【第21話】梅雨空
内藤さんとの話も終わって、私たちが新宿武蔵野館を出たのは正午を過ぎてからのことだった。二時間ほど前と比べると空は灰色の雲に覆われていて、今は梅雨の最中だということを私に思わせる。まだ持ちこたえているが、雨が降るのも時間の問題だろう。
だから、私たちは少しでも早くオフィスに戻ろうと、昼食を近くのファストフードチェーンで済ますことにした。店内には少し人が待っていたものの、それでもやはり回転率は高いのか、すぐ私たちの順番がやってくる。
それぞれハンバーガーのセットを注文して、数分経ってから提供されたそれを持って、私たちはテーブルのある二階に上がる。店内はなかなかに混んでいて、私たちはいくつか空いている席の中でも、窓側に近い席を選んで座っていた。
「あの、翔哉さん。さっきはありがとうございました」
お互いハンバーガーやポテトを一口食べて、食事が始まったところで、私はさっそくそう口にした。木蓮さんは「ありがとうございましたって、何が?」と、とぼけた表情を見せている。心当たりがないはずがないのに。
「さっきの武蔵野館への劇場営業のことです。内藤さんへの説明や打ち合わせも、主体となってやってくださって。おかげでとても勉強になりました」
「なんだ。そんなの当然だろ。真鍋は劇場営業の経験もほとんどないんだし、前職でも劇場営業をしていた俺が、中心になって進めるのは当たり前のことだろ。出水さんもそれを見越して、俺たち二人で行かせたんだろうし」
「はい。翔哉さんの説明が的確だったおかげで、内藤さんからも前向きな返事が得られました。本当にありがたく思っています」
「いやいや、確かにそれもあるかもしれねぇけど、でも一番はみんなで作った提案書が良かったからだろ。それは全員の手柄だし、そもそも元を辿れば、この映画を提案した真鍋のおかげじゃねぇか。俺の方こそありがたく思ってるよ」
「いえいえ、翔哉さんの説明が良かったからですよ」
「まあ、真鍋がそう言うんならそれでもいいけど」
このままお互いを褒め合っていては、キリがないと思ったのだろうか。木蓮さんはそれとなく話を収めていた。
それが私には、少し肩透かしをくらったようにも感じられてしまう。だから、私はあまり間を空けることなく、「それと」と口にする。でも、食事をする手は二人とも止めなかった。
「打ち合わせが終わった後も、ありがとうございました」
「だから、何の『ありがとうございます』なんだよ」
木蓮さんは自然な様子で答えていて、本当に心当たりがないように私には見える。まるで「当然のことをしたまでだ」と思っているかのようだ。
「打ち合わせが終わった後も、内藤さんと少し話したじゃないですか。そのときに私、『これから凄く忙しくなるぞ』みたいに言われて。正直ビビってたんですけど、木蓮さんがそれとなくたしなめてくださって。内藤さんもそれ以上は言ってこなかったですし、とてもありがたかったです」
「ああ、そのことか。いや、これから忙しくなるのは間違いなんだけど、それでも内藤さんの言い方は、ちょっと言いすぎだって思っただけだよ。あれじゃ、まるで脅してるみたいだったからな」
「それは私もちょっと感じました。だから、私たちの間に割り込んできた木蓮さんが、頼もしくも感じられたんです」
「そりゃどうも。でも、内藤さんが言ってたことも、あながち間違いではないんだけどな。公開が近づくにつれて俺たちの業務量もどんどん増えてくし、それこそ公開日前後の一ヶ月なんて、まるまる一日休める日が取れるかどうかってレベルだから」
「そんなに大変なんですか?」
「俺がここに来る前にいた会社ではそうだったな。連日何時間も残業して、まさにブラック企業って感じだった。まあ、これはそこまで規模が大きくなかったせいもあるんだけど。多くの社員を抱えてる西宝は、また違っただろ?」
「いえ、そんなことないです。私もチームとして宣伝を担当している映画が公開されるときには、毎日のように残業していましたから。むしろ私が一番下っ端でしたから、色んな雑務も含めて業務量は多かったです」
「そっか。まあ、ウチは今出水さんも含めて五人しかいないから、余計に大変だと思うぜ。それこそ内藤さんが言った通り、一人一人が幅広い業務を担当しなければいけないわけだし。今から少し覚悟はしておいた方がいいと思う」
「覚悟、ですか……」そう言いながら、私は及び腰になってしまいそうになる。この先の大変さを想像すると、ハンバーガーセットを食べる手も止まってしまいそうだ。
「何だよ。真鍋もそれくらいは覚悟して、epoch makingにやってきたんじゃねぇのかよ」
「いえ、私ももちろんそれなりの覚悟はして、epoch makingにやってきたつもりです。でも、どれだけ大変なのかは、まだ予測がつかないですし……」
「そうだな。まあ、でも何とかなるだろ。今世間で上映されている映画がこれだけ多いってことは、それだけ何とかなってきたってことなんだし。俺たちもきっと何とかなるよ」
木蓮さんのその言葉には、何の根拠もなかった。
