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(本編完結)また第二次世界大戦かよ  作者: 登録情報はありません
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彗星改

このIF歴史ではなんと三菱/川崎の二強で愛知航空機も中島も傘下になっています。しかも二強は技術提携で陸海軍同じエンジンを作っている(差分はアリ)という、現代で言えばトヨタ/ホンダの二強でマツダも日産も傘下になっているみたいな設定です。こうやって日本の工業の底上げが始まります。しかもNCやトランスファーマシンまでいってしまうという日本の「やれば出来る、やりだしたら止まらない」物作りパワーがほとばしります!


世界では独Bf109Bやら英スピットファイアがV型エンジンを採用。

米国もP-36の星形エンジンからP-40のV型エンジンに更新した。


世界の空をV型エンジン航空機が飛び回っていた。

日本も独国から液冷エンジンの技術を買い製作することになる。


この液冷エンジンは独国DB601のライセンス生産であった。

後にハ40と呼ばれる液冷V型12気筒エンジンだ。


陸軍はキ64(飛燕改)が採用し、陸軍はハ40仕様となる。

海軍は彗星改が採用し、海軍はアツタ三二型仕様となる。


陸海軍が別々のライセンス料を支払った為、ヒトラーに揶揄された。

ヒトラー「日本の陸海軍は敵同士か?」


ここで日本軍はハ40とアツタ三二型をハ40にまとめた。

基本的なひな形の設計基準は両者とも同じ規格だからだ。


海軍は彗星改という航空機(攻撃/偵察)を製造する事となった。

計画だけに終わった液冷エンジン彗星にハ40を搭載したものだ。


この時期愛知航空機も中島も三菱傘下に入っていた。

三菱は川崎航空機とは技術提携していた。


多くの会社が技術を分散して液冷エンジンを製産出来る。

それを可能にする技術革新が行われていた。


日本はクランクシャフト他の精密部品を生産する技術がない。

むしろ構造が簡単な空冷星型エンジンに舵を切り替えていた。


だが星形は9気筒以上は、連装して18気筒にするしかない。

これでは2000馬力以上のエンジンで熱で苦労するだろう。


それを見越して液冷エンジンの研究が続けられていた。

だがそれには精密加工した部品が大量に必要だった、


精密加工には精密工作機械が必要だ。

それには工作機械の刷新が必要だった。


部品の製作過程や公差、品質管理・・・・・・。

クランクシャフトは屈曲軸といって加工が難しい。


同形状で同精度のモノを大量生産する。

精密工作機械の製造である。


それには精密歯車や軸、軸受けがいる。

その部品を作る冶金技術が必要である。


これには温度管理と特殊な加工技術がいる。

また品質管理のための検査も必要だ。


缶切りが缶詰の中に入っているようなモノだった。

それも全部機械を使って、熟練工なしでやらなくてはならない。


熟練工が公差を追い詰めるからこそ精密加工が可能だった。

日本伝統の子弟制度による綿々とした暗黙知に基づく継承だ。


これが大量生産による嵌合・組立を阻害していた。

熟練工そのものが互換性のない「生きた治具」なのだ。


この技量や腕といった不可視の技術を数値化する。

これが知的活動支援工学、知識工学(ナレッジエンジニアリング)だ。

 

