【第7話】いつの日か
私は頷くと、出水さんに続いて館内に入った。すると、そこにはえんじ色の花模様の床が広がっていて、外から見る印象以上にロビーには余裕があった。十数人くらいなら余裕で入れそうだ。
受付には男性スタッフが立っていて、その後ろには映画祭のポスターがいくつも貼られている。両脇には二階席に続く階段があり、二つの入り口の間には本や映画のTシャツが販売されていて、ふと右手に目を向けると小さなカフェのような座れるスペースも見える。十分に広いこともあって圧迫感はなく、落ち着ける雰囲気が漂っている。
私が何度も訪れている東京のミニシアターよりも、一段とのんびりとした空気だ。もちろん良い意味で。
私たちは受付のスタッフに関係者証を見せて、これまた懐かしさを感じる赤い扉を引いて劇場内に入った。ロビーよりも照明を抑えめにしている劇場内は、二〇〇席ほどの赤い座席がずらりと並んでいた。その中で座っている観客は、五〇人ほど。
映画祭と言えば東京国際映画祭くらいしか行ったことがない私は、それと比べると少し寂しいなと思ってしまうけれど、それでもミニシアターにしては入っている方だろう。
私たちは、二人で中央寄りの席に並んで座った。座席にはネームプレートが取り付けられていて、出水さんの話によると一万円の年会費を払って特別会員になれば、誰でも名前を出せるらしい。見る限り、全ての座席にネームプレートは取りつけられていて、ここでも私はこの映画館が地元住民に大切にされていることを感じた。
私たちが席に着いて、さらに何人かの観客が上映間際になって入ってきてから、劇場内にはじーっというベルの音が鳴る。それは言わずもがな上映が始まる合図で、照明が落とされて暗くなる劇場内に、私は年甲斐もなくワクワクしてしまう。
そして、一本目の映画の上映は始まった。その映画は、日常に潜んだ宇宙人の生活を描いていた。切り替わっていく場面に、流れる劇伴。
だけれど、私にはその映画はあまり面白いとは思えなかった。登場人物たちの会話は雲を掴むような抽象的なものに終始していて、展開もあっちにいったりこっちにいったりと突飛だ。それは良く言えば自由だけれど、私には意味不明なものにも映ってしまう。
映画は終始シュールで、この雰囲気が好きな人もいるのだろうけれど、それでも私の感覚にはあまりハマらなかった。普段は分かりやすい大作映画を観ることが多いから、こういった筋道が通っていないように見える映画をどのように観たらいいのか、その素養が私には乏しかったのだ。
もちろん自分の好き嫌いだけを、映画を買い付ける唯一の基準にしてはいけない。それでも、私には今上映されている映画が興行的に成功するとは、本当に申し訳ないことに、あまり思えなかった。
映画は八〇分ほどで終わったけれど、劇場内が明るくなるまで、私はそれ以上の長さを感じていた。私のように頭に疑問符が浮かんでいる観客もいることが、映画が終わった瞬間の少しざわついたような雰囲気からも感じられる。
この映画祭はただ映画を上映して終わりではなくて、監督や出演者、プロデューサーなどが舞台挨拶をする時間も全ての映画に設けられている。スクリーンと客席の間には、学校の体育館を思わせるようなステージがあって、そこに監督と主演の俳優が登場すると、私たちもひとまず拍手で応える。
でも、その拍手は私には心からしたものとは言えなくて、それは微妙な表情を見せている出水さんも、また同様のように思われた。
映画ができた経緯や演じるうえで意識したこと、はたまた撮影中のエピソードなどを話して、舞台挨拶は二〇分ほどで終わった。
壇上の二人は緊張もさほどしていないようにざっくばらんに話していたけれど、それでもあまりハマらなかった映画の舞台挨拶ほど退屈な時間はなかなかない。だから、私は彼らの話を軽く聞き流しながら、時折別のことも考えながらなんとかやり過ごす。出水さんも今観た映画にはピンと来なかったようで、劇場内に留まり続けている。
そうして一五分ほどのインターバルを挟み、次の映画は上映された。その映画は日常の些細な出来事をユーモアを込めて描くという作風だった。ペットボトルのコーヒーを開けるときに強く握りすぎてこぼしてしまったり、スマートフォンで料理の写真を撮るときに影を作らないよう気を配ったり。
日常生活の普段は意識しないような瞬間を切り取ったかのような作品は、前の映画よりは私には好感が持てるものだった。クスリと笑える瞬間もあり、劇場内の雰囲気も柔らかくなっている。
