【第18話】決断
「真鍋さん、一つよろしいでしょうか?」
「何でしょうか?」
「どうして私に言うんですか? 最終的に配給先を決めるのは、長谷川さんなのに」
國武さんの疑問は、私の痛いところを確かに突いていた。「それは……」と打った相槌に続く言葉がなかなか出てこない。
でも、電話の向こうの國武さんは、私の言葉を黙って待ってくれている。だから、私も必死に頭を回して、なるべく早くに言葉を続けた。
「長谷川さんには契約書類をお送りすることでお願いしているので、それ以上の言葉は逆効果になってしまうと言いますか……」
「つまり、私になら言葉が効果的に働くと。私に重ねてお願いすることで、どうにか自分たちを選んでもらいたいと。そういうわけなんですね?」
「そ、それは、はい。申し開きの言葉さえありません。あの、すいません、國武さん。何度も連絡してしまって。迷惑でしたかね……?」
「いえ、迷惑ではありませんけど。でも、もう一社の配給会社の方は契約書類を送っても、こんなに私に電話はかけてきてはいなくて。どちらかというと、そちらの方が常識的な態度かなとは思います」
國武さんの答えは、まるで私の電話を煙たがっているかのようで、私にはバツが悪かった。やはり何度も連絡をするのは、非常識なのか。國武さんには、國武さんの都合や考えがあるというのに。
そう思うと、私は「は、はい。すいません……」と謝ることしかできない。歩行者信号は青に変わって、私は他の人たちと同様に歩きだしたけれど、心は立ち止まったままだった。
「いえ、だから謝らないでくださいよ。実際、真鍋さんたちの方が私たちのことや作品のことを考えていることは、伝わってきてますし。いや、もう一社の方も考えてはいるんでしょうけど、でもやっぱりこうして行動に移されないと、なかなか伝わってこないですよ」
「それはつまり、私からの連絡が迷惑ではないということでしょうか……?」
「はい、少しも。むしろこれだけ連絡していただけていることが、嬉しくさえも感じています。努力して契約額を増額してくださったことと同様に」
その言葉は、少し社交辞令も含んでいたのだろう。
だけれどそれを差し引いても、國武さんにそう言われたことが私には心強く感じられる。私の、私たちの想いはちゃんと伝わっているという実感が得られたようだ。
その実感をより強固なものにしたくて、私は逸る気持ちのまま返事をする。
「ありがとうございます。そう言っていただけて、私も嬉しいです。あの、國武さん。私は信じてますから。この映画は、映画館で公開されて多くの人に観られるべき作品だって、心の底から信じてます」
「ええ、私もです。作ってる間は必死で、そんなことは考えられなかったんですけど、でも今は一人でも多くの人にこの映画を観てもらいたい思いでいっぱいです」
「私も大いに同感です。それで、もしよろしければでいいのですが、そのお手伝いを私たちepoch makingにさせてはいただけないでしょうか? 私たちは全社を挙げて、といってもまだ五人しかいないんですが、映画を届けることに力を尽くすことを約束します」
「ありがとうございます。その言葉だけで嬉しいです。当然、この電話で『よろしくお願いします』とお約束することはできませんが、それでも長谷川さんとまた話してみたいと思います」
「はい。前向きにご検討してくださることを期待しています」
「ええ、できる限りそうさせていただきます」そう言いながら、電話の向こうで國武さんが頷いているのが、私には見なくても分かるようだった。もちろん「ごめんなさい」と断られる可能性はあるけれど、それでも私たちは打てる手は全て打ったから、悔しさはあれど「もっとこうすればよかった」という後悔は、あまり感じずにいられるだろう。
気がつくと私は駅前の商店街も抜けて、駅構内に入ろうとしている。そのタイミングで國武さんも「そろそろ失礼していいですか?」と言ってくれたから、私は「はい。改めてよろしくお願いします」と念を押してから、電話を切った。そのままスマートフォンをかざして、改札をくぐる。
ホームに向かう私の足取りは、オフィスを出たときに比べて、いくらか軽くなっていた。
