意外と優しいよね
「ま、今日話すのはここまでね。」
「え!?いやいや、ここからの話が一番気になるんですけど!」
天音さんは口に手を当ててのけずるように笑った。
「ごめんごめん、このあと実は予定あってさ。普通に時間ヤバいからまた話すね。」
「ほんとっすか?約束ですからね。」
天音さんは大きく頷いて返事をすると、荷物と伝票を手にして一緒に店を後にした。外に出ると日が傾き始めていた。
天音さんと駅前で解散した後、軽く伸びをしてスーパーの荷物を片手に家へと向かった。5月中旬辺りの少し冷ややかな風が吹き抜けていた。
さっきまで天音さんが座っていた席を思い出す。萬田くんの話をしている時の天音さんは店で見る時の顔とは違って楽しそうで、照れくさそうで、どこか優しかった。
店では絶対に禁止されているボーイとキャストの恋愛。後ろめたさを感じているかは不確かだったが、自分の心の中であまり悪くないものかもしれないと、どこか今までより前向きに考えるようになってしまっていた。
…いや、だからって何か変わるわけではない。相手は涼香さんだ。あの人は前の彼氏を筆頭にきっともっと色んな男に出会っている。俺なんかで太刀打ちできないような人が多いだろう。俺なんか…と思っている反面、期待してしまっている自分がいたのも確かだった。
家に帰り靴を乱雑に脱ぎ捨てる。洗面所の鏡に映る自分はどこか情けなかった。食料を冷蔵庫に詰め込んで、軽く横になると、飯を食わなきゃいけない、風呂にも入っていないという状況なのに全く動く気力も起きず、寝苦しさを感じたまま瞼を閉じた。
翌日。BLUEwideに着くと変に緊張した。階段を登る足が小刻みに震えているのが分かった。平然を装いドアを開けるとそこはいつもの店内だった。昨日俺が感じた衝撃も、情けなさも寝苦しさも、全てをお構いなしに店内が無理やり受け止めてくるようだった。
スタッフルームで着替え終えて、座って携帯を見ていると天音さんたちの会話が耳に入った。
「秋人ー。ライター持ってない?」
「ありますよ。」
萬田くんは慣れた手つきでライターを手渡した。天音さんは咥えたタバコに火をつけながら「ありがと。」と微笑んだ。それを見て灰皿をサッとテーブルに滑らすように萬田くんは置いていた。
ただそれだけ。それだけなのにいつもとは違って見えた。店に入る時に感じた緊張が消えきっていないことに再度気がついた。
「何見てるの?」
急に横から声が聞こえて、ふと振り向くと涼香さんがいた。きょとんとしたようなその顔がすぐ近くにあって思わず鼓動が高鳴り、同時に「わぁ!?」と声を出してしまった。
その瞬間涼香さんは目元をくしゃっとさせて悪戯に笑った。
「おはよ。」
「おはようございます…あぁビックリした…」
「ふふ、ごめんね。なんかぼーっとしてるからつい。」
そう言って笑った顔を見ると、変な緊張も晴れてこっちまで笑いそうになってしまった。
営業が始まると、いつものように動くことができなかった。頭の中がフワフワしているようでいつものように集中するのに時間がかかってしまう。頭の中が大混乱を鎮めようとしているのか、余計なことを考えてしまっている。
ふと涼香さんの姿が目に入る。俺がこんな気分でも彼女は全く関係のないように接客をしている。お客さんはついこの間までボーイの家に上がり込んでいたなんて知る由もないように色目を使ってペラペラと話を続けている。
…いけない。また余計なことを考えている。まだ営業も始まったばかりなのに。いつまでもいつまでも早く終わらないかと考えてしまっている。
残っていた仕事を終わらせると、時計の針は2時を指そうとしていた。いつもなら1時半には終わる仕事なのに。体がどっと疲れるのを感じた。先ほどまでの喧騒は消え果てて、静けさの目立つ店内になっていた。
スタッフルームに戻ると、涼香さんがいた。というより、スタッフはほとんど帰り支度を済ませて部屋から出るところだった。
「お疲れ様、今日随分ゆっくりだね。」