でも、ストーリーらしいストーリーがさほどないその映画は、観ているうちに眠気を誘ってきて、私は何度もウトウトしてしまう。今日は朝も早かったし、新幹線のなかでずっと起きていたことが今になって仇になっていた。
それでも、出水さんは二本目に上映された映画に好感を持ったらしく、監督の舞台挨拶が終わった瞬間に「今の映画、良かったよね」と私に声をかけてきた。私も寝てしまった部分はあったものの、それでも「はい、良かったです」と話を合わせる。
少し話してから、出水さんは「ちょっと監督と話してくる」と言って席を立っていった。配給会社の人間である私たちは監督等に感想を伝えたり、ウチの会社で配給させてもらえないかと持ちかける際は、先ほど受付をした犀の角まで行くことになっている。出水さんも、そこへ向かったのだろう。
一方で、たとえ少しでも寝てしまった私が、監督に顔を合わせるわけにはいかない。だから、私は一人で劇場内に残って次の映画が上映されるのを待った。次こそは、寝ずに最後まで見届けたいと思いながら。
三本目の映画はまた一五分のインターバルを置いてから始まった。それは小さな田舎町が舞台で、主人公は学校にもいまいち馴染めず、孤独を抱える少女だった。その少女がとあるきっかけで、自分だけの秘密の友達を見つけていくという、少しファンタジー要素が入ったストーリーだ。
映画は少女が抱える悶々としたやりきれなさが、女優の演技と切実な展開によって表現されていて、私は好印象を覚える。
思えば私も学生時代は今よりももっと地味で、友達が多いとは言えない学生だった。それでも映画を観ながらなんとかやり過ごしていたのだが、それがスクリーンのなかで描かれている少女の境遇や展開と重なって見えて、私は思わず感情移入してしまう。少女の前に現れた秘密の友達が、私にとっては映画だった。そんな気さえしてくる。
少女は秘密の友達に救われ、またその秘密の友達も少女によって救われている。そんな構図が真夜中の花火のシーンや、夏の川遊びのシーンに投影されているようで、胸を打つ。ラストも未来への希望が窺われる終わり方をしていて、私は涙を流す一歩手前のところまで持っていかれた。
大作映画ではなかなか描きづらいような、青春の機微みたいなものがその映画には刻印されていて、私は思わず拍手さえしたくなる。
こういう掘り出し物というか、自分にとっての宝物になるような映画を見つけるために、私は映画館で映画を観ている。そのことを再確認するような鑑賞体験だった。
その映画が終わった後にも、この映画祭恒例の舞台挨拶はあって、私は思いっきり手を叩いて、監督とプロデューサーを迎えることができた。監督は私よりも同年代か、もしくはそれよりも若く見える女性で、プロデューサーの男性は三〇代ほどに見える。
映画祭および上田映劇のスタッフの進行のもと、舞台挨拶は始まる。映画ができた経緯や、映画に込めた想いなどを二人が話していく。
監督は「私もかつてはこの映画の主人公のように下を向いて学生生活を過ごしていた。学校に行けなかった時期もある。だから、そんな過去の自分や、過去の自分と同じような境遇にいる人たちを少しでも救いたいと思ってこの映画を作った」といったようなことを言っていて、私はさらに胸を打たれる思いがした。監督のその想いはちゃんと私に届いたよと、声に出して言いたくなるくらいだった。
監督とプロデューサーが二〇分ほどの舞台挨拶を終えると、私はすぐさま劇場の外に出ていた。本当は観終わった後の勢いそのままに、ロビーで監督たちに感想を伝えたかったのだが、少し込み入った話もしたかったから、そういうわけにもいかない。
犀の角に戻ると、私はひとまずコーヒーを頼んで、空いている席に座った。店内では映画祭の関係者や観客などが一息ついたり話したりと、思い思いの時間を過ごしている。
その中にさっき犀の角に行ったはずの出水さんの姿はなく、どこか外に出ているようだった。
私がスマートフォンを片手にコーヒーを飲みながら待っていると、監督とプロデューサーは十数分した後に犀の角にやってきた。おそらく映画を観終えた観客と話していたのだろう。作り手と観客の距離が近いことも、こういった規模の映画祭の魅力の一つだから、私は不快に思うことはない。
それぞれのドリンクを注文して席に着いた二人に、私はタイミングを見て近づいていく。「あの、少しお話よろしいでしょうか?」と尋ねると、二人は快く応じてくれて、監督は少し驚いてもいた。その目は、私の首から提げられている関係者証に向いていた。
(続く)




