第1話 シビュラの涙と不可視の鎖
部屋を満たしていたのは、ショパンの『ノクターン第2番』だった。
静謐なピアノの旋律と、壁一面を埋め尽くす大量の紙の書籍。電子書籍にはない、インクと古い紙が混ざり合った独特の香りが漂う薄暗い洋室の中央で、彼女は鍵盤から手を離した。
「……ごめんなさい、御園さん。演奏の邪魔をしてしまって」
警視庁捜査一課の若手刑事である私――神宮寺が声をかけると、御園雫はビクッと肩を震わせ、振り返った。
透き通るような白い肌に、色素の薄い瞳。まるで精巧なビスクドールのように華奢な18歳の少女。彼女は不安げに私の顔を見上げると、ゆっくりと首を横に振った。
「ううん。……神宮寺さんが来るってことは、また、誰かがひどい目に遭ったのね」
「はい。……また、あなたの『力』をお借りしたいんです」
御園雫。警察内部の一部で「シビュラ(巫女)」と恐れられ、同時に頼られている存在。彼女には、凄惨な事件現場に残された「被害者の残留思念(痛みや恐怖)」を共感覚として受け取ってしまうという、呪いのような特異体質があった。
現場は、都内にあるK大学の物理化学研究室だった。
被害者はこの研究室の教授。死因は青酸ガスによる急性中毒死。しかし、発見時に研究室のドアは内側から施錠され、窓も完全な密室状態だった。さらに奇妙なことに、室内から毒物が発生した痕跡や容器は一切見つかっていない。
規制線が張られた現場に雫を案内すると、彼女は部屋に入るなり、顔面を蒼白にさせた。
「あっ……ぁ……」
細い喉から、ひゅっ、と空気が漏れる音がした。雫はその場に崩れ落ち、自身の喉を掻きむしるように押さえる。
「御園さん!」
「くる、しい……。息が、できない……っ。喉が、焼けるみたい……!」
ボロボロと、大粒の涙が彼女の美しい瞳からこぼれ落ちる。被害者が味わった死の苦痛を、彼女自身が追体験しているのだ。私は慌てて彼女の華奢な背中を支えた。なんて痛々しい能力なのだろうか。
「もういい! もういいです、御園さん!」
「ちがう、の……。神宮寺さん、あそこ……」
雫は震える指で、被害者のデスクの上を指差した。そこには、実験用具と一緒に置かれた、用途不明のわずかな白い粉末が入ったシャーレがあった。
「あの粉が……熱を、持っている……。見えない煙が、あそこから……」
「あの粉から毒が? しかし鑑識の報告では、ただの無害な酸化物だと……」
「ちがう……あれは、魔法の粉……。時間を、早めるの……。怖い、神宮寺さん、怖いよぉ……っ」
雫は私の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。私は彼女の小さな頭を撫でながら、強く拳を握りしめる。
彼女が身を削って視てくれたビジョンだ。絶対に無駄にはしない。私は鑑識を呼び止め、あの粉末の再鑑定を強く指示した。
――数時間後。神宮寺が捜査本部へと戻り、誰もいなくなった研究室の廊下。
パイプ椅子に座らされていた雫は、ふう、と短く息を吐いた。
「……あーあ。目薬、差しすぎちゃった」
先ほどまでの怯えた様子や涙は完全に消え失せ、雫の瞳には氷のような冷たい知性が宿っていた。彼女はハンカチで乱暴に目元を拭うと、退屈そうに現場のドアを見つめる。
(残留思念? 共感覚? そんなオカルト、あるわけないじゃない)
雫の脳内には、先ほど一瞬で視認した現場の構造と証拠が、美しい数式のように組み上がっていた。
(あのバカな刑事たちはただの無害な粉だと思っているみたいだけど、あれはただの酸化物じゃない。新規に合成されたモリブデン複合酸化物の触媒ね。おそらく、犯人はあの触媒を使って、本来なら何時間もかかる毒素の発生反応を、数分にまで短縮させた。だから死亡推定時刻とアリバイが噛み合わなくなる)
X線回折装置にかけて構造解析でもすれば、一発でその特殊な触媒作用が証明できるはずだ。
だが、ただの18歳の少女が「これは新規複合酸化物触媒を用いた遅延発生トリックです」などと論理的に指摘すれば、不審がられるに決まっている。だから「視えた」ことにして、男たちが庇護欲を刺激されて勝手に動くように誘導してやったのだ。
(犯人は、物理化学の専門知識を悪用して完璧な密室を作ったつもりなんでしょうけど……論理の底が浅すぎるわ。あんな三流のパズル、欠伸が出る)
雫はクスリと、悪魔のように微笑んだ。
(さあ、神宮寺さん。私が与えたヒント(ピース)で、どこまで犯人を追い詰められるかしら。――あなたが犯人の『絶対の自信』を打ち砕く瞬間を、特等席で見せてもらうわね)