でも、私も今はその楽観的予測を信じたいと思う。どんなに大変な仕事でも。「何とかなる」と気持ちを保つことはとても大切だ。そうでなければ、実際に何とかはならない。
「そうですね。きっと何とかなりますよね」
「ああ。だから、何とかできるようにお互い精一杯頑張ろうぜ。映画を無事上映して、一人でも多くの観客に観てもらえるように」
「はい!」私は引き締まった声を出す。私たちにやらないという選択肢は、元からないのだ。
木蓮さんも表情を緩めながら頷いていて、私はより前向きな気持ちになれた。
それからもハンバーガーセットを食べながら、私たちは軽く話す。仕事のことも、仕事以外のことも。
木蓮さんは相変わらず穏やかな様子で応じてくれていて、私としても初めて会ったときのような緊張は、いくらかしないでいられる。
でも、私たちが昼食を食べているうちに、窓には少しずつ雨粒が張りつくようになってきた。もしかしたらこれから本降りになるかもしれない。
私たちは、気持ち急いでハンバーガーセットを食べ進める。
でも、そんななかでも私の中では一つ、木蓮さんに訊きたいことが膨らんでくる。それは昨日今日で生まれたものではなくて、焼き肉店で顔合わせをして自己紹介を聞いたときから、私には芽生えていた疑問だった。
「あの、翔哉さん。一ついいですか?」
そう尋ねた私に、木蓮さんは「何だよ」と、三度とぼけたような顔をしてみせる。
別に今訊かなくてもいいのかもしれない。でも、いつか訊かなければ、私には長い間気になり続けることだろう。
だから、私は思い切って訊いてみることにした。
「翔哉さんのお父さんのことなんですけど」
私がそう言った瞬間、穏やかな表情をしていた木蓮さんの眉間にかすかな皺が寄る。内藤さんとの会話の様子も見るに、やはりあまり訊かれたくないことなのかもしれない。
でも、ここまで言って「やっぱりいいです」とはぐらかすことは、私にはできなかった。木蓮さんだって、私の次の言葉を分かっているだろう。一度その話題を出した以上、最後まで言うしかないように私には思えた。
「翔哉さんのお父さんって、映画監督の木蓮桐梧さんなんですよね……?」
おそるおそるといったように尋ねた私にも、翔哉さんは驚くほど動じていなかった。まるで私がそう言う未来を覗いてきたかのように。
「なんだ。真鍋も知ってたのか」
「そりゃ知ってますよ。木蓮監督って言ったら、『昨日から見た明日』や『ショートケーキ・クライシス』といった名作で有名じゃないですか。映画ファン、特に邦画好きからすれば知らない人はいないですよ」
「ああ、ありがとな。そこまで言ってくれて」その言葉とは裏腹に、翔哉さんの表情はあまり嬉しそうではなかった。思えば先ほど内藤さんと話していたときも、木蓮さんは少し話をはぐらかしていた。やはりあまり触れてきてほしくないのだろうか。
でも、そんな私の推測とは裏腹に翔哉さんは「ていうか、なんでこのタイミングで訊いてきたんだよ」と話を繋げている。その口調は怒っているようではなく、純粋に気になっているようだった。
「それは、さっき内藤さんと話しているときに、木蓮監督の話題が出たので。やっぱりそうなんだと思いまして」
「やっぱりそうなんだってことは、真鍋は前々から、俺の父親は木蓮桐梧だって気づいてたわけだよな。ちなみに訊きたいんだけど、それはいつ頃からだよ」
「epoch makingができる前、焼き肉店で顔を合わせたときからですね。自己紹介を聞いて、すぐにもしかしてと思いました」
「そっか。まあ、木蓮ってのは珍しい苗字だからな。真鍋がそう思っても無理はないか。でも、それだったら逆になんで今まで訊いてこなかったんだよ。気になってたんだろ?」
「それは、なかなか訊くタイミングがなかったと言いますか……。というか訊いてよかったんですか?」
「ああ。逆になんでそんな遠慮してたんだよ」
「だって翔哉さん、自己紹介のときには『下の名前で呼んでください』って言ってましたから。もしかしたらお父さんのことは、あまり触れてほしくないのかと……」
そう言う私に、木蓮さんはすぐには言葉を返してこなかった。黙ってポテトを口に運ぶ姿に、私は木蓮さんの図星を突いてしまったのかもしれないと感じる。
おそるおそる「翔哉さん……?」と呼びかけてみる。すると、木蓮さんは窓の外に一度目をやってから答えた。
「真鍋、雨ちょっと強くなってきたよな」
木蓮さんにそう言われて、私もそれとなく窓の外に目をやる。窓につく雨粒は着実に大きくなっていて、窓越しにでも雨音は小さいが聞こえてきていた。
「そ、そうですね」
「本降りになる前にさ、さっさとオフィスに戻ろうぜ」
木蓮さんは、かなり唐突に話題を変えていた。でも、その話題自体には今ここでする正当性があったから、私も「はい」と頷く。私だって本降りになった雨に濡れたくはなかったし、回転率も高く人が頻繁に入れ替わっている二階席では、長居もできないだろう。
だから、私たちはさっさと残りのハンバーガーセットを食べ進めた。いつの間にか冷めていたポテトを口に運びながら、私は内藤さんのときと同じように、木蓮さんにはぐらかされたと感じずにはいられなかった。
(続く)




