後編
「わかったから、もう泣くな。」
レイモンドは確かにそう言った。
そして彼女が泣き止むまで抱きしめてくれた。
実際は、マーガレットはあまりに驚いて涙などすぐに引っ込んでいた。
彼女は顔が赤くなるのを意識せずにいられない。彼に対する怒りにも似た感情が浮かぶ。
「離して。」
「ああ。大丈夫か?」
レイモンドはマーガレットの瞳を覗き込む。
彼の、彼女を本心から心配する目がまともに見つめてくる。マーガレットには耐えられなかった。
「わたしは大丈夫よ。だって目にゴミが入っただけなんだから。」
彼女は急いで視線を外す。
レイモンドは困ったように言った。
「ゴミは取れたのか?」
「ええ。涙で流れたわ。」
彼は彼女を見て笑った。
春によく向けてきた幼い少年のような、無防備な微笑み。
それは彼が昨日やって来て、初めて彼女に見せる笑顔だった。
「よかったな。」
(なんて人なの。)
マーガレットは瞳を奪われてしまう。
どうしたらいいのかわからない。ただ、どうしようもなく恥ずかしい。
「お〜い。何してるんだ。二人共?」
アレックスがマーガレットとレイモンドを捜しに来た。
「何をやって・・・?」
レイモンドが兄の方に顔を向けてにこやかに言う。
「マーガレットが目にゴミが入ったらしく泣いていたんだ。」
アレックスはエメラルドブルーの瞳を思い切り見開いた。
「何だって?おい、レイ。こっちに来て。」
そして恐い顔をしてレイモンドを隅の方へ連れて行く。そのまま赤い顔のマーガレットを置いて、こそこそと話し始める。
彼女は不安になってきた。何か良くないことでもあったのだろうか。兄が何故あんな顔をするのかわからない。
その時、レイモンドの声が耳に飛び込んできた。
「何、訳わからないことを言ってるんだ?俺はただ、ベスもよく震えて泣いてたから、その時と同じように・・。」
(今、ベスって言ったわ。)
マーガレットは頭が真っ白になった気がした。
そして突如、レイモンドの行動の意味を理解した―――。
彼には彼女が寒さに震えるベスに見えたのだ。ただ小さい生き物を哀れんで接しただけだった。
マーガレットは気が付くとレイモンドの頬を力いっぱい叩いていた。
「大嫌いっ。」
驚いた彼と目が合う。
レイモンドは叩かれて赤くなった頬を押さえもせず、マーガレットを見ていた。その目は信じられないとでも言いたそうだった。
マーガレットは彼を睨むと走りだす。少しでも彼から遠くに離れたくて。
アレックスとレイモンドが慌てて追い掛けて来たが、彼女は二人の顔を見るのも嫌がって暴れた。
彼らは取り付く島もないマーガレットを、茫然と見送るしかなかった。
彼女は走りながら思い出す。
(おかしいと思ったわ。お兄様が、あの人はレディが苦手だと言っていたもの・・・。)
レイモンドは何の躊躇もなくマーガレットを抱き締めた。顔には恥じらいも照れもなく、とても自然で寧ろ手馴れていた。
当然だ。
彼にとってマーガレットはレディじゃない。小さな保護してあげなければならないベスと同じ。
マーガレットは自分が馬鹿だと思う。そんなことも気付かずに顔を赤らめるなんて・・・。
本当にお目出たい。
周りの景色が滲んで見えにくくなる。
彼女は立ち止まって頬に手を当てた。そして気付く。
(わたし泣いてる・・)
いつの間にか彼女の目に涙が溢れていた。
その涙は、先程彼らとはぐれた時に流した涙とは全然違う。
次から次へと出てくる涙が、どう願っても止まらなくて彼女は途方に暮れる。
マーガレットはいつまでも零れる涙を、為す術もなく流すしかなかった。
*
マリアは部屋に戻ってきた彼女を見て驚いて駆け寄った。
「お嬢様、一体どうされたのですか?」
マーガレットは涙でぐしゃぐしゃになった顔を隠そうともせず言う。
「そんなに・・ひどい?」
「え、ええ、そう・でもないですわね。ちょっと冷やせば大丈夫です。」
「マァリア〜」
マーガレットはそのままマリアにしがみついて思い切り泣く。
「お嬢様。」
マリアは驚きながらも、マーガレットを受け止めて、優しく彼女に尋ねた。
「本当にどうなさったのですか。悲しいお話でも読まれたのですか?」
「うっ、うっ、そうね。とても悲しかった。」
(どうして、こんなに悲しいのかしら?)
