第1章 絵を捨てた朝
一
やりかけの宿題を横目に、今夜も机の上に広げたスケッチブックに落書きをしていた。鉛筆で描かれた線は、まだ途中のまま。漫画のキャラクターも、空を飛ぶ鳥も、ふと筆を走らせた青空と雲の絵も、描いているときは何もかも忘れているのに、ふと、現実に立ち返ると、気分が重たくなる。「もう、やめた方がいいのかな」
高校受験を控えた中学二年生。お父さんとお母さんからは「絵なんて描いても食っていけないから」とか「そろそろ進路を決めなきゃね」とか、言われ続けている。自分でもわかっている。絵なんて、ただの趣味だ。プロの絵描きになるわけでもない。というか、プロの絵描きって、何だろう? 絵を描いて、どうやってお金を稼いでいるのかもわからない。描いた絵を売ってお金にするならわかるけど、今時、絵を買ってくれる人なんて、いるのだろうか。買ってくれる人がいなければ、絵なんて、仕事にならないよね。
そんなことを考えて、描きかけのスケッチブックを閉じると、今度はやりかけの宿題の方を続ける。一応成績は真ん中よりはちょっと上をキープしている。でも、勉強していて楽しいと思ったことは、あんまりない。難しい数学の問題を解けた時、確かに何となく達成感はあるんだけど、「楽しい」っていうのとは、何かちょっと違う。
そういえば、明日は学校で「キャリアアップセミナー」という特別授業がある。簡単に言えば、色々な仕事をしている人から、仕事の内容、どうしてその仕事に就いたか、その仕事のやりがいは何かといった話を聴いて、自分の将来のことを考えるというものだ。もう夜十時も過ぎていたので、宿題を片付けて、その日は眠りについた。
二
キーンコーンカーンコーン。「起立! 気を付け! 礼」
「ありがとうございました」
キャリアアップセミナーの一コマ目が終わった。市長、地方公務員、警察関係の人、薬剤師、航空会社の人、弁護士、学校の先生、デザイン会社の人、ラーメン屋さん、美容関係の仕事の人……今日招かれている講師の方たちは、だいたいこんなところだ。あと、何だかよくわからないけれど、測量士とか、司法書士っていう肩書の人もいたかな。全部で二回、話を聴いてみたい講師の先生の待機している教室へ行って、話を聴くということになっている。私は、一コマ目、「弁護士さん」の話を聴いてみることにして、ちょうどそれが終わったところだ。別に弁護士という仕事に興味があるわけではなく、何となくテレビドラマで見ていて、知っている職業だったから聴いてみた、という程度だ。
「お、ナオ、ベンゴシさんの話、どうだった?」
仲のいいクラスメイトのミドリが話しかけてくる。
「うーん。なんだかよくわからなかった。何か、司法試験ていうのに受かるために一日十時間以上勉強したんだって。大変そうだったし、私は弁護士にはなれないかなぁ。そっちはどうだった? 」
「ああ、私は市長の話を聞いてみたけど、イマイチかなぁ。何か途中から選挙の演説みたいに、自分がこの町をどうしたいとかこうしたいとか、そういう話だったから退屈しちゃった。次は誰の話聞きに行ってみる? 」
「そうだなぁ……」
考えているフリをしてみたけど、本当は話を聞いてみたい人がいた。デザイン会社の人だ。「デザイン関係の仕事」っていうことは、絵を描くのも仕事になっているのかもしれない。そういえば、昔、友達からノートの端っこに授業中描いていた落書きを褒めてもらったことがあって、その流れで「学園祭で出店する看板の絵を描いて」と頼まれたこともあったっけ。あれ、誰かに頼まれて描いたわけだから、今思えば立派な仕事だったんじゃないかな。実はついさっきも、弁護士さんの話を聞きながら、メガネをかけたその弁護士さんをキャラクターにして、遊びの落書きをしていた。感想も書かないといけないことになっているけど、文字数は決まっていないし、そのちょっと描いた似顔絵も一緒に載せちゃうつもりだ。「感想文」を書くより、絵を描く方がよっぽどスペースも稼げる。絵で宿題をこなせるんだから、「仕事にもつながるかもしれない」とか、そんなちょっと都合のいいことを考えている。でも、そう考える一方で、「そんな都合のいい話はない」って思っている自分もいる。