これに挑んだのが京大人文科学研究所の桑原教授であった。

京大学士山岳会の若手だった梅棹忠夫も引きずり込んだ。


彼らはB6サイズのカードに1枚1項目で技量を書き出していく。

何千枚という記述が山のように積み上がった。


梅棹「あかん、まとめきれへん」

桑原「へこたれんな~」


パソコンもデーターベースソフトも検索機能もない時代。

手書きでやろうとすれば何年も掛かるだろう。


桑原「米国の作表機があれば、分類は簡単になるのになあ」

作表機とは1890年製のパンチカード式データ処理機である。


米国国勢調査のデーター集計は7年掛かる予定だった。

それをたった数ヶ月に短縮したデータ処理機だ。


梅棹「海軍の航空技術廠発動機部にお願いしてみるか」

永野治技術中佐「いいよ、さっそく1台取り寄せよう」


この当時、日米関係はまだ険悪ではなく安穏に保たれていた。

すぐに船便で取り寄せ、装置は神戸港に陸揚げされた。


桑原「はやっ、言ってみるモンだなあ」

こうして米国の作表機が2人の作業に加わることになった。


こうして匠の繊細な技術は数値制御下に置き換わった。

工程は全てカード化され、カードを差し替えれば工程も切り替わる。


このパンチカード式データ処理機が後の数値制御を担う事になる。

穿孔カード制御による数値制御マシニングセンタの開発だ。


工作機械の制御方法が知的生産技術に置き換わろうとしていた。

一方部品の製造過程も色々と模索されていた。


米国は既に手作業ではあるが工程管理が出来ていた。

1903年創業のフォードは画期的な流れ作業を導入した。


加工を機械の代わりに人間がやるベルトコンベア式流れ作業だ。

これをさらに自動機械化したのがトランスファーマシンだ。


加工の順序に工作機械を連結して、工作物を自動搬送して加工する。

だがこれでもチャッキング毎の誤差が集積する短所があった。


V型エンジンの駆動のメインはクランクシャフトだ。

クランクシャフトはピストンの往復運動を回転力にする軸だ。


そのため屈曲軸という複雑な形状をしている。

工作は寸分の狂いもなく高精度に仕上げなければならない。


設計A「じゃあ穿孔も切削も焼入れもひとつの機械でやればいい」

設計B「ええっ、加工物の付け替え、どうすんだよ」

設計C「刃物のほうをを付け替えるんだよ」


製作方法は二種類ある。

熱間鍛造か、切削後高周波焼入れか。


クランクシャフトの一体成形のための熱間鍛造法。

精密熱間鍛造の出来る独国製鍛造機械は国内のどこにもない。


だが機械構造用炭素鋼の中実棒からクランクシャフトを削り出す事は出来る。

旋盤とボール盤、フライス盤が合体した機械で無垢から削り出す。


ここで梅棹と桑原の研究が生きてくる。

穿孔カードで工作機械を自動で動かすのだ。


とうとう日本は自動制御の怪物工作機械を作るに至った。

1度チャッキングした素材を刃物を換えて切削する変態機械だ。


旋盤とフライスが合体したNC/MCという切削機械を使う。

<NC/MC:数値制御マシニングセンタ>


1936年この機械は当時世界中のどこにもない。

1940年に米国で1軸追従制御のモノが開発される予定だ。


精密工作機械を作るには部品を精密に作らねばならない。

頑丈で熱変形せず、品質が均質で同じモノが多数必要だ。


それには連続鋳造の際の徹底した温度管理が必要だ。

それまでは職工が赤熱化した素材の色を見て温度を決定していた。


デカいダイヤルゲージに維持温度帯を色分けして対応した。

温度計の針が緑のゾーンに入れば適正温度が保たれている設定にした。


全てはヒトでなくマシンがやる生産管理である。

職工は趣が無いと抗議したが、戦時中はオミットさせてもらった。


万が一のために女工さんが機械のそばにいる。

女工さんは何かあったら非常停止ボタンを押す役目だ。


ヘルメットを被った女工さんの合図はいつも一言だけだ。

「ヨシッ」


1937~1939年は工作機械会社は500から1937事務所に急増した。

マシンも2万台から6万台に急造し、産業開化と謳われた。


だがその殆どが急造機械(スクラップマシン)であった。

主力は以前として輸入機械だったのだ。


1937年の国内に占める輸入機械の%数は次の通りである。


