兄と弟
突如夜会会場に出現した弟の姿を認め、ボクは心の中でナタリアに向かって手を合わせた。
やっぱり逃げられなかったか、ご愁傷さま。あの弟から逃げようというのが、どたい無理な話なのだ。ナタリアもいい加減に諦めてしまえば、ボクみたいに楽になれるのに。ボクなんてナルサスが1歳の時には白旗上げてたからな。あの頃からナルサスは怖かった……。
弟が赤ん坊だった頃を思い出し、ボクは部屋の寒さよりも恐怖に身震いした。
思えばナルサスは、生まれた時から変わった赤ん坊だった。生まれたばかりの赤ん坊なんて泣くか眠るかだが、ナルサスは殆ど泣かなかった。それだけなら機嫌の良い子だが、ナルサスは起きている時は常に周囲を観察していた。ベビーベッドを覗き込むボクの顔色を窺い、家族の会話にじっと聞き耳を立てていた。
そんな赤ん坊だったから、ボクはナルサスを不気味な子だと思っていた。だけど両親に伝えても全く相手にしてもらえず、皆が弟に構うから拗ねているのかと言われる始末。でも、そんな両親も、じきにナルサスの異常性を知ることとなる。
それはボクとナタリアの婚約発表の日だった。親戚一同が集まっているから丁度良い機会だと、生まれて1ヶ月のナルサスもお披露目に連れて来られたのだ。
皆がベビーベッドの周りに集まって、そこにボクとナタリアもいた。ボクは幼馴染みのナタリアが大好きで、彼女と婚約出来たことに浮かれていた。皆がナルサスに注目する中、ボクだけはナタリアと繋いだ手を見つめていた。そのボクの横顔に、一瞬刺すような痛みが走った。
ボクはびっくりして顔を上げ、辺りをきょろきょろと見回した。そしてボクを凍えるような目で見上げているナルサスに気がついたのだ。
ボクは怖くなって、ナタリアと手を繋いだままその場を離れようとした。すると。
「オギャーッ!!」
産声以来初めて、ナルサスが泣いた。ボクは思わず足を止めた。するとナルサスは泣き止む。離れようと一歩踏み出すと泣く。止まると泣き止む。
「あらあら、お兄ちゃんと離れたくないのね」
母がそんな呑気なことを言ったが、ボクにはそうは思えなかった。さっきの凍りつくような視線には、はっきりと憎しみが篭っていた。
親戚の伯父さんの余計なお節介で、ボクはベビーベッドの側に連れ戻された。そしてこれも余計なことに、ナルサスを抱っこさせられる。ナルサスは無表情だった。ボクを見ようともせず、ナタリアだけをじっと見ていた。それに気づいた母が、ナルサスをナタリアに抱っこさせると。
「可愛い。笑ってるわ」
そう、ナルサスは生まれて初めて笑っていた。そこまでは、少なくともボク以外にとっては、祝いの席のほのぼのとしたひとコマだったのだ。ナタリアから離される度にナルサスが大泣きし、室温が氷点下に下がるまでは。
部屋の中が吹雪いてくると、さすがの脳天気な両親も、これは異常事態だと理解した。直ぐ様高名な魔術師が呼ばれ、原因究明を求められた。ボクが強硬に言い張ったのでナルサスが調べられ、弟の魔力が一国を滅ぼす程のものだと判明する。
だがナルサスは魔法を封じる処置もされず、閉じ込められることもなかった。王宮から魔術師やら魔導師やらがわらわら家に来ても、全員が青い顔で帰っていった。そして王命が下された。ナタリアがボクの家に住み込んで、ナルサスの世話をするように、と。
それからずっと、ナルサスはナタリアにベッタリだ。ボクは初めのうちこそナタリアと過ごす時間が増えて嬉しかったが、そこには常にナルサスもいて、ボクを見張っていた。ボクがナタリアに触れようとするだけで泣き叫び、霜を降らせ床を凍らせた。そして忘れもしない、ナルサスが1歳になったある日。
「ナタリアは僕のお嫁さんだから。兄さんは僕が大きくなるまでの仮の婚約者なんだから、ナタリアに手を出そうなんて思わないでね。僕、色々抑えられなくなるから」
殺気と冷気を漂わせながら耳元で囁かれ、ボクの初恋は終わりを告げた。
それからのボクは、ナタリアへの縁談避け用の仮婚約者に徹した。ナタリアとの必要以上の接触は避けつつ、不仲だと思われて横恋慕されないように細心の注意を払ってバランスを取った。そうやってボクが神経を擦り減らして演じた結果、ボクとナタリアはきちんと節度あるお付き合いをしている理想的な婚約者だと称えられるようになった。だが現実には、ボクとナタリアは、如何にナルサス絡みの面倒事を避け、胃痛を抑えるか協力する同志だった。つい先日までは。
「ごめんなさい、ニコラス。私にはもう無理、だから逃げるわ!」
その一言で、ナタリアがボクの胃に穴を開けるまでは。