「絵なんて描いても食っていけないから」
さんざん言われたお父さんとお母さんの言葉が脳裏をよぎる。
「ねえ、特に決めてないなら、美容関係の人の話、聞いてみない? 」
ミドリが誘ってくる。
「え、どうして? 」
「私最近ちょっと日焼けと肌荒れが気になっちゃって……いい化粧品とか、教えてくれるかもしれないじゃん」
「今日そんな話してくれるかなぁ? 」
ミドリは活発で元気溢れる女子で、ソフトテニス部のエースだ。たまに部活で活躍している様子を見ることもあるけれど、猫みたいに機敏な動きでボールを追いかけている。いつも部活で外にいることが多いから、日焼けしているのを、そういえば悩んでいた。私はどちらかというといわゆる「文系女子」っていう感じで、色々ミドリとは正反対なように思うけど、なぜだかふたりとも気が合って、仲よくしている。ミドリはいつも、その瞬間その瞬間全力! っていう感じで、将来のことや進路なんて、悩んだり考えたりしていないように見える。
本当はデザイン会社の人の話を聴きに行ってみたかったけれど、親友の誘いを無下にして押し通す程、強い想いは持てなかった。
「うん。じゃあ、そっち行ってみようか」
「うん、そうしようそうしよう! どうせつまんない話聞くより、ユウエキな情報を集めた方がいいでしょ! 」
うん、なんかもう、色々とミドリらしくてさすがだ。結局、ミドリと一緒に、ユウエキな情報とやらを聴きに行くことになった。
三
キーンコーンカーンコーン。「起立! 気を付け! 礼」
「ありがとうございました」
案の定というか、私にとっては特に有益な話を聴くことはできなかった。さっきの弁護士さんの話と同じと言えば同じだ。化粧品を売る現場のお店で仕事をしていて、お客さんの肌の悩みとか、自分の体験談も踏まえながら色々話していた。お客さんの立場に立って考えることが大事とか、化粧品も色々あって、その効果がどうとかこうとか……私はまだそんなに化粧品に興味もなかったから、またしても感想代わりの似顔絵を描いてしまっていた。ミドリは最後の質問時間で、ちゃっかり日焼けにいい化粧品の品名なんかを質問していた。こういう時、あの子は手を挙げることに何の躊躇もない。
「えへへ、いい情報ゲット」
「よかったね。いいお客さんだよ、あなたは」
「いいものを勧められて買うのは別に騙されているわけじゃないから、いいんだよ」
うん、まあ、確かにそうだ。お話をしていた化粧品関係の女性も、心底自分の会社の商品を信頼して売っているようだった。
帰り際、私が本当は行きたかったデザイン会社の人の担当している教室の前を通りがかった。年齢は、三十代後半くらいだろうか。見るからに活発そうでキレイな女性だった。デザイン関係の仕事をしているからだろうか、服装もお洒落で、ビシッと決まっているように見えた。やっぱりこっちに来ておけばよかったと後悔した。
この日は、キャリアアプセミナーが特別授業となっていたので、あとは自分の教室に戻って、先生から説明があっておしまいだ。
教室に戻ると、男子たちが今日聴いた話で少し盛り上がっている。
「おれは測量士の話聴いてきた。うちも父ちゃんが同じ仕事してるからちょっと興味あって聴いてきたけど、なんかドローンとか使うんだってよ。ラジコン飛ばすみたいで面白そうだった」
そう話しているのは、野球部で万年補欠の田中君だ。男の子は、ラジコンとか、機械とか、そういうの好きだよね。
「おれはラーメン屋の話、聴いてきた。『ラーメンに命賭ける』って感じで、すげぇかっこよかった。職人って感じ。おれもラーメン屋やろっかな」
クラスでいつもお笑い担当の西岡君は、ラーメン屋に興味を示している。あれ?でも、キミはいつも「お笑い芸人になる」って言ってなかったっけ?