マーガレットにはわからない。何故涙が止まらないのか。
「まあ、そうですか。失恋のお話だったのでしょうか。」
「失恋?」
マーガレットは驚いてマリアを見た。
「ええ。お嬢様が読まれるご本と言うと、あの・・そうですか、・・姫と騎士は結ばれなかったのですね。」
マリアは一人で納得して落ち込んでいるようだ。
「姫のライバルが騎士と結ばれたのですか?」
「いいえ、違う。ライバルは・・ライバルは姫に負けたわ。」
マーガレットはそう言うと、うわーんと子供のように泣き出した。
マリアは全くわからないと言いたげに困った顔で彼女を見ていた。
(姫に負けた・・・ううん違う、失恋したんだ)
(わたし、失恋したんだわ。)
マリアは静かに扉を閉めて部屋を出た。
「マリア。」
彼女の姿を見て待ちかねたように近付いて来る人影があった。
アレックスとレイモンドだ。
二人は汗ばんでおり、服装は汚れ乱れている。
(まあ、お着替えくらいされたらいいのに。)
彼女はそんなことを考えているなど露程も表情に出さず笑顔で言う。
「はい、何でございましょう。」
(でも汚ならしくても素敵だわ。)
「マーガレットはどうしてる?」
「先程泣き疲れてお休みになりました。お食事は召し上がらないそうです。」
「泣いてたのか?」
アレックスが目を剥いて言う。
「え?ええ、とても悲しいお話をお読みになったそうです。」
マリアは少し怯えながら応えた。
だが二人は聞いていない。アレックスはレイモンドに詰め寄る。
「レイのせいだぞ。メグが泣いたのは。」
「な、何故俺のせいなんだ?俺が何をしたんだよ。」
「またメグを怒らせただろ。」
アレックスは冷たく言う。
「君はよくわからいな。何故だか知らないがメグと笑って話していたじゃないか。僕は驚いたんだぞ。それなのにまた嫌いと言われて怒られる。」
「だから何で急に怒るんだ?俺はそんなに悪いことをしたのか?」
レイモンドはそう言って自分の赤い頬を差した。
「泣きたくなるのは俺の方・・」
アレックスは呆れたようにレイモンドを見るとため息を吐く。
(一体何の話をされてるのかしら?お嬢様は物語を読まれて泣かれただけなのに。)
マリアには全く会話が見えない。彼女は段々困っていた。自分はそんなに暇ではない。マーガレットが寝ている間にしようと思っていた仕事もある。
だが目の前の二人はそんな彼女の様子にも気付かず言い争いを始めてる。
彼に呼び止められた以上、許可を貰わなければ、彼女の方からアレックスの前を辞すことは難しかった。
(困ったわ。何を揉めてらっしゃるの?)
彼女は苛立ちを抑えながらアレックスとレイモンドの会話を聞く。
「だから言っただろう。僕の言うことを聞けば良かったんだ。」
「それは昨日にも言っただろ。そんなに苛めないでくれ。」
レイモンドが煩そうに口元を歪めて言った。
マリアはぴくりと耳が動く。どこかで聞いたような気がする言葉だ。
「どういうこと?君は僕の言うことを聞くんじゃなかったの?」
「い、いや。何も絶対聞かないって訳では・・アル、・・頼む、そんなに俺を苛めないでくれ。」
アレックスの剣呑な雰囲気に推されながらレイモンドは弱々しく声を出していた。
「お二方様っ。」
突然マリアが大声で会話を遮った。
アレックスとレイモンドは揃って彼女の方を向く。
二人共マリアの存在を本当に忘れてしまっていたようだ。罰が悪そうにお互い顔を見つめ合う。
マリアはそんなことには少しも気にせず言った。
「お嬢様はどうして泣かれたのでしょうか?わたしに教えて下さいましっ。」
有無を言わせぬ口調だった。一介のメイドが仕える主人に対する態度ではない。
だが二人は彼女の不遜な言葉に抗うことは出来なかったのである。
それほど堂々とした迫力のある態度だったのだ。
*
マーガレットは良い香りで目が覚めた。