①研削盤47%

②ブローチ盤100%

③ボール盤15%

④旋盤8%


ここでボール盤/旋盤の%が低いのは国産化が成ったからではない。

精度の低いベルト式で乱造したからに他ならない。


歯車式は相も変わらず輸入品に頼っていた。

歯車の創成が出来ないのだった。


1937年の寺内寿一陸軍大臣はトヨタの工場視察でこう言った。

陸軍大臣「将来自動車はどんどん必要になるからどんどん造ってくれ」


それに対して豊田喜一郎はこう答えたという。

豊田「自動車製造の工作機械はほとんど輸入品です」


「戦時になれば確実に工作機械は不足するでしょう」

「もっと工作機械を保護推奨していただきたい」


陸軍大臣「そんなものなら早く造ったら良いではないか」

この鶴の一声で工作機械は後ろ盾を得たと思ってよい。


陸軍の無理解を逆手に取り、豊田主導で工作機械革新に出た。

工作機械の心臓部は動力伝達の歯車と荷重を受ける軸受けだ。


これを国内で生産するにはやはり輸入品の模倣からやるしかない。

歯車加工機は歯車創成法によりホブ盤を使う。


材質は陸海軍航空規格イ501/502鋼に従わない。

ニッケルもクロムも使う今のS45C/SCr415相当である。


また独国の浸炭窒化技術を取り入れ、表面処理にも力を入れる。

こうして次々と高精度の工作機械が出来上がってきた。


寺内寿一陸軍大臣は豊田の機械工魂を信じていた。

「アイツなら必ずやり遂げる」


寺内が陸海軍の横槍も余計な差し金も全て跳ね返していた。

彼は趣味の盆栽のように基礎技術を育てていたのだろう。


汎用の旋盤もフライス盤、ボール盤、中ぐり盤も次々と国産化。

これら主要工作機械は数値制御(NC)化されていった。


工場は機械が24時間操業でひたすら部品を作り続けた、

同じ品質、同じ公差の部品が無人工場で造られ続けた。


今までの様に隣の工場で造った部品と合わないという事はない。

当たり前の事だが、当時はそういう状況だった。


こうして部品が揃ったら、あとはエンジン組立だ。

組み立て工程は複雑な為、まだ人手が必要だった。


エンジン組立には多くのボルト締結部分がある。

凄まじい数のネジの締結はいままで手動だった。


手動だと締結が曖昧で組立誤差に影響した。

そのため締結工程もほぼ自動に置き換えた。


締結はエアードライバで行う。

その締め付けトルクは決まっており許容範囲は狭い。


人間がやると個人差が出て、ちゃんと締結出来ないネジもでる。

これも全てエアードライバによる自動締め付けに置き換えた。


トルクが大きいと空転するクラッチが付いている。

ウイ~ン、バリバリバリッというおなじみの騒音だ。


自動締め付けの為、作業員が代わっても品質が保たれる。

一台のエンジン組立はおよそ20分で終わった。


組立は40分(電装・ベルト掛け除く)で完成。

検査と試運転を含め、完動品が1時間で出来た。


最も難物と言われていたエンジンでこれだ。


航空機は川崎航空機(現川崎重工)製であった。

これを技術提携で、三菱も同じ工程を提供されている。


三菱はさらにトランスファ・マシンの導入を検討していた。

さらに工程が自動化され品質管理が向上した。


こうしてもう一つのエンジン、液冷V型エンジン量産体制は整ったのだ。

このエンジンは後の重戦闘機で活用される事となる。


豊田喜一郎「言い出しっぺは私なので、ノウハウは頂きます」

後の世でトヨタ自動車工業は世界有数のメーカーになるのだった。

日本の技術は刀匠のように暗黙知による高度な技術(手練の技)がありました。唯一無二ゆえに一つ一つ個性があり、二つとして同じモノはありません。機械工でも力加減と目利き、潤滑油の焼ける匂い、切削面の微妙な色で「今!」というタイミングがあります。シャーリングでも表面に炭素が寄った不出来な素材板金を上手く切断する刃の角度を知るのは匠だけなのです。これを知るには弟子入りして徒弟となり「目で見て盗め!」をやるしかありませんでした。それを日本は知的活動支援工学でパンチカードにしたのでした(IF歴史)。次回は空母大増産です

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