「よーし、ホームルーム始めるぞ」
先生が男子たちの方を見て、目線で「席につけ」と指示を出す。
「今日は、色々な職業の人達の話を聴けたと思います。それぞれ聴いた話について、感想とか、感謝の言葉とかを書いてくるのが今日の宿題です。始まる前に配った用紙があると思いますので、それに感想とか、思ったこととか、意見とかを書いて、明日までに提出してください」
今日の宿題は半分終わっている。私の用紙には、講師の先生の似顔絵がすでに描かれている。これに感謝のメッセージを添えれば、「御礼の意味も兼ねた絵です」ということになって、立派に宿題の体をなすはずだ。
「それと、以前『進路希望調査票』というのも渡していたと思います。これは今月末までに提出するように。あくまで今の時点でのみんなの希望進路を書くものではあるけど、みんなの将来に関連する大事なものだから、親御さんたちと話し合ったり、今日の話なんかも踏まえながら、よく考えてくるように」
そういえばそんな紙ももらっていたな。そんな紙を渡されると「子どもでいられる時間もあと僅か」というタイムリミットを切られているような思いがしてしまう。あまり向き合いたくない紙だと私は思ってしまうけれど……クラスのみんなは、どう思っているのだろうか。
四
下校の時間になって、何気なく学校の門の近くまで来ると、先ほど話を聴きそびれたデザイン会社の女性がいた。聴いてみたかったこと、聴けるチャンスかもしれないと思いつつ、すぐさま行動に移せない。何となくもじもじして立ち尽くしながらその女性の方を見ていると、何と、女性の方から声をかけてきてくれた。「こんにちは。ええっと、さっきお話聴いてくれた子かな?」
「あ、いえ、私は、その、違う教室の話を聴きに行っていて」
「ああ、そうなんだ。でも、私の話も聴いてみたかった、とか? 」
すごい、図星を付かれてしまった。
「ふぅん。さっき話が終わった後、教室の外の方から、熱い視線を感じてね。もしかしたらあなただったのかな? 」
「え、いや、そんな……確かにちょっと見てましたけど」
確かに廊下から見ていたけれど、そんなに熱い視線だったかな?
「ふっふっふ、ついに私にもファンができたか、と思って、ちょっと嬉しかったんだけどな。でも、私の話聴いてなかったら、おかしいわね? あ、私のSNSを見てくれていた、とか? 我ながら結構最近力入れて投稿しているもんね! 」
「あ、いえ、見たことないです……」
「なんだ、そうなの? 」
「あ、はい。すみません」
思ったより……グイグイくる人だった。
「じゃあ、私に何か尋ねてみたいことがあるのかな? 」
せっかくのチャンスだ。ここまでお膳立てされたんだから、もう尋ねてみるしかない。意を決して、質問してみることにした。
「あの、デザイン関係のお仕事されているんですよね? 」
「うん。そうだよ」
「絵を描くことって、仕事になるんですか? 」
「うーん。そうだねぇ」
どうなんだろう。ちょっとドキドキしながら答えを待つ。
「はっきり言って、儲からないよ」
「あ、そうなんですか……」
何となく、わかってはいたけれど……
「『自分の描きたい絵を描いて食っていけるか』っていう意味で考えたら、それだけで生きている人なんて、ほんの一握り。私も、『デザイン関係の仕事』をしているけれど、デザインていうのは、『絵を描く仕事』ってわけでもないからね」
「どういうことですか? 」
「仕事でいう『デザイン』ていうのは、会社のロゴのデザインとかだったり、会社の商品を入れるパッケージのデザインだったりもする。その会社のブランディング全般の戦略を一緒に考えたりすることもあるし。だから、絵を描くのが仕事っていうわけでもなくて、『絵を描くこともある』って感じかな」
「そうなんですね……」
今聞いた話だけだと、何が何だかよくわからなかった。しかし、どうやら「絵を仕事にする」というのがとても難しいし、そんなに甘いものでもないということだけは伝わった。まあ、そんなことは言われなくても何となくわかってはいたことなんだけど……