顔を上げるとマリアが微笑んでこちらを見ている。「お嬢様、何か召し上がりますか?」
見るとベッドのサイドテーブルに食事が載っていた。ふわふわのパンと果物がたっぷり入ったサラダ、柔らかく煮込んだきのことお肉のクリーム煮などが置いてある。とても美味しそうだ。
彼女はぐうとお腹がなり顔が赤くなった。
「厨房で軽い物を頂いてきたのですが、良かった。こちらで召し上がりますね。」
マリアは素早く用意をする。マーガレットは起き上がるだけで良かった。
ベッドの上で食事を取るなんて病気の時以来だ。マリアが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。
(わたし、病気じゃないんだけど・・・)
マーガレットはぼんやりと思った。するとレイモンドの顔が浮かんできた。
(やっぱり病気だわ。心の病気・・だってわたし失恋したんだもの。)
じわりとまた涙が出てくる。彼女は慌てて目を押さえた。
マリアはそんなマーガレットを優しく見つめる。
そして、今気付いたように話し出した。
「そう言えば、お嬢様がよく過ごされている林の小屋が在りますよね。あそこを領民達が片付けると聞きましたわ。今日の仕事の後にすると話していましたけど。」
「えっ?」
マーガレットは驚いてマリアを見た。
「それ、本当なの?」
「ええ、厨房で聞いたんですもの。間違いありません。あそこには近くの領民が収穫した野菜を運んで来ますし。」
マーガレットは真っ青だ。最早、食事などしている場合ではない。
「でも、どうして・・。」
「さあ、それはわかりません。ただあの中を全て片付けると聞きましたわ。それよりお嬢様、お食事はよろしいのですか?」
こうしてはいられない。マーガレットはベッドから飛び降りた。
「マリア、出掛けるわ。支度をお願い。」
マリアはにっこりと笑顔で応える。
「はい。お嬢様。」
そしてこっそりマーガレットの背中に囁いた。
(小屋の話は嘘ですけど許して下さいましね。)
林の中をマーガレットは急いでいた。
太陽が午後のきつい日差しを投げかけてくる。
だが彼女は気にならなかった。
(今、何時かしら?マリアに聞くのを忘れたわ。わたし、どの位寝てたの。)
まだ夕方は遠そうだった。
しかし、農夫がいつ頃仕事を終えるのかマーガレットは知らない。急がなくてはいけなかった。
あの小屋の中には彼女の大切なお気に入りの品が隠してある。彼らはそれを全部捨ててしまうだろう。
そんなことは絶対させられない。
マーガレットの目に小屋が見えてきた。彼女は更に近付こうとして足を止めた。
(誰かいる。)
小屋の前に人影があった。
彼女はそっと近寄る。
(お兄様とレイモンドだわ。)
彼女の胸に苦い思いが込み上げる。一瞬帰ろうかと体の向きを変えて、思い留まった。
やはり小屋を放っておくことは出来ない。二人が立ち去るのを待つことにする。
(何をしているのかしら?)
マーガレットの耳に彼らの声が聞こえてきた。
「じゃ覚悟は決めたんだね。」
アレックスは嬉しそうにニヤリと笑う。なんとなく意地の悪い顔だ。
「ああ。」
レイモンドはその顔を嫌そうに見ながら観念して言った。
「くれぐれも、気を付けてやってくれよ。」
「わかってるよ。僕に任せて。」
アレックスは口笛でも吹きそうな程、締まりのない顔になっている。マーガレットの中で兄のイメージが少し壊れた。
(お兄様は何があんなに嬉しいのかしら?)
アレックスはレイモンドの腕を引っ張って行き、小屋の前にある古い倒木をまとめた物の上に座らせた。
そして自分はその前に立つ。マーガレットには兄の背中しか見えなくなった。
「じゃ、いくよ。」
「うっ、ちょっと待って。」
レイモンドが焦って言った。
「レイ!動かないでよ。」
「いや、だって・・」
レイモンドはやはり我慢出来ないようだ。
(いったい、何?)
