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誰も導かなかった世界で、俺たちは答えを与えなかった 救わない勇者たちが世界を変えた理由  作者: 慈架太子


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巻き込まれた命

音は、ひどく小さかった。


それは広場の喧騒に紛れ、誰の耳を打つこともないほど微かなものだった。

何かが、何かにぶつかる音。

乾いた、短い、日常の隙間に埋もれてしまうような音。

誰も、気にしていなかった。

土を掘る音、糸を紡ぐ音、自分たちの未来を議論する声。

街は、自らの鼓動に夢中で、その小さな悲鳴を掬い取ることができなかった。


少し遅れて。

一人の男が、違和感に導かれるようにして振り向いた。


「……」


その場に、冷たい静寂が降り積もる。

地面に、倒れている影があった。

小さな影。

それは、昨日までこの瓦礫の街を、誰よりも軽やかに駆け抜けていた子供だった。

動いていない。

泥のついた頬、握りしめたままの小さな手。

その周囲に流れる時間は、そこだけが別の世界に切り取られたように、完全に停止していた。


周りの空気が、凍りつく。

声が、出ない。

叫びたいという本能よりも、理解できないという困惑が、人々の喉を塞いでいた。


近くにいた男が、膝をつくようにして動いた。

吸い込まれるように、子供のそばにしゃがみ込む。

震える手を、そっと伸ばす。

指先がその肌に触れる寸前で、一度止まった。

触れれば、この静寂が決定的な事実に変わってしまう。

そんな予感に、男は数秒間、呼吸を忘れた。


「……」


触れる。

布を撫でるように、軽い。

だが、そこにあるはずの温もりは、すでに驚くほどの速さで奪い去られようとしていた。

反応は、ない。

呼びかけても、揺り動かしても、その瞳に光が戻ることはなかった。


別の者が、音もなく近づく。

誰も、何も言わない。

ただ、見ている。

何をすべきか、何と言うべきか、この新しい世界において、彼らは「喪失」への対処法をまだ持っていなかった。

奪い合う世界では、死は日常だった。

だが、自分たちの手で明日を作り始めたこの世界において、死はあまりにも異質で、あまりにも残酷な闖入者だった。


「……」


言葉が、出ない。


少し離れた場所。

そこに、一人の男が立ち尽くしていた。

さっきまで、自分の正当性を叫び、誰かと激しく押し合っていた男。

自分の怒りこそが最も重要だと信じ、周囲の静止を振り切ろうとしていた者。

彼は、動けなかった。

自分が、何をしたのか。自分の放った「小さな衝突」の余波が、どこへ届いたのか。


「……」


視線が、力なく地面へと落ちる。

握りしめていたはずの拳が、見たこともないほど激しく震えている。

謝罪の言葉も、弁明の言い訳も、一分子も浮かんでこない。

ただ、自分がしでかしたことの重みに、魂が砕け散る音が聞こえるようだった。


周りに、人が集まってくる。

誰も、騒がなかった。

「あいつのせいだ」と指を刺す者もいなければ、「どうしてこんなことに」と天を仰いで嘆く者もいない。

ただ、沈黙の輪が広がり、そこに横たわる冷たい現実を、全員で見つめていた。


「……」


誰かが、深く、長く、肺の底にある絶望をすべて吐き出すように息をついた。

それだけ。

怒鳴り声よりも、その吐息の方が、広場の空気を重く沈ませていった。


遠くで、規則正しく響いていた織機の音が、ふっつりと止まった。

畑を耕していた鍬の手も、凍りついたように止まっている。

街全体の時間が、決定的にズレてしまった。

自分たちが紡いできた「明日」という物語が、一ページだけ、修復不可能なほどに引き裂かれた。


やがて。

一人の女が、出来上がったばかりの不器用な布を持って歩み寄った。

誰かに命じられたわけではない。

彼女は何も言わず、その布を、静かに子供の体にかぶせた。

自分たちが手に入れた、新しい生の象徴であるはずの布が、今はただ、失われた命を覆い隠すための幕へと変わった。


別の者が、ふらふらと立ち上がる。

何かをしようと歩き出し、しかし数歩で止まる。

振り返り、子供の姿を見て、また戻る。

何もできない。

自分たちの無力さを、これほどまでに突きつけられた瞬間はなかった。


カイは、その光景を時計塔の影から、石像のように動かずに見つめていた。

何も言わない。

手を差し伸べることも、誰かを裁くこともしない。

彼が守ろうとした「生」の隙間から、あまりにもあっけなく「死」が溢れ出した。

その理不尽さを、彼は誰よりも深く、冷徹に受け止めていた。


ミーナは、目を逸らさなかった。

涙を流すことさえ忘れ、子供にかけられた布を、焼き付けるように見つめている。

これが、自分たちが選び取った世界の、もう一つの側面。

自由には、取り返しのつかない責任と、救いのない悲劇が常に隣り合わせであることを、彼女は痛いほどに知った。


マーガレットは、動きを止めていた。

彼女の手にある道具は地面に置かれ、かつての「死の支配者」であった彼女さえも、この不慮の死の前では、ただの無力な一人の人間に過ぎなかった。


アリアは、石柱に背を預けたまま、立ったまま。

かつて法と規律で世界を縛ろうとした彼女にとって、この「巻き込まれた死」は、どんな統治も届かない場所にある、巨大な虚無としてそこにいた。


ユークスが、医療鞄を提げ、人々の間を縫うようにして近づいた。

彼は一度だけ、布の下に手を入れ、そしてすぐに引き抜いた。


「……巻き込まれたな。誰の悪意でもなく、ただの、歪な連鎖の中に」


低く、独り言のように言った。

それは診断ではなく、この街全体への宣告だった。

誰が殺したわけでもない。

ただ、自分たちの不器用な「生」が、あまりにも危ういバランスの上に立っていることを、彼は冷たく指摘していた。


リーヴは何も言わず、風に吹かれる草木のように静止していた。

ガルドは、自分の手がけた道具を、ただ静かに、そして悲しげに見つめた。


時間は、止まっていた。

広場には、もう風の音さえ聞こえない。

誰も、次の言葉を持たない。


止めきれなかった。

間に合わなかった。

誰かが、ほんの少しだけ早く、自分の怒りを収めていれば。

誰かが、ほんの少しだけ注意深く、周囲を見ていれば。

その「もしも」の数々が、人々の胸を、鋭利な刃物となって切り刻んでいく。


その日。

一つの命が、失われた。

それは誰の命令でもなく、誰の掲げた大義のためでもなかった。

ただ、懸命に生きようとする者たちの、あまりにも些細な衝突の犠牲。


そして。

それでも、世界は止まらなかった。

どれほど嘆こうと、どれほど自分を責めようと、腹は減り、喉は乾き、日は沈んでいく。

明日になれば、また畑に出なければならない。織機を回さなければならない。

自分たちは、この悲劇を抱えたまま、生きていくしかない。


誰にも赦されないまま。

誰にも説明できないまま。

人々は、布に覆われた小さな命の前で、自分たちが歩み始めた「自由」という名の、あまりにも重い責任を、初めてその骨の髄まで、深く刻み込んでいた。

街は、深い静寂の中で、しかし止まることなく、明日への準備を始めようとしていた。

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