「ああ、ごめんね。何かがっかりさせちゃったかな。そうだよね。そんなこと言われてもよくわかんないよね。私も中学生のときは何もわかんなかったし、ただただ『田舎から出て都会で暮らしたい』くらいのことしか考えてなかったよ」
「いえ、あの、教えて頂き、ありがとうございます」
「そうねぇ。そんな難しいややこしいことはそのうちわかればいいし、私の業界を目指すのは、別に悪いことじゃないと思うよ。結構楽しいし」
「はい。ありがとうございます」
自分で質問したかったことを質問して、思った通りの答えが返ってきただけなのに、何だか勝手に気まずい気分になってきてしまった。
「あ、ごめんね。私そろそろ次の仕事の関係で、出ないといけないんだ。もしもう少し続きの話をしてみたかったら、明日、ちょっと時間取れるかな? 」
「あ、いえ、そこまでは……」
「そう? 遠慮しなくても大丈夫よ。明日、私、ちょっとここで用事があるから、もし私の仕事のこととか、ちょっと気になるなら、ここに来てみて。学校終わって来るくらいでちょうどいいんじゃないかな」
そう言うと、女性から、名刺を渡された。
「木になる絵本屋さん……」
「そう。そういう変な名前の本屋さんがあって、店長の『マーサ』って人がいるんだ。私も、明日、ちょっと用事があって、行く予定なんだ。カフェみたいにコーヒー飲んだりもできたはずだから、ちょっとのんびりしたりもできると思うよ」
「そうなんですね」
「うん。ただ、ちょっと営業時間が不規則で、いつでも開いているわけじゃないところだけ、気を付けてね。名刺の裏に地図みたいの載ってるから。あ、あと、これが私の名刺ね。『松尾アキコ』っていいますので、また会ったらよろしくね」
「はい。ありがとうございます」
生まれて初めてもらった名刺。松尾アキコさんの名刺には、ちょっとかわいらしい、鳥になぞらえたロゴマークが描かれていた。
五
家に帰ると、お母さんが夕食の支度をしていた。お母さんも仕事をしているので、私より帰るのが遅い日も多いけど、今日はちょっと早めに仕事を切り上げてきたらしい。「にゃあ」
マーブルがのんぼり餌を食べている。「マーブル」というのは、うちで飼っている猫で、私が小学二年生くらいのころ、我が家にやってきた。白色と黒色がマーブル模様になっているから、お母さんがそう名付けた。友達の家族から子猫のときに譲ってもらったので、今は七歳か八歳くらいかな。
「宿題終わったら、ちょっとご飯の支度手伝って」
「はーい」
今日の宿題は、半分終わっている。今日聴いた話の感想や感謝をまとめるのだが、正直、あまり思い浮かばなかった。当たり障りのないことをつらつらと書いて、あとは落書きで書いた似顔絵に感謝のセリフなんかを入れてみた。まあ、とりあえずこれで許されるでしょう……ささっと宿題を終えて、母の夕食づくりの手伝いをすることにした。
「あら、宿題、随分早く終わったのね」
「まあ、今日聴いた話の感想とか、ちょっと書くくらいだから」
「そういえば、今日、色々な職業の人の話を聴く日だったわね。どんな仕事の人の話を聴いたの? 」
「うーん、弁護士さんと、美容関係の人の話」
「へえ、弁護士さん。あなた弁護士に興味あったの? 」
「いや、別に」
「ふぅん。美容関係って、どんなこと話してた」
「何か、お客さんの立場に立って化粧品を選ぶのがどうとかこうとか。何か、普通の話」
「何にもわかんないじゃない。ちゃんと話聴いてきたの? せっかくいい話聴けるのに、もったいない。感想とか書いたんでしょ? 宿題後で見せてよ」
「別にいいけど……」
色々話すと面倒だけど、まあ、一応宿題を仕上げているのを見せればあれこれ言われずに済むと思ってにわか返事をしてしまった。
夕食の時間になると、お父さんも帰ってきた。家族で食事の時間になると、案の定、今日の授業の話題を母が切り出した。