マーガレットは知らず身を乗り出す。
「じっとしてろ!」
遂にアレックスはきつい声で怒ったように言うと、上からレイモンドを押さえつけて何かを、した。
マーガレットにはわからなかった。
今見たことが信じられない。彼女はよく似た光景を物語の挿し絵で見たことがある。
その物語は、ある国の王と美しい妖精の女王の話だった。
二人の国は敵同士だったがふとした出会いで恋に堕ちしまう。決して結ばれない恋人達。最後に王と女王は密かに口付けをする。二度とお互いの国が戦わないことを誓って。
それはとても美しい場面だった。彼女は何度もマリアとその物語を話して泣いた。
その光景に似てる。
いや、話している内容は全然違うが、挿し絵の構図がそっくりだったのだ。
(まさか、まさか、お兄様とレイモンドは・・)
マーガレットは驚きのあまり体が動いた。
その音に気が付き、アレックスの向こうからこちらを見ているレイモンドと目が合う。
「マーガレット!」
レイモンドが叫んだ。
マーガレットは慌てて逃げ出す。
「待って、マーガレット。」
彼の声が追いかけてきた。彼女の足は止まらない。
だが彼も今回は諦めなかった。
「待ってくれ。」
レイモンドは強引に彼女の手を掴んだ。
「離して!いきなり触らないで!」
彼女は手を振りほどこうと暴れる。
「あ、すまない。」
レイモンドが我に返り手を離した。その拍子に体のバランスが崩れ彼女は倒れてしまう。
「悪かった。大丈夫か?」
彼は驚いて彼女を急いで助け起こす。
「どこか怪我をしてないか?」
それから彼女を心配げに見つめた。
「くっ。」
マーガレットは手を痛めていた。倒れる時に手を着いたのだろう。
レイモンドはそれに気付くと辺りを見回した。
「手を洗おう。近くに井戸があったと思う。」
彼女を井戸の側の岩の上に座らせると彼は水を汲んできた。そして彼女の前に屈み、手を取って井戸の水で洗う。
「痛い。」
井戸の水は冷たく傷に沁みた。彼は彼女の声に反応すると、慌てたように水で濡らすのを止め手を引っ張る。
そして傷口を舐めた。
マーガレットはびっくりして固まった。
レイモンドは優しく傷を舐めると上を向いた。
「あ、あの、何を・・?」
頬を林檎のように赤く染めた彼女と視線がぶつかる。
「あ、悪い・・」
彼もやっと自分の行動に気付き顔が燃えるように赤くなった。二人はしばらくお互いに顔を赤くして下を向いていた。
「俺って奴は、いつもこうだ。」
突然、レイモンドがポツリと口にした。
マーガレットが彼を見ると、レイモンドは大きくため息を吐いている。
「考え無しにすぐ思ったことを言ったり、動いたりしてしまうんだ。それで君のことも以前傷付けたし、君の兄上にもいつも怒られる。」
彼はそう言って苦笑した。
マーガレットの心臓はドキドキと煩く音を立てている。彼女は彼と、こんなに親密に会話をしたことはなかった。
「俺には年が離れた兄が二人いて小さい頃からとても可愛がってもらったんだ。それで俺も兄のようになりたいとよく思ってた。子供の頃は弟が欲しいと両親を困らせたよ。俺を産んだ時に母は無理をしたらしく結局それは叶えられなかったが・・。」
彼は静かに話を続ける。
「そのせいかな?動物とか放っとけないんだ。子供の頃はよかったけど、この年だろ。お前はガキか?って寮でも言われたよ。」
レイモンドは思い出し笑いを浮かべた。彼女はいつの間にか胸の動悸が治まり、彼の話を穏やかに聞いていることに気付く。
「ベスは本当に可哀想だった。あのまま外にいたらきっと死んでいたと思う。あいつが元気になって、飼い主も見つかって、本当によかった。もう、中々会えなくなるのは寂しいけど店に行けばまた顔は見れるし。」
彼は彼女を見上げた。
「春に君を見た時、急に何故か、俺を見て喜んでやってくるベスを思い出したんだ。恥ずかしい話だけど俺は女の子が苦手で、普段は避けてしまうんだけど、君はベスに雰囲気が似てて・・嬉しくて・・つい、あんな態度を・」
彼は旨く言えないのか言い淀む。
「わたしはそんなにベスに似てるの?」
「違う!今思うとそんなに似てない。俺が勝手にそう思い込んだだけなんだ。」
彼は向きになって言った。
「でも、さっきもわたしをベスのように思ったのよね。だから、あんなこと・・」
彼女はレイモンドに抱き締められたことを思い出し、胸がチクリと痛んだ。
「・・あれは、ベスと間違えたわけじゃない。相手が君だと意識していなかったから・・。」
しかし彼の答えは意外なものだった。
「え?」
「君が泣いていたのに驚いて忘れていられたんだ。」
レイモンドはそう言ってまた下を向く。突然その時のことを思い出したらしく、顔が上げられないみたいだ。
「だって春の時は・・」
「春の時とは違う。違うんだ。あの頃の俺は馬鹿だった。」
