第2話 不可視の導線と傲慢なる密室
「……御園さんの『視た』通りでした。あの白い粉末から、新規のモリブデン複合酸化物が検出されました」
警視庁の会議室。神宮寺がX線回折(XRD)による構造解析のレポートを叩きつけると、捜査本部にはどよめきが走った。
無害だと思われていた粉末は、特定の条件下で劇物への反応速度を爆発的に加速させる「触媒」だった。被害者である教授が自ら内鍵をかけた密室。そこに犯人の姿は不要だったのだ。あらかじめ触媒と前駆体をセットしておき、何らかの「スイッチ」が入るように仕向けておけば、時限装置のように毒ガスを発生させることができる。
容疑者は、その新規触媒の合成に携わっていた第一発見者――助教の桐谷に絞られた。
しかし、神宮寺の取り調べに対し、桐谷は薄ら笑いを浮かべてこう言い放ったのだ。
『面白い仮説ですが、証拠は? あの触媒が毒を発生させたとして、密室状態の研究室で、どうやって私が遠隔で化学反応をスタートさせたと言うんですか? 魔法でも使ったと?』
決定的な「着火条件」が分からない。事件は再び暗礁に乗り上げた。
「……という状況なんだ。ごめんね、君を事件から遠ざけるって約束したのに」
神宮寺は、洋室のソファで毛布にくるまる雫に、深々と頭を下げた。
雫は力なく首を振る。膝の上には分厚い海外のミステリー小説のペーパーバックが開かれたまま伏せられていた。彼女は電子書籍ではなく、いつも紙の書籍を好んで読んでいる。
「ううん……神宮寺さんが、私のために怒ってくれたの、嬉しかったから」
雫は儚げに微笑むと、テーブルに置かれた現場の広角写真にそっと指を触れた。
その瞬間、彼女の身体がビクンと大きく跳ねた。
「あっ……!」
「御園さん!」
「あつい……っ。違う、火じゃない、光が……っ。窓から、強い光が刺してきて、粉が、粉が焼けるように熱くなって……!」
雫は過呼吸を起こしたように肩を上下させ、ポロポロと恐怖の涙を流し始めた。神宮寺はすぐさま写真を裏返し、彼女の手を強く握る。
「光……そうか! 窓だ! 現場の窓の位置と、太陽の南中高度……!」
神宮寺の頭の中で、全てのピースが激しく火花を散らして繋がった。
「ありがとう、御園さん! もう大丈夫だ。あとは俺が、あいつの傲慢な鼻っ柱をへし折ってくる!」
神宮寺はコートを羽織ると、嵐のように部屋を飛び出していった。
バタン、と重いドアが閉まる音が響く。
静寂が戻った部屋の中。
ソファの上で震えていた雫は、ぴたりと動きを止めた。
「……あーあ。ほんと、扱いやすい番犬」
雫はすっと立ち上がると、泣き顔の芝居で少しよれた前髪を整え、サイドテーブルの紅茶を優雅に一口啜った。目元には一片の涙も残っていない。
「桐谷助教。あなたが自慢のモリブデン複合酸化物に、光触媒としての機能を持たせていたことくらい、現場の窓とデスクの配置を見れば一瞬でわかるのよ。午後三時、西日がピンポイントでシャーレを照らすように計算し尽くした『光の導火線』。……ふふっ、密室という名のフラスコの中で、完全犯罪を完成させたつもりなんでしょうね」
雫は紙の書籍を手に取り、パラパラとページを捲った。
「自分が一番賢いと思っている人間が、絶対に負けないと確信している論理で無残に敗北する瞬間。それこそが、一番美しいエンターテインメントじゃない」
窓の外を見下ろすと、神宮寺の乗った覆面パトカーがサイレンを鳴らして走り去っていくのが見えた。
彼が桐谷を追い詰めるロジックは、すべて雫が与えたものだ。自分は安全な場所で本を読みながら、傲慢な殺人鬼の「論理の城」が崩落する音を待っていればいい。
「さあ、神宮寺さん。私の代わりに、彼を徹底的に絶望させてきてちょうだい」
雫は三日月のように目を細め、静謐な部屋でひとり、悪魔のように微笑んだ。