「今日、学校でキャリアアップセミナーっていうのがあって、弁護士さんと美容関係の仕事の人の話を聴いてきたんだって」
「へえ。そうなのか。ナオ、弁護士に興味あるんだ? 」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
「弁護士の話、どうだった? 」
「勉強大変そうだった」
「そりゃそうだろうな。お父さんの友達にも司法試験頑張っているやついたけど、毎日相当勉強していたよ」
お父さんは、大学から法学部にいって、卒業してから公務員試験を受けて、今は市役所の職員をしている。
「ナオも来年受験で、そろそろ進路を考えないといけないもんな。弁護士になるかどうかは置いておいて、法学部目指すのは悪くないと思うよ」
「そうね。ナオは国語とか結構得意だから、悪くないんじゃないかな」
「高校どこにするかも決めてないんだから、大学なんて、まだわかんないし」
予想はしていたけど、やっぱり進路の話になった。この話題、嫌いだ……
「そういえば、宿題で、今日聴いた話の感想とか、書いたんでしょう? 見せてよ」
「う……」
さっき適当ににわか返事してしまったので、今更嫌だとも言いにくかった。自分の部屋に戻って、机から宿題の用紙を持ってきて、見せてみた。
「相変わらず、イラストでスペース稼いでいるな」
「いいじゃん、別に」
お父さんもお母さんも、イラストには大して目もくれず、当たり障りのない文章の方を読んでいる。
「感想……もうちょっと、何かないの? 」
「みんなだいたいそれくらいだよ」
「せっかくいい話聴けたのに、何かもったいないなぁ。もうちょっと真剣に聴いてみたらよかったのに」
「宿題は感想だけじゃなくて、『感謝を伝える』でもいいの。ナオは絵を描いて感謝の部分頑張ってるんだから、いいじゃん。それにこの宿題、成績とかには何も関係ないから」
お父さんもお母さんも、最近何かと私のテストの成績を気にしている。気にしているから、それなりの成績を取るよう勉強もそこそこやっているつもりだ。まあ、面白いとか、楽しいと思ったことはないんだけどね。
「イラストで感謝ねぇ……でも、イラストで食べていくなんて難しいから、本当にそろそろ将来のことも考えていかないとね」
「成績どうこうじゃなくって、あなたの今後のことをもうちょっと真剣に考えないとってことよ」
「……ッ」
ほら、またそういうことを言うんだ。いつもは聞き流すのに、なぜだろう。色々と押さえていた感情が吹き出してきた。
「何よ! 『将来、将来』って……」
「え? 」
「どうやったら将来のことなんて、考えたことになるのよ! 」
ちょっと語気を強めた私の反応に、お父さんもお母さんも戸惑っている。
「いや、だって、今日の話だって、普段学校じゃ聴けない話だろう。もうちょっとしっかり真剣に聴いておかないと、もったいないじゃないか」
「そうよ。来年からは受験勉強ももっと頑張らないといけないんだから。将来どうしたいかとか、もっと真剣に考えた方が、受験勉強にも身が入るでしょう」
そうだ。大人の言う「真剣」っていうのは、そういうことなんだ。でも、その「真剣」という名の剣。私には、文字通り、私を脅かす凶器のように聞こえてくる。
「お父さんもお母さんも、私のこと真剣に考えてくれたことなんかないくせに! 」
思わず、夕食を途中で抜け出して自室に駆け込んだ。
六
それから、途中で抜けた夕食を食べに戻るでもなく、部屋に引きこもった。時折、お父さんとお母さんが部屋前まで来て、声をかけてくれた。「ごめんね。宿題、よくできているんじゃない」
「ごめんな。ナオの気持ちのこと、よく考えてなかったよ」