彼は苦しそうに笑う。
「君は俺に顔を見せるなと言ったろ?」
「あっ。」
マーガレットはハッとする。確かに彼に腹を立て、そんな言葉を口にした。あの後、彼は暗い顔をして・・。
「気にしてたの?」
レイモンドは下を向いたまま渋々頷いた。
「元はと言えば自分が原因だし、君が怒るのは当たり前だ。ここには二度と来ない方がいいと思ってたんだが・・。」
「だからわたしの顔を見ないようにしたの?」
彼女は心からホッとした。彼に嫌われていた訳ではなかったのだ。
「・・・ああ、ちょっと姑息なやり方かもしれないけど、君の顔を見なければ許してもらえるかと。それにアレックスが言う通りにすれば仲直りさせてやると言ってたから。」
彼の声は段々小さくなる。
「お兄様が?そう言えばわたしにもそんな感じのこと仰ったわ。でも何故・・?」
マーガレットは小屋の前でのアレックスとレイモンドを思い出した。
「さっきのあれは何なの?」
「え?」
レイモンドは彼女の強張った声に驚く。
「さっきしてたじゃない!お兄様と口付けを。」
マーガレットは泣きそうだった。
「え?口付け?アレックスと?」
レイモンドは愕然としている。
「そうよ。林の中の小屋の前で。気を付けてやってくれとか、あなた言ってたわ。」
マーガレットはまた涙が滲んできた。
「ええ〜っ?それは違うよ、マーガレット。それはこれだ。これっ。」
レイモンドは情けない声を出して彼女に急いで前髪を見せる。その姿は必死だ。
「何よ。そんな物・・、え?」
マーガレットは彼の顔をよく見る。はにかんだブラウンの瞳が、何にも邪魔をされることなくはっきりと見えた。
「髪が・・ない?」
「いや、まだある。アレックスに短く切られたんだ、ついさっき。」
彼女は気が抜けた。
「じゃあ髪を切ってたの?」
「そうだよ。冗談じゃない。口付けなんて・・」
レイモンドは心底嫌そうに言う。彼女は恥ずかしくなった。
(わたしったら何て勘違いを・・。)
「でも、お兄様は何故そんなことを?」
「・・俺のやり方が気に入らなかったんだ。館に着いた日も秘密の話があるとか言って、小屋の前に連れて行かれたよ。その時はまだ踏ん切りがつかなくて逃げたんだが、あいつ完璧に面白がっていた。」
彼は忌々しそうに言った。
「え?館に着いた日って昨日のこと?」
「そうだが?」
マーガレットが二人を見掛けた時のだ。髪を切ろうとしていただけだったのか。何て紛らわしい。彼女は少し腹が立った。
「どうしてお兄様はあなたの髪を切りたいの?」
「よく、わからない。見た目にもよくないとか。俺が男らしくないと言ってたな。」
「どうして男らしくないの?」
「・・それは、俺が逃げてるからって。」
「何から逃げてるの?」
彼はうっと詰まる。顔を赤くして何も言わない。
マーガレットはじっと彼を見る。彼女の頬も薔薇色に染まってる。
彼は気付いていないようだが彼女は少し前から気が付いてた。
レイモンドと彼女の片手が未だに繋がっているということに。
(ねぇ、もしかして・・)
彼が覚悟を決めたようにマーガレットを見た。
「君からだよ。俺は君から逃げてたんだ。」
彼女は震える声で聞く。「どうして、わたしから逃げるの?」
彼は彼女を強く見つめて言った。もう逃げなかった。
「君が好きだから。もうこれ以上嫌われたくなかったんだ。」
彼女は彼と繋いでいない方の手で顔を覆った。指の間から温かい涙が零れた。
「ごめん、困らせる気はなかったんだ。俺が勝手に好きなだけだから。」
レイモンドが慌てて彼女を気遣う。
「・・ううん、違うの。この涙は・・嬉しいから。とっても嬉しくて・・」
マーガレットは滲んだ目で彼を見る。
レイモンドは彼女の気持ちに気付いているのだろうか。彼の表情を見ているとわかっていないようだ。ただマーガレットの涙に慌てているだけみたい。
そしてまだ彼女の片手を手にしているのはどうなのか?本当に彼は気付いていないの?鈍すぎる。
だけど、そんな彼も好きだ。
彼の黒髪は、おでこのところでガタガタになっていて、ブラウンの瞳はマーガレットの視線に気付くと、眩しそうに細くなった。
マーガレットはくすりと笑う。
もう少しこのままでいたい。
もう少しだけ・・・
ねえ、わたしの王子様のレイモンド様、
わたしのささやかなお願いを聞いて下さい。
いつか、わたしの前に跪いてわたしの手を取り、その手に恭しく口付けを下さいね。
どんなに恥ずかしがって嫌がっても、絶対に、して貰うから。
マーガレットは涙を手で拭いながら、レイモンドの瞳に笑いかけた。
初めて書いた小説だったので、何か色々ボロボロでした。
でも、苦しみながらも、なんとか完結させることが出来て良かったです。
最後まで読んで下さって、ありがとうございました。