【第22話】一一月一四日
木蓮さんはオフィスに戻る電車の中でも、お父さんである木蓮監督のことについては話さなかった。いや、私たちの間にほとんど会話らしい会話はなかったと言った方が正しい。私の方から踏み込むわけにもいかず、私は少し悶々とした思いを感じてしまう。
でも、私のそういった思いも流し去るかのように、日々は慌ただしく過ぎていった。『いつの日か青かったねと思い出す』を全編見てくれた内藤さんから、「ぜひともウチで上映させてほしい」といった返事が、数日のうちに届く。
そこから木蓮さんを中心にやりとりを重ねていった結果、『いつの日か青かったねと思い出す』の公開日は一一月の第二金曜日、一一月一四日に決まった。新宿武蔵野館の公開予定がなかった週に、ちょうど入り込めた形だ。
『いつの日か青かったねと思い出す』の上映がたとえ一館だけでも決まったことに、私は手を突き上げたくなるほどの喜びに駆られる。それはたった一歩でも、計り知れないほど大きな一歩だった。
『いつの日か青かったねと思い出す』の公開日が決まったところで、私たちの仕事もにわかに慌ただしさを増していく。四谷さんがポスターをはじめとしたビジュアルを作成したり、立石さんが映画の公式ホームページの準備をしたり。
出水さんも各メディアにニュースリリースを出してほしいと依頼するなかで、私は木蓮さんと手分けしてまずは都内や首都圏の映画館へと、劇場営業に向かっていた。ミニシアターを中心に、出来上がったばかりのポスタービジュアルを提案書とともに持っていく。
顔を合わせたその場で「はい、よろしくお願いします」と承諾してもらえることはなかったが、それでも私は各地のミニシアターを駆け巡る日々を送っていた。
出水さんが各メディアと交渉した結果、『いつの日か青かったねと思い出す』の上映情報解禁、その第一弾は七月の中旬になされることが決まった。
私たちの仕事の最初の山場となるその日に向かって、私たちはさらに慌ただしくなっていく。少しでも多くのメディアに取り上げてもらえるように全員で協力して頼みこんだり、予告編制作会社に頼んで特報を作ってもらったり、公開に合わせて販売できるようにパンフレットの構成を考えたり。
劇場営業も含めて、同時並行的にいくつもの作業をこなさなければならず、私は早くも目が回りそうになってしまう。内藤さんや木蓮さんの言っていたことは大げさではなかったと、まだ公開まで数ヶ月がある段階でも、私は感じていた。
その日、私はスマートフォンが振動する音で目を覚ましていた。見ると、いつも私が起きている時間よりは一時間ほど早い。
待ち受け画面には、出水さんからのラインが表示されていた。〝起きてる!?〟〝ちょっとエックス見てみて〟と急を要しているようで、私は再び眠りに落ちる前にスマートフォンを手に取った。エックスと名前を変えてから久しい、そのSNSを私は表示する。
何の気なしにタイムラインを覗いても、そこにはフォローしている人の日常的な投稿がなされているだけで、私は何ら特別さを感じない。
何となくトレンドを表示させてみると、その一番上には『世界が変わる朝に』というワードが上っていた。それは月刊誌で連載されている人気漫画のタイトルで、あまり漫画を読まない私でもその名前は聞いたことがある。
どうしたのだろうかと気になって、私はタップしてみる。すると、真っ先に表示されたその漫画の公式アカウントの投稿に、私の目は一気に覚めた。
「実写映画『世界が変わる朝に』公開日決定!」との一文の下にある日付が、すぐに私の目に飛び込んでくる。見間違えるはずもない。そこには「11月14日(金)全国公開!」と書かれていた。
私はすぐに、出水さんがラインを送ってきた理由を把握する。一一月一四日は、紛れもなく『いつの日か青かったねと思い出す』の公開日だ。つまり公開日が被ったのだ。
もちろん、毎週公開される映画は一本だけではないから、他の映画と公開日が被ることは私たちも当然想定している。
でも、同じ投稿の中に記された「配給:西宝」という文字列が、私の脳を強く揺さぶった。言うまでもないことだが、業界最大手の西宝は全国に配給作品を上映する直営館を持っている。もちろん西宝配給となれば、それ以外のシネコンも上映に手を挙げることだろう。観客がそちらの方に多く流れていくことは、もはや疑いようがない。