ふたりとも、謝ってくれた。謝らせてしまった。冷静になって振り返ってみると、いつも言われている当たり前のことを言われただけだ。そんなに怒る理由もない。お父さんもお母さんも、いきなりのことでびっくりしたと思う。自分で言うのも何だけど、今までお父さんとお母さんに反発したことはなかった。もちろんちょっとした喧嘩くらいはしたことがあったけど、いわゆる「反抗期」みたいに思われたことはなかったと思う。今回のこれは、「反抗期」って思われちゃったかな。
何で急にあんな態度を取ってしまったか、心当たりがあるとしたら、松尾アキコさんに「『自分の描きたい絵を描いて食っていけるか』っていう意味で考えたら、それだけで生きている人なんて、ほんの一握り」
という現実を教えてもらったことだと思う。何となくわかってはいたことだけど、好きなことをやって仕事になる人なんて、ほとんどいないし、その道を進もうと思ったら、どれだけの努力をしなければならないのか、想像もつかない。それこそ、弁護士になるために司法試験に向けて勉強するくらい、自分の人生を賭けないといけないんだろう。でも、そんなことをしたからといって、うまくいく保証なんて、誰もしてくれない。よく考えれば「ほんの一握り」ということは「不可能」と言われているわけではない。可能性はないわけじゃないのだろうけれど、そのわずかな自分の可能性に賭ける生き方なんて、出来っこない。だから、大半の人は、お父さんとお母さんが言う「真剣」な「進路」を選んだ結果、普通の人生を歩むんだ。
おもむろに、机の引き出しを開ける。引き出しの中の物を取り出して、引き出しの底にある板を一枚取り外す。二重底みたいにして、密かに工作して作った、私だけの秘密の引き出し。ここに、昨夜ついつい開いてしまっていたスケッチブックを入れていた。実は、物心ついたときから描きためている。小学生の頃は、無邪気に「漫画家になりたい」とか「アニメ監督になりたい」とか言ってイラストを描いていたけれど、いつの日からか、そんなことは言わなくなって、密かに、誰に見せるでもないこのスケッチブックに絵を描くようになっていた。昔描いていた絵を見ると、当時は上手く描けたと思っていたはずなのに、今見てみると……そうでもない。昨夜途中まで描いた絵も、何だか随分下手くそに見える。
「私の才能なんて、こんなもん」
ちょっぴり涙が出てきた。「ほんの一握り」の方になんて、やっぱり入れる気がしない。どうせ実現できっこない夢に淡い期待を寄せるのなんて、もうやめよう。ちょうど明日は資源ゴミの日だ。ちょっと早起きして、学校に行く前に、ゴミ置き場に持っていこう。そう思って、スケッチブックをひもで縛った。誰かに見られたくなかったから、雑誌と一緒にひとまとめにして……
七
翌朝、昨夜立てたプラン通り、だいぶ早起きした。制服に着替えて、例の物を持って、こっそりと自分の部屋を出る。台所に行って、昨夜の残り物をとりあえず口に入れる。何も言わずに家を出ると、さすがにお父さんもお母さんも心配するだろうから、一言ふたりの寝室に行って声をかける。「おはよう。今日は早いの。もう行ってくるね! 」
「うーん、え、そうなの。ちょっと待って! 」
寝起きでまだベッドの中でもぞもぞしている母をしり目に、そそくさと玄関から家を出る。
いつもより早い朝なので、ちょっと空気が清々しく感じられる。近くのゴミ置き場に置くと、もしかしたらお母さんが見つけてしまうかもしれないので、念のため三つくらい先のゴミ置き場まで例の物を持って行った。
「さようなら。これまでの私……」
やっぱりちょっと後ろ髪惹かれる思いもしたけれど、もう決めたことだ。ドスンッとその物を置いて、学校へと向かった。
いつもよりだいぶ早く着いてしまったので、いつもと景色がだいぶ違う。普段会わない人に会うし、教室にいる生徒もまだほとんどいない。教室の窓から、朝練をしている野球部とサッカー部をぼけっと眺めていた。
ホームルームが始まって、宿題を提出して……朝早く来たこと以外、ごくごく普通の学校の日常は、昨日我が家で起きた珍しい出来事とは無関係に、何事もなく、そして滞りなく進んでいった。