出水さんが長谷川さんに契約書類を再送信してから、三日が経とうとしていた。私が國武さんに再び電話をかけてからは、まだ二日も経っていなかったけれど、それでも私はまた國武さんや長谷川さんに連絡したくてなってしまう。
でも、私の不安を解消するための電話に、二人を付き合わせるわけにはいかない。きっと今長谷川さんたちは私たちのオファーを受けるかどうか、考えている真っ最中なのだろう。そこに私が不必要に連絡して、しつこいと思われてはいけない。
私はウズウズするような気持ちを抑えて、どうにか目の前の仕事に取り組む。『いつの日か青かったねと思い出す』の買い付けが決まっていなくても、やらなければならない仕事はいくらでもあった。
それでも、頭の片隅では常に長谷川さんたちのことを考えていながら、私は夜の八時を迎えた。既に出水さんたちは退勤したり出張先から直帰しているから、そろそろ私も帰るべきだろう。
仕事にもある程度の区切りがついたタイミングで、私は一つ息を吐く。そして、帰り支度を始めようと、パソコンの電源を切ろうとする。
そのタイミングだった。私のもとに一通のメールが届いたのは。差出人が長谷川さんであることは、画面の右下に出た表示だけで分かる。その用件が何かも、私にはすぐに分かる。三日間考えて、とうとう結論が出たのだ。
タイトルからはその内容は推測できず、私はすぐにそのメールを開く。その文章が目に入ってくるまでには、さほど時間はかからなかった。
『この度、貴社epoch makingと私たちは、『いつの日か青かったねと思い出す』の配給契約を結ばせていただくことになりました』
その一文を目にしたとき、私は思わず声を上げていた。短い音声が、誰もいないオフィスに浮かんで消える。
もう一度見てみても、その一文はちゃんと現実のものとして画面の中にあって、私は誰もいないのをいいことにガッツポーズまでしてしまう。私たちの他にも長谷川さんたちに声をかけていた配給会社はいて、それでも私たちを選んでくれたことに、喜びもひとしおだ。
「契約書にもサインさせていただきました」とも書かれていて、私は添付されていた契約書をクリックする。すると、その末尾には紛れもなく長谷川さんの名前が記されていて、私の感じる喜びはさらに大きくなっていく。
私たちは『いつの日か青かったねと思い出す』を、買い付けることができた。それはもうひっくり返ることはないだろう。
私は嬉しさでじっとしていることができず、「改めてこれからよろしくお願いします」と結ばれたメールを読み終えると、自然と両手を挙げていた。本当なら誰かとそのままハイタッチさえしたかったが、今はそれはできない。出水さんたちとすぐにこの喜びを共有することができないことが、口惜しくさえ感じられた。
私は逸る気持ちを抑えながら、長谷川さんに「ありがとうございます。契約書確認させていただきました。こちらこそ、これからまたよろしくお願いします」といったメールを送る。送信ボタンを押すと、まだ上映されたわけじゃないのに、私は達成感に似た感情を抱く。年甲斐もなく、飛びあがって喜んでしまいたくさえなる。
そして、私はそのままパソコンを切ることなく、メッセージアプリを立ち上げた。出水さんたちとの全社的なグループに「今長谷川さんから連絡があって、『いつの日か青かったねと思い出す』を買い付けることができました!」というメッセージを送る。
そして、パソコンの電源を切ると私は立ち上がって、帰り支度を始めた。
このメッセージアプリはスマートフォンからも確認できる。出水さんたちも、私のメッセージに喜んでいるのだろう。オフィスを出る前から私のスマートフォンは何度も振動していて、それが私の心をより高く持ち上げていた。
オフィスを出た私は高揚感を抱いたまま、まっすぐ家に帰る。そして、その高揚感は家に帰って、夕食にカップラーメンを食べ終わっても途切れなかった。普段お酒を呑まない私でも、今日ばかりは祝杯をあげたくなるほどだ。
喜びのあまり、私はいてもたってもいられなくなる。気がつけば、スマートフォンを手に取って、長谷川さんに電話をかけていた。電話は、数コールを経たのちに繋がる。「夜分遅くに失礼します。長谷川さん、今少しお時間よろしいですか?」と訊いた声にも、嬉しさが滲み出る。
「はい、大丈夫ですよ」と長谷川さんが穏やかな声で応えてくれると、私の心はまた浮かび上がった。
(続く)




