香水のような甘い一日に
コーヒー。
コーヒーコーヒーコーヒー。
人通りの多いメインストリートのカフェで働くと、毎月毎週毎日毎時間休憩時間でさえも、コーヒーのことをかんがえなければならなくなる。
しかし何年続けても、手だけはコーヒー臭くはならないし、体にコーヒーの匂いが染みつくことはない。
コーヒー好きの女性は、きっと俺からもコーヒーの香りがすると思うのだろう。
しかし実際は何の匂いもしない。
毎日服を洗って風呂に入っているせいなのだろうか? 解決法を何度か考えてみた時もあった。
手をコーヒー豆に毎日突っ込んで無理やり染みつかせようとしたり、豆を服につけたり…
もちろん、そんな可哀想な事態になってしまった豆は客さんに提供するわけにはいかないから自分で飲むしかない。
そして、香りはつかない。ついてくるのは無料のコーヒーだけだ。
俺の母親はなんでも知っている。彼女に聞いてみれば、コーヒーの香りを自分に染みつかせる方法を知っているのかもしれない。
キッチンとリビングが一体になった家の中を四歩歩いて入り口の少し高めのカウンターにある、受話器を手に取る。
耳元に受話器を置き、ピーピーと鳴る音を聞く。
その後プルプルプルと音が変わる。
母が電話をとるのを待っている間に振り向いて、自分の家を見渡す。
弟からもらったとてつもなく大きい茶色のソファーがリビングのど真ん中に置かれて、端がキッチンに入りそうになっていた。入り口からテレビのある向こうにわたるにはソファーを飛び越えるしかない。
ソファーはソファーなだけではなく、俺のベッドでもある。
「しもしも?」
母が電話をとった。
「もしもし、お母さん。実はコーヒーの店員である俺は今とてもデカいプロブレムを抱えているんだ」
「私にその問題を渡すなよ、ただでさえ腰が痛いの。これ以上の重りはあんたのニートの弟だけで十分よ」
「セミはニートじゃない。コンテンツクリエイターっていう、魂を悪魔に売る仕事だよ。あれでも稼いでるんだから」
「ふぅん、どうかしらね」
「…荒い金遣いが証拠だと思うけどね」
「それでどうしたのよ、私の黄金の息子よ」
「受話器会社が俺たちを監視していたら、この会話を聞くだけで腹が膨れると思う」
「で?」
「あぁ、ええっと。実はコーヒーの香りを自分につける方法を聞きたくて」
「そういう香水があるからそれ使いなさい。じゃあ私は近所の集会に行かなきゃだからまたあとでね」
「ありがとう」
受話器をカウンターに置いた。
母はいつもそうだ。俺が一時間悩むことを五秒で終わらせる。
俺はソファーを超えて小さなテレビの隣にあったリュックを手に取り、またソファーを乗り越えて外へ出かけた。
敷地内から出るときに、両手をくっつけて借金取りが来ないことを祈った。
「2タス、4…あっと、約、うぅん、39日ぶりかもしれないな」
時間はすでに16時、カフェのシフトは朝の間だけしか今日は入っていなかったので、その後の予定はなかった。
やりたいことと言えば、外へ出て散歩か、買い物か。
…それを予定と呼ぶのか。
なんてことだ。
歩く途中両手を使って数えられるだけの指で、計算をした。
久しぶりに借金取りが来ていないことに気が付いたからだ! これは大問題になる可能性もあるし、逆にすべてが解決して全員がハッピーに終わる可能性もある。
前者だったらまだ安心かな、後者は不安になって夜も眠れなくなってしまいそうだ。
借金取りが来なくなった理由なんて、知るのが怖いや。
ととととりあえず! 香水を買いに行くんだ、確か近くに商店街があって…
曲道の建物にあるシャッターの絵が独特で記憶に残るんだよなぁ。
犬だっけ猫だっけ、カラフルに描かれていてまるでマリファナ吸った人が描いたみたいだ。
犬と言うと、商店街にペットショップもあるから寄ってみようかな。先週いた灰色の猫ちゃんが見れたらいいなぁ。
「え?」
「売れましたよ、パフィーちゃん」
「パフィーちゃんいないんですか」
せっかくペットショップまで来たのに、店員さんにパフィーちゃんいないという、とても悪い伝言をもらってしまった。
「ごめんねーハチさん。パフィーちゃんと仲良かったのにね」
「うん。でもいい家庭に行けたと思う?」
「ううん全く」
「あぁ、そっか」
俺は口を嘴みたいな形にしてガラス越しにいるほかの猫ちゃんたちを見た。
「かわいい?」
「パフィーちゃんの方がかわいいかも」
「じゃあなんで買わなかったのハチさん」
「…アゲハさんも、俺がお金ないってことくらい見てわかるでしょ」
地面を見て言ってしまった。まるで問題を抱えた人間のように思われたくなかったが、自然と出てきた仕草だった。
「…大丈夫。でもほら、奥にね、ガイガーって言う新しい子いるから見て」
「うん」
ガイガーって子は男の子で、パフィーちゃんより少し小さかった。
耳だけが妙に大きい。
「…じゃあ俺行ってくるよ」
「もう?ハチさんいつもだったら閉まる時間までいてくれるじゃない」
「うん、でも今日は予定があるから」
