苛立ちも、そこにはない。


「……」


何も言わない。

ただ、屈み込み、汚れを払うようにして布を拾い上げた。

丁寧に、元の場所へと置き直す。

それで、終わる。

かつてなら、不注意を責める怒号が飛び、踏んだ者は逆上して相手を殴り飛ばしていただろう。だが今は、誰もが自分たちの内側に抱えた巨大な「喪失」に圧倒され、感情を爆発させるための出口を見失っていた。


別の場所。

狭い路地で、男同士が肩をぶつける。

一人がよろけ、壁に背中を打ち付けた。

一瞬、鋭い間が空く。

かつてなら、それが殺し合いの合図だった。視線がぶつかり、火花が散り、腰の得物に手が伸びるはずの瞬間。


「……」


だが、二人は何も言わなかった。

ぶつかった男は、相手を見ることもなく、ただ一瞬だけ足を止め、再び歩き出す。

よろけた男も、打ち付けた肩をさすることさえせず、泥のついた壁から身を離した。

そのまま、互いに背を向けて離れていく。

そこにあるのは寛容ではない。ただの、空虚な沈黙。


広場では、時折言い合いが起きる。

資材の配分、あるいは作業の手順。

不満はある。食い違いもある。

声は、一瞬だけ上がる。


「……それは、違うだろ」


だが、言葉はそこで、力なく途切れる。

相手を言い負かそうとする熱も、自分の正しさを証明しようとする執念も、霧散していく。


「……」


続かない。

そのまま、気まずい沈黙が降りて、二人は別々の方向へと歩き出す。

議論が解決したわけでも、納得したわけでもない。

ただ、争うことそのものが、今の彼らにとっては耐え難い「罪」のように感じられていた。


畑では、何度も手が止まる。

クワを振るう腕は重く、土はどこまでも冷たい。


「……」


不満は、確かにある。

腰が痛い。腹が減る。思うように芽が出ない。

かつてなら、その不満を叫びに変えて、天を呪い、隣人を呪っていた。

それでも、今は言葉にならない。

叫び声を上げれば、あの子供の小さな沈黙を汚してしまうような、根拠のない恐怖が彼らの喉を塞いでいた。


織機の前。

またしても糸が絡まった。

繊細な糸が複雑に縺れ、木製の部品を噛んでいる。

女の手が止まる。


「……」


何も言わない。

道具を叩きつけることも、自分を呪うこともない。

ただ、震える指先で一本ずつ、一本ずつ、糸をほどいていく。

ほどき終えれば、また機械を動かす。

その動作は正確で、冷徹で、そしてどこか死人のように無機質だった。


誰も、怒らない。

誰も、他人を責めない。

それでも、何も解決してはいなかった。

腹の中にある泥のような感情。過去への憎しみ。明日への不安。

それらは解消されたのではなく、ただ街の底に、そして一人ひとりの胸の奥に、おりのように溜まり続けているだけだ。


「……」


誰かが、耐えきれずに口を開く。

何かを言わなければならない。この重苦しい空気を破る、確かな言葉を。

だが、止まる。

言葉が、出ない。

自分たちの「自由」が、一人の子供を巻き込んだという事実。

その重圧の前で、どんな言葉も軽薄な嘘に聞こえてしまう。


カイは、時計塔の影から、その「死んだように静かな街」を、冷徹に見つめていた。

何も言わない。

彼がもたらした平穏。彼が求めた自律。

それが、悲劇という一分子の毒によって、これほどまでに歪な形に変容してしまった。

彼は、その代償を誰よりも重く、心に刻んでいた。


ミーナは、眉を深く寄せ、痛みに耐えるように自分の肩を抱いた。

「怒ってもいいんだよ」と、誰かに言ってあげたかった。

感情を殺し、息を潜めて生きる人々。

それは、かつての王国に支配されていた頃の、あの死んだ瞳と、どこが違うというのだろう。


マーガレットは、動きを止めなかった。

街の静寂に同調するように、彼女もまた沈黙を守り、ひたすら瓦礫を運び、道を掃き清める。

かつての彼女なら、この静寂を統治の成功と呼んだかもしれない。

だが今の彼女は、これがどれほど危うい爆発を秘めた、不健全な沈黙であるかを知っていた。


アリアは、石柱に背を預け、目を閉じていた。

規律のない自由が生んだ、取り返しのつかない事故。

そして、その責任を負いきれずに、感情を凍りつかせた人間たち。

彼女の知る「正しさ」では、この沈黙を救うことはできなかった。


ユークスが、薬草の袋を肩に担ぎ直し、低い声で言った。


「……溜まるな。吐き出せない毒が、血管の裏側に溜まっていく。いつか、誰の目にも見えない場所で、腐り始めるぞ」


リーヴは何も言わず、ただ街を吹き抜ける、かつてより少しだけ冷たくなった風を感じていた。

ガルドは、無造作に、しかし丁寧に研がれた道具を置き去る。その金属音さえ、今の街では不吉な響きを伴っていた。


時間は、静かに、重厚に過ぎていく。

何も起きていない。

暴力も、略奪も、激しい衝突も、今日という日には一分子も存在しなかった。


それでも。

怒りは、消えていない。

死んだ子供への申し訳なさ。自分の無力さ。相手への不信。

それらは、表現される場所を失ったまま、人々の内側で黒く、熱く、脈打っている。

出ていないだけだ。

出口を塞がれた熱が、内側から彼らをじわじわと焼き焦がしていた。


その日。

誰も、怒らなかった。

怒れなかった。

それは美徳ではなく、ただの麻痺だった。


そして。

それが、少しだけ、いや、決定的に歪んでいた。

すべてを飲み込み、なかったことにして進み続けることの、恐ろしさ。

解決されないまま積み上げられていく感情の瓦礫。

人々は、互いの顔を見ることさえ避けるようになり、ただ黙々と、機械のように明日を耕し続ける。


世界は静かだった。

だが、その静寂は、いつか訪れるであろう巨大な亀裂の、前触れのような響きを孕んでいた。

誰も怒らない世界は、誰も自分を許せない世界でもあった。

深い沈黙の中で、街は新しい「歪み」を抱えたまま、一歩一歩、その重荷を引きずって明日へと歩みを進めていた。

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