私にとってまったく予想できない事態ではなかったことが、歯がゆさに拍車をかける。
『世界が変わる朝に』は一月の時点で、西宝制作のもと実写映画化されることが発表されていて、公開日もそのときは「今秋予定」とアナウンスされていた。だから、一一月一四日は十分に想定できる公開日だったのだ。
でも、私はepoch makingに入社してからというもの、日々の忙しさに押されて、そんなことはすっかり忘れてしまっていた。同じ公開日に、これ以上ないほど強力なライバルがいるなんて。
私の目は完全に覚めて、危機感が指を動かした。
〝出水さん、エックス見ました。西宝の『世界が変わる朝に』の公開日が、一一月一四日に決まったんですね〟
数分前にラインを送ってきた出水さんは、まだスマートフォンを見ているようだった。私が返したラインにもすぐに既読がつく。
それでも、出水さんがさらに返信をするわずかな間にも、私の気持ちは逸って落ち着かなかった。
〝うん、そうだね。間違いなく私たちの一番のライバルになると思う。確かに向こうは強いけど、でも相手にとって不足なしだよ〟
こんなときでも出水さんの心は燃えているようで、私はそれを純粋に凄いなと思う。私は西宝の大作と公開日が被って、今から戦々恐々としているのに。
〝でも、大丈夫ですかね……。同じ公開日に、こんな強い映画があって。お客さん食われちゃわないですかね……〟
〟確かにその可能性は、ないとは言えないね。向こうには原作が人気漫画で、さらにキャストも有名俳優を揃えてるわけだし。片や私たちは、まだ情報解禁前のインディーズ映画。知名度の差は、今は正直まだ歴然としてるよ〟
出水さんの返信はただ単に現状を述べているだけだったが、それでも私はその現実に、途方もない思いを抱いてしまう。今のままでは、勝負にすらなっていないだろう。
〝でも、その差を少しでも埋めるのが、私たちの仕事だよ。これからネットや雑誌、SNS等で発信していって、まずは少しでも『いつの日か青かったねと思い出す』の存在を知ってもらう。興味を持ってもらう。まずはそこからでしょ?〟
そう続けざまにラインを送ってきた様子から、私は出水さんが前しか向いていないことを改めて認識した。
確かに『世界が変わる朝に』の存在は、私たちにとっては脅威だ。それでも、私たちは私たちにできることを、地道にやっていくしかない。強力なライバルに、心を囚われている場合ではないのだ。
だから、〝できますかね……〟という弱音は、たとえ感じていたとしても表に出してはいけなかった。
〝そうですね。私たちは、私たちにできることをするしかないですもんね〟
〝うん。その意気だよ。じゃあ、さっそく今日からの仕事も頑張ってこう。『いつの日か青かったねと思い出す』を少しでも多くの映画館で上映して、一人でも多くのお客さんに観てもらえるように〟
目の前でそう言っているのが見えるかのような出水さんのラインに、私も〝はい!〟と簡潔な返事をする。正直心はまだ揺れていたが、それでも姿勢だけは前向きでいないと、心もそれについていかないだろう。
出水さんの既読がついたことを確認すると、私はベッドから起き上がった。いつもより早い起床でも、衝撃ですっかり目は覚めている。
とりあえず朝食でも買いに行こうと、私は部屋着から着替えて外に出る。梅雨が明けた空は、朝から惜しみない日差しを浴びせかけていた。
出社した私はメールを確認すると、すぐにまたオフィスを後にしていた。私鉄からJR線に乗り換える。今日の私は、池袋エリアでの仕事だった。インディーズ邦画の上映に多大な実績を持つシネマ・ロサをはじめとして、いくつかの映画館に劇場営業をかけるためだ。
池袋駅で降りた私は、まずはそのシネマ・ロサに向かう。既に一度「『いつの日か青かったねと思い出す』の上映はいかがですか?」と営業をかけていて、今日はその返事を聞く日だった。
上映場所である地下へと続く階段を下りた私は、この日も支配人である矢口さんと顔を合わせる。そして、上映中の劇場の横を通るようにして、私はオフィスに案内された。窓のないオフィスの中で、一番奥の応接スペースに通される。
腰を下ろすと、矢口さんは何気ない雑談から話を始めていた。
(続く)




