(前編)虫
留学中のことだった。
9月の終わりに、夏休みを使って別の街で3週間ほど語学研修を受け、学生寮の僕の部屋に戻ってきた。1ヶ月弱閉め切った部屋は、思った程には空気も澱んでおらず、出て来た日と同じように僕を出迎えてくれた。ほっと一安心、重いカバンを運び入れると、窓を全開にし、久しぶりに見る部屋からの景色をぼんやりと眺めながら、夏の日々を思い出していた。
何気なく、まだがらんとしていた本棚に目をやると、白い羽目板の上に黒く小さな点がいくつもあるのに気が付いた。虫である。それもすでに死んでから何日か経っているらしい、干からびた死骸であった。
その虫は全長3ミリ程、茶色で細長い肢体を持ち、てんとう虫やカブトムシのように体全体は硬い殻で覆われ、背中の中心が割れて薄い羽が現れるというタイプで、日本でも見かけたことがあるものだった。ふと、自分が日本から連れてきたのが繁殖しているのだろうかという不安が過ぎったが、何を餌にし、何処で増えるのか、そんな知識は全くない。もちろん名前など知るはずもない。とりあえず既に餌が尽きて大量死したようであり、ご〇ぶりが現れるよりはましだろうと自分に言い聞かせ、その干からびた死骸を掃除機で吸い込んで深く考えないようにした。
しかしもちろんそれでは終わらなかった。死骸は本棚だけでなく、机の上、窓縁、箪笥の上、洗濯カゴの中、そして古ぼけた灰色のカーペットに紛れて見えなかったが恐らくは床まで及んでいたに違いない。さらには死骸だけにはとどまらず、生きたその虫が日に3~5匹、僕のもとに来訪するようになったのである。
ある時はふと見ると、机の上で着地に失敗したのか裏返ってもがいており、ある時はスタンドの明かりを目指して何処からともなく飛んでくる。あるいは白く塗られた壁をひっそりとのぼっていることもあった。その度に僕は、ティッシュペーパーを手にし、親指と人差し指でその虫を捕らえると、潰れる時の感触が指に伝わらないようにティッシュペーパーで何重にかにくるんで押しつぶした。しかし、この虫、外皮が比較的硬いために上からの圧縮には強い。本当に死んでしまったかいつも不安であり、何度となくティッシュペーパーを開いては動かなくなっているのを確認していた。部屋のごみ箱から這い出てくる夢を見た覚えすらある。
僕は考えた。どうすれば決定的に命を奪えるか。背中の硬い虫は確かに上から、あるいは横からの圧縮には強いかもしれない。しかしながら縦、つまり頭と後尾からの圧縮には簡単に潰れてしまうはずである。そう気が付いた僕は、次にやってきたもので実際に試してみた・・・ティッシュペーパーの保護も空しく、小さく生々しい音を立てていとも簡単に息の根を止めることが出来たのである。ただ、あまりの生々しさに二度とこの方法を取ることは出来なかった。
そこで次からは潰してごみ箱に棄てるのはやめ、窓から放り出すことにした。僕が殺す訳ではない。たとえここが5階の高さだとしても、この虫の重量から考えれば落下で死ぬはずはない。もう秋も深まり、夜中にはかなり冷えるとしても、彼らが戸外で新たな生活を見つけられる可能性もあるだろう。彼らがやってくると、親指と人差し指でそっとつまんで、指の中でもがいているのを確かめながら、窓を開け、放り出す。風でこちらに戻ってくることがないよう、窓よりも低い位置で指を離すか、いったん窓枠に置いてから爪で弾くかして、日に3~5回、彼らを見送った。
しかしいったい何処から来るのか?それ程広くない部屋である。これだけ数が増えているのならすぐ見つかっても良いはずなのに、手がかりはそう簡単にはつかめなかった。ただひとつ、この部屋に戻った時から虫以外に気になっていたことがあった。それは、部屋の入り口のドアから発生する黄色い粉末だった。黴のようでもあり、木屑のようでもあり、特に害があるとも思われなかったが、木製のドアの上部、ちょうどニスの塗っていない箇所から吹き出ては、ドアを開けるたびに降ってくるその粉を不快に思わずにはいられなかったのである。もちろん虫との関わりを疑ってはみたが、決定的な証拠のないまま時は過ぎていった。
ところがある日、吹き出る粉をティッシュペーパーで拭き取っていた時のこと。ふと見ると粉の吹き出ている穴からふらりと一匹、例の虫が出て来るではないか。やはり彼らの住処はこのドアの中。この粉末は彼らが掘り出した木の屑かあるいは彼らの糞だと考えて良いだろう。
してやったり。にやりと笑うと、ティッシュペーパーに洗剤を含ませ、出来るだけ穴の中に染み込むようにしながら、粉を拭き取った。最初はおしゃれ着用の中性洗剤で、次はトイレ掃除に使う塩基性の洗剤で、4~5日に一度くらいの間隔で続けてみた。
洗剤を染み込ませてしばらくすると、日に3~5度あった虫の来訪は1回あるかないかになった。どうやらこれでじわじわと全滅できるという訳だ。虫駆除が始まってから既に2ヶ月。どうやら僕の勝利で終わりそうだと思っていた。新しい駆除方法も考えた。セロハンテープに貼り付けるという方法である。これなら潰さなくて良いし、彼らがごみ箱から這い出ることもない。
ところが、である。一旦減った数は、いつのまにかまた戻ってしまったのである。




