26.ようやく踏み出せると思った、そのとき
そのまま、風が花々を揺らす音だけが響く。
泉に浸された杖は、変わらず淡い光を帯びていた。
「……あなたにそこまで言われる日が来るとは思わなかったわ」
私がようやく口を開くと、エミリオは苦笑する。
「僕だって、たまには役に立つんだよ」
その軽い返事に、思わず口元が緩む。
けれど、すぐにその笑みは消える。
軽口で流せるほど、エミリオの言葉は軽くなかった。
胸の痛みを覚えたそのとき、ローレンス殿下と女子生徒が戻ってきた。
女子生徒はどこか満ち足りた表情を浮かべている。
「殿下は花にもお詳しいのですね。とても勉強になりましたわ」
彼女は嬉しそうにそう言うと、ちらりと私へ視線を向けた。
その優越感の滲んだ眼差しは、王太子殿下と二人で過ごしたことを誇示しているのだろう。
「そうですの。よかったですわね」
けれど、私の口から出たのは、それだけだった。
それ以上、言うこともない。
正直言って、今の私にとってはどうでもよいことだ。
ふと視線を上げると、ローレンス殿下と目が合う。
殿下は何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
表情はいつもと変わらず穏やかだった。
けれど、どこか釈然としていないようにも見えた。
……私が何か言うと思っていたのかしら。
でも、今はそれよりも、考えたいことがある。
そのとき、不意に泉の光が揺らいだ。
水面へ幾重にも広がっていた淡い光の輪が、ゆっくりと小さくなっていく。
やがて四本の杖を包んでいた光が静かに収まり、水面は元の穏やかな輝きを取り戻した。
「終わったみたいだね」
エミリオが呟く。
私たちはそれぞれ泉から杖を引き上げた。
柄へ流れ込む魔力は、先ほどまでとは違う。
引っかかりのない、滑らかな流れ。
水の地脈魔力が杖へしっかりと馴染んでいるのが伝わってきた。
私は杖を見つめる。
四本の杖は、それぞれ異なる魔力を持ちながらも、一つの流れを乱すことなく調律を終えた。
どれか一本が無理に合わせたわけではない。
互いの流れを受け止めながら、少しずつ均衡を見つけていったのだ。
……人も、同じなのかもしれない。
私はずっと、自分一人で答えを決めようとしていた。
それが彼のためであり、公爵家のためでもあると信じて。
けれど、本当に向き合うというのは、一人で答えを出すことではないのだろう。
相手が何を考え、何を望んでいるのか。
それを知ろうともしないまま、私だけで結論を決めてしまうのは違う。
……話をしよう。
答えを出すのは、そのあとでも遅くはない。
「じゃあ、戻ろっか」
エミリオが杖をしまいながら軽く言った。
私たちもそれぞれ杖をしまい、泉を離れようとした。
そのとき、女子生徒がふとこちらを振り返る。
「ノエリアさまは、本当に何とも思われないのですか?」
「何がかしら」
「私が殿下と二人で過ごしたことですわ」
「ええ。別に」
一瞬、女子生徒の笑みが固まった。
しかし、すぐに気を取り直したように口を開く。
「ご無理をなさらなくても結構ですのよ?」
どこか勝ち誇ったような口調だった。
私は思わず首を傾げる。
「無理?」
「ええ。本当は悔しくても、そう簡単には認められませんものね」
何を言っているのだろう。
私は小さく息を吐いた。
「殿下がどなたとご一緒されようと、殿下のご自由ではありませんか」
女子生徒の頬がぴくりと引きつる。
「そういうことではありませんわ!」
女子生徒の声が思わず大きくなる。
はっとしたように口をつぐみ、咳払いを一つした。
「……失礼いたしました」
彼女は慌てて笑みを取り繕う。
私はそれ以上何も言わず、歩き出した。
その横を、ローレンス殿下が静かに通り過ぎる。
彼は何も言わない。
けれど、すれ違いざまに感じた空気は、どこか張り詰めていた。
殿下は無表情のまま前を向いて歩いている。
それでも、その背中からは、言いようのない重苦しさだけが伝わってきた。
エミリオはそんな殿下と女子生徒を見比べ、小さく肩をすくめる。
「ほらほら、置いていかれるよ」
エミリオは軽い調子でそう言って私を促す。
私は軽く頷き、四人で無言のまま集合場所へ向かった。
集合場所へ戻ると、籠の中のリーヴがぱっと顔を上げた。
小さな両手が籠の縁へ伸びる。
その視線の先にいるのは、少し離れた場所を歩くグレンだった。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
……やっと会わせてあげられる。
リーヴも、不安だったのだ。
そして私も。
エミリオの言葉を聞いた今なら、逃げずに話せる気がした。
まずはグレンに……きちんと、自分の言葉で──。
一歩踏み出した、そのときだった。
「カルディナート嬢」
背後から声がかかる。
振り返ると、ローレンス殿下がこちらへ歩いてきていた。
……今?
思わず足が止まる。
今は、一刻も早くリーヴをグレンのもとへ連れて行きたい。
そして、そのままグレンと話がしたい。
ようやくそう決められたのに。
「少し付き合ってもらおう」
有無を言わせない口調だった。
私は、もう一度グレンの方を見る。
少し離れた場所で、リーヴもまた必死に小さな手を伸ばしていた。