「すいません、後ゴミ捨てして早めに終わらせるんで。」
「いいよ、ゆっくりで。別に急いでないしさ。」
涼香さんはそう言うと持っていたカバンに目線を落とした。俺は軽く会釈をしてゴミ袋の口を縛りながらゴミ捨て場の方へ向かった。気持ち小走り気味に。
外はひんやりとした風が吹きつけて、道には正気を失ったように横たわっている人がちらほらと見えた。目を他の方に向けると、スーツを着崩して歩くサラリーマンと華奢な女性が横並びで歩いていた。アフターだ。
どちらもにこやかに話しているが、女性の少し濁ったような顔が見えて胃がキリリとしたのを感じた。男の機嫌を取るために女性は相手をしているようで、まるで無理やり散歩に連れられる犬のように見えた。
ハッとしてゴミ捨て場の電信柱に乱雑に袋を投げ捨てると、店の階段を駆け上った。
スタッフルームに戻ると涼香さんは机にカバンを置いて缶チューハイを飲んでいた。ため息をついて酒を口にするその顔は少し寂しげに見えた。
「あれ、お酒飲んでるんすね。」
「うん、だめかな…?」
「いや、全然いいと思います。なんか珍しいなって。」
優しく微笑むと缶を手に取って酒を口にした。
炭酸の抜ける音が、静かなスタッフルームに響いた。
「橋宮くんも飲む?」
「いや、俺まだ仕事残ってるんで。」
「えー、真面目。」
そう言いながらテーブルに頬杖をついた。
洋服の肩紐が少しずれていて、鎖骨の辺りに薄くラメが残っていた。
時間は2時20分。ロッカールームを軽く掃除して仕事がようやく終わると、疲れ切った体を伸ばして着替えた。ワイシャツを脱ぐと背中辺りがじんわりと汗をかいているのが分かった。軽く匂いを嗅いで汗臭さが目立っているシャツをカバンに詰め込んだ。
スタッフルームに戻ってみると涼香さんは壁にもたれかかって眠っていた。机には飲みきった缶チューハイが倒れている。その横に少し濡れたハンカチが置かれていた。
最初は缶の水滴だと思った。けど違った。ぐしゃっと握られた跡が残っていて、ファンデーションみたいな汚れが少し付いていた。
視線を上げる。涼香さんは俯いたまま静かに寝息を立てていた。なんだか、見ちゃいけないものを見た気がした。
空き缶をゴミ箱に捨てて、涼香さんの方に軽く触れた。
「涼香さん、ごめんなさい遅くなって。起きれますか?」
「ん…大丈夫…ごめん寝ちゃってた…」
涼香さんはゆっくり目を擦りながら身体を起こした。なんだか幼く見える。
「帰れそうですか?」
「んー……まぁなんとか。」
そう言いながら立ち上がろうとして、少しふらついた。思わず腕を掴む。
「あ、その、ごめんなさい。」
「んふふ。大丈夫だよ。」
笑いながら机の上の空き缶を見つめた。
「飲みすぎたのかも。」
「1本だけじゃないっすか。」
「んー、疲れてるとよく回るんだよね。」
そう言って小さく欠伸をした。目を擦ってる間、沈黙が続いていた。
「帰りましょうか。」
「…うん。」
机の上のスマホとハンカチをゆっくりカバンにしまう時、一瞬だけ視線が止まった。
けどすぐに逸らした。涼香さんも何も言わなかった。
濡れたハンカチのことについては、聞けなかった。
外に出ると、さっきよりも夜風が冷たかった。
酔いが回ってる涼香さんは、「うわ、さむっ。」とだけ言うと肩をすくめながら何も話さなかった。
数時間前までの喧騒は消え去って、涼香さんのヒールの音だけがコツコツと響いていた。
「橋宮くんってさ。」
「はい?」
「なんか、意外と優しいよね。」
不意にそう言われてなんと返せばいいか分からなかった。
「いやいや、普通っすよ。」
「ふふ、そういうとこ。」
そう言ってから、またヒールの音が響くだけだった。
駅前に着いて、タクシーが来るのを待った。涼香は酔っているせいか、どこか楽しそうにこちらを見てくる。
けれど遠くの道からタクシーが見えた時、突然俯いて物寂しそうな顔を浮かべた。
「橋宮くん、もう帰っちゃうの…?」