「珍しいね。行ってらっしゃい」
「うん」
ガラス張りのお店を出て人混みの中を歩いた。
パフィーちゃんのことを考えながら歩いていると、駅を超え、隣のスーパーも超え、古着が多い商店街まで来た。
「メガネ屋さん、古着屋さん。古着屋さん…あぁ、もっと古着屋さん」
古着屋さんしかないのか! なんていう場所だ、香水屋さんはないのか。
あっ
あった。
一つのビルの看板に
「キタキ香水店」
と、名前の付いた香水屋さんがあった。
地下一階のお店で、外から見える薄暗い階段を下りないと入れないお店だ。
黄色く、黒い模様のついた、ヨーロッパの古い店みたいな扉の前に立つ。
下から階段を眺めると、浸水が起きたらここにいる人が一番にしぬだろうなーと思ってしまう。
なんだか怖い階段だ。
「…入っても大丈夫ですか?」
扉をトントン。軽くたたいて、濁った小窓から中を見ようとした。
「開いてますよ」
中から声が聞こえた。
扉をゆっくり開けて、頭だけ中に入れてみると、ハゲ寸前のおじさんがカウンターに座ってこちらを見つめていた。
「あんた大人なのに妙に子供っぽいね」
タバコの吸い殻を口にしているのに、つけていない。
「タバコ吸わないんですか」
「店内はダメだ、香水ににおいが付いちまったら糞ッ!糞糞糞ッ! ぁぁぁぁ!!! だぁかぁらぁな?」
「へぇ」
扉をもう少し開けて体も中に入れる。
「兄ちゃん今日はどういう匂いを探しに?」
「コーヒーですね」
店内を見回すと、壁も、香水のラベルも、全てが黄色に塗られていた。
カウンターや、木材を使うテーブルだけは茶色のままでも、中に入ると急に明るく感じてしまう。
「…よくこんなところにいられますねじじい」
「お兄さんと呼びやがれ」
しゃがれた声でおじさんは言う。
「ま、珈琲だな。珈琲だったら最奥らへんの右らへんの左に曲がって三歩下がって大股二歩カニ股右四歩だな」
「ありがとう」
道なりを進んで行きながら、いろいろな香水を眺めた。匂いの強い物もあれば、部屋の角までつけば全く匂いのない無臭の香水コーナーもある。
そして、カニ股で右に四歩ずれると、珈琲コーナーを見付けた。
「ブラジル、コロンビア…濃い目。ん…迷うなぁ」
「迷うなら日本産はどうだ、パトリオット心だッ!」
急に耳元でささやかれて香水のカウンターに体を落とし、大量の香水と一緒に転んでしまう。
すでに匂いの強かった店内は、割れた瓶のせいでさらに強くなった。
「払えよ」
「はい」
「それでな、日本産は結局ココ東京がいいんだわッ!」
「東京ですか」
「東京だ」
「スポンサーとかじゃなくて、これ実はテレビ?」
「いやそういうわけじゃ…」
「俺有名人?」
「…すまんな少年。 じゃあもう岡山の珈琲もあるからそれはどうだ。周りの人は甘い香りが楽しめるぜぇ?」
「決まりですね」
じじいの手を借りて立ち上がり、岡山のコーヒーを受け取った。
「払えよ」
「はい」
お支払いをする入り口のカウンターには大きいガラス瓶があり、中に千円札が何枚か入っていた。
「これなんですか」
財布から大量の10円を出している間に彼に聞いた。
「募金だよ。日本も未来が怪しいからお客さんから金とってここに入れてんだ」
「へぇ~、このお金は誰に行くんですか?」
「俺の腹にたまる美味い飯屋の財布に行く」
四千円分の十円玉をカウンターの上にどっしり置くと、おじさんが俺の顔を見上げた。
「あんたふざけてんのか?」
「いたって真面目です」
「あんたふざけてるだろ」
「マジ顔ですほら」
「ふざけるのも大概にせえよ?」
「財布カラですよ俺」
「銀行じゃあねんだよ若造ッ! テメェの大量の銅貨、誰が数えると思ってんだッ! 俺だよ俺ッ!」
「おじさんは名前なんですか? ていうか数えないんですか?」
「暇かッ! テメェ暇かッ! そうかニートなんだなッ! 暇なんだなやることないんだなだから他人の店行って迷惑かけてんだなッ!」
「俺はハチって言うんです」
「キタキだよろしくな」
叫ぶのをやめて店主のキタキさんは俺と握手をした。
「…また戻ってきますねキタキさん」
「あ、あぁ。ちなみにこれ会計、多分足りない…」
慎重に10円玉たちを手に取って数え始めるキタキさんを残して俺はお店を出る。
うん、知ってるよ足りないって。
でも借金が増えることくらいあのボトルたちが落ちた瞬間に知ってたんだから、そこまで気にしなくてもいいよね?
香水の入った紙袋の中に鼻を入れてフンスカ匂いを嗅いでみると、ほぼほぼ何も感じなかった。
ボトルが開いていないからだろうか。
「またねー!」
扉がすでにしまった状態で階段の前にとまり、上がる直前に店内にいるキタキさんに別れの言葉を告げた。
なんて可哀想なおじさんなんだ。結婚はしていないのだろうか? 彼の友達になれたら一緒に彼女を探しに出かけてもいいのかもしれないね。
そうしたら彼と同じくらいハゲてる女性を見付けたら、ぴったりお似合いかもしれない。
階段を上って、道路に出た。




