第二次上海事変(2/3)
台風一過の好天と荒天の狭間をぬって中国軍の上海爆撃が始まる。天候が災いして日本軍は対応が出来なくなっていた。<ここで表記の”中国軍”とは国民党軍と共産党軍の国共合作による軍を示し、”日本軍”とは関東軍や増派の本土軍も含めて書いています>
1937年08月01日地下調整池はすべて完成。
ちょうど台風が上海に迫っていた。
「さっそく黄浦江の増水に備えるのか」
「台風は沿岸を通過し、上流には向かわないぞ」
「今回は出番がないようだな」
1937年08月14日。
中国空軍の上海爆撃が始まる。
上海陸戦隊ビルは高射機関砲でハリネズミの様に武装していた。
折しも台風一過の影響で陸海とも大荒れの悪天候。
陸上では、雲間から太陽が見えていた。
しかし海上は大荒れのまま、空母は動けない。
台北の松山基地の日本軍航空隊も足止めを食らっていた。
だが中国国民軍の筧橋/広徳基地はそうではない。
中国軍爆撃機ノースシロップガンマ2ECが6機侵空してきた。
中国人は居住人も難民も安全な外国租界に逃げ込もうと大混乱になった。
中国軍の空爆目標は上海陸戦隊ビルである。
外国租界なら安全だと考えたのだった。
市電もバスも運転手が逃げ出し、乗り物は置き去りにされた。
逃げ惑う市民を誘導したのは青幇の構成員であった。
青幇「早く!こっちへ!地下防空壕だ!」
群衆は言われるがままに地下壕に走り込んだ。
そこは黄浦江外郭放水路(地下調整池)であった。
いや、正確には「Uボート・ブンカー」だった。
わずか7ヶ月の工期で順次竣工した独国対爆防空施設の傑作だ。
独国トート機関の多くのテクロクラートを招いて建設した。
独国は蒋介石と繋がっており、蒋介石は青幇出身の構成員だ。
蛇の道は蛇、これを逆に辿れば青幇は独国と接触出来るのだ。
対爆鉄筋コンクリの天蓋は7mの厚さがあった。
貫通には22000lb(9900kg)超大型爆弾グランドスラムが必要だ。
ズシン、ズシンッ。
爆弾の着弾の地響きが地下防空壕に響いてくる。
爆弾はホテルや大通りや交差点に落ち、大損害を与えた。
大世界娯楽センターにも直撃弾があり、建物は粉々になった。
道路には幅3m深さ2.4mのクレーターが出来ていた。
こんなのが混乱する避難民のど真ん中に落ちたら全員爆死だった。
大世界娯楽センターも見かけ倒しで、避難所にはなっていない。
市民全員が防空壕に避難していた為、死傷者はゼロだった。
外国租界では一部物見遊山の不埒者が被害に会っていた。
外国租界に爆弾はこないと爆撃を見物していった為だった。
これらの一般市民への爆撃は、実は誤爆であった。
中国軍爆撃機は黄浦江の日本軍軍艦と上海陸戦隊ビルを狙ったのだ。
しかし台風一過の悪天候と陸戦隊ビルの高射砲に阻まれたのだった。
中国爆撃機はとにかく高い建物に爆弾を投擲した。
そのため租界のあらぬ方向に連続して爆弾が落ちる事になったのだ。
この攻撃は逆に台風による悪天候を利用したとも言える。
台北の空母加賀・鳳翔はとても艦載機を飛ばす天候ではなかった。
この爆撃は第二次第三次と繰り返されたが、人的被害ゼロであった。
青幇のゴッドファーザー張嘯林の願いは成就されたのだ。
蔣介石は台風の足止めを利用して日本軍を一気に揉み潰せると思っていた。
中国軍20万が上海を十重二十重に取り巻いている。
さらに40万人が蘇州、無錫などにおり、待機軍も大兵力だ。
20万人のうち、直接上海を取り巻いているのは7万人。
一方、日本地上軍はわずか5千人あまりである。
台風一過、日本増派の前に蒋介石はカタを付けるはずだった。
だがそうはならず、日本軍は頑強に抵抗した。
その内、台風は完全に去って、日本軍は増派を決行した。
しかし思いのほか中国軍陣地は堅固であった。
日本軍は中国兵捕虜/戦死者を観察しておかしな事に気付いていた。
独製の鉄帽、独製のモーゼル歩兵銃、チェコ製の軽機関銃ZB-26。
鹵獲した高射砲は2cm Flak30で独ラインメタル社製。
鹵獲した戦車は一号戦車A型(中国国民党軍仕様)。
鹵獲した装輪装甲車はSd Kfz 221/222。
鹵獲した対戦車砲は3.7cm PaK 36。
ほかベンツ車、Sd Kfz 250/251(装甲兵員輸送車)多数である。
そこには中国軍軍事顧問の独軍の影がちらついている。
上海周辺の国民軍陣地は「ゼークトライン」と呼称されている。
これらは2万以上のトーチカ、鉄条網と塹壕で構成されている。
独軍は深く掘って鉄筋コンクリで要所を補強する特徴がある。
中国軍もトーチカがあり、鉄筋コンクリで補強している。
日本軍参謀A「これは独軍事顧問ゼークトのしわざに違いない」
日本軍参謀B「武器の供給/補給も受けているだろう」
日本軍参謀C「教練も演習も独式で行われているのでは?」
ゼークトは1935年3月に帰国しているのも掴んだ。
後任はファルケンハウゼンが担っているのも分かった。
漢陽兵工廠は独M08重機関銃、8cm sGrW34迫撃砲、Kar98kを製造。
他にもMG34、20mm、37mm、75mm砲を製造していた。
特に走行偵察車Sd Kfz 221/222の製造工場は脅威だった。
この種類の装輪装甲車に相当するものは日本には無かった。
生産数3~5輛の九三式装甲自動車が有ることにはある。
これらは第二次上海事変では戦果を上げた。
だが生産数が全5輛と希少であり、戦局に影響を与える事はなかった。
独軍事顧問の訓練を受けた師団は8師団、1戦車大隊であった。
独語を理解し、独国人教官と会話も自由に交わした。
蒋介石率いる国民党軍の中のエリート集団である。
他にも20師団が教練を受けていた。
この上海を攻撃しているのはいわば「独軍外人部隊」に相当する。
中国軍を「山出しの田舎モノ」と決して侮ってはならない。
日本軍参謀A「あのSd Kfz 221(装輪装甲車)は発想がいいな」
日本軍参謀B「対地雷伏撃防護装甲車(MRAP)の構造を見ろよ」
日本軍参謀C「底面がV型成形で地雷の爆風を受け流す仕組みだ」
Sd Kfz 221(装輪装甲車)は後に九三式装甲自動車の後継車となる。
Sd Kfz 250/251(装甲兵員輸送車)は日本にはない車種だった。
日本軍参謀A「大山事件の時にこれがあればなあ」
日本軍参謀B「それを言うな、後の祭りだぞ」
日本軍参謀C「これからはぜひ必要になる」
装輪装甲車は後の大陸侵攻に重要な資質を陸軍に与える事になる。
だが今は手持ちのヴィッカース・クロスレイ装甲車で我慢だ。
中独合作によって蔣介石の軍備は日本より勝っていた。独軍の兵器で武装した中国軍はさながら独軍外人部隊の様相である。しかも「戦いは数」のセオリー通りの大軍。次回は第二次上海事変(3/3)です




