第二次上海事変(3/3)
第二次上海事変には戦車が5輛配備されている設定です(正史では0)。これは魔改造を施されますが現場では臨時トーチカとして使用され、あまり活用されませんでした。ディーゼルにしたことで最終型の乙型に近いですが他にも魔改造が施されて八九式中戦車改としています
戦車は5輛配備されていた。
九〇式五糎七戦車砲を有する八九式中戦車改である。
そのシルエットは波蘭の7TPと同じである。
歩兵戦車から生まれたものだから、装甲は薄い。
この戦車の装甲は中国版3.7cm PaK 36で簡単に貫通した。
そのため現地で追加装甲を溶接している。
37mm対戦車砲が300mで貫通しない通常の1.7倍の装甲厚だ。
従来の装甲の鋲打ちを止め、溶接増加装甲とした。
エンジンは三菱空冷6気筒120馬力縦型ディーゼルだ。
これの問題点はクランクシャフトの精度と強度だった。
冶金技術、鍛造技術、切削技術が三拍子揃わないというオマケ付き。
重い、うるさい、ガタガタ振動するに加えて車速が遅い。
そこで南満陸軍造兵廠(後に新型戦車認可工場)に相談した。
上海陸戦隊「コレ、なんとかならんか?」
工場長「里見機関からも聞いていました」
なんと里見機関から要請が、青幇から開発費が出ていた。
張嘯林「上海を守る戦車だからな」
これはエンジン自体のレストアとなった。
すでに配下の奉天鉄工所が窒化特性の優れた鋼を取得していた。
大阪造兵廠第一製造所で長年研究していたものだ。
拡散層の硬さを適切に制御する事で疲労強度と曲げ矯正性の両立に成功。
クランクシャフト用鋼に革命を起こそうとしていた。
この素材を奉天鉄工所にある唯一の独国製切削機械で加工。
5輛分だからこそ出来る贅沢な仕様となった。
最後に高周波焼入れをして作業工程を終了。
<誘導加熱の工業的利用は1925年としている>
実際に試運転してみると、非常になめらかに動いている。
ガタピシブルブル動いていたのがビーンッという微振動に変わっていた。
奉天鉄工所の工場長は唸った。
「海外ではこういう試作品が量産されている」
「日本もまず工作機械を何とかしなければ」
それにはまず日本の基礎技術を上げなければならないのだ。
新型シャフトの戦車は現場からはあまり評価されなかった。
今回は上海市内で移動するだけなので、機動性はいらないのだ。
だが今回の試行錯誤はノモンハン事件でのレストアで役に立つのだ。
<後述のノモンハンの男(2/5)参照のこと>
この戦車には冷暖房が完備されていた。
夏季には室温が80℃近くまで上昇して弾頭が危険だ。
炸薬や推進薬が変質する可能性があるからだ。
冬季は室温が零下30℃まで下がりエンジンが掛からない。
燃料もエンジンオイルも凍り付いてしまうのだ。
このため冷暖房を完備して常に室温を25℃に保った、
冷媒はアンモニアで室外機はエンジンルーム内にあった。
ディーゼルエンジンに換装して空冷となりラジエータが不用になった。
その場所に今度は室外機設置となったのだ。
まあこれは言い訳で冷暖房完備は官給品ではなく調達品だ。
熱交換の圧縮機には次の4種類があった。
①ピストン式
②ロータリー式
③スクリュー式
④スパイラル式
ここでは最も小型軽量な①ピストン式が選ばれた。
熱交換器に詳しい工兵が冷蔵庫の廃棄品から調達した。
車長「決して搭乗員の為ではない(チラッ)」
砲手「心頭滅却すれば火もまた涼し(チラッ)」
装填手「無念無想の境地に入るもよし(チラッ)」
操縦手「それ言った快川禅師は焼死してますよ」
戦車は臨時トーチカとして役に立つ。
日本軍機関銃陣地に戦車は1輛づつ配備された。
中国軍が「独軍外人部隊」ならこれぐらいやらないとダメだ。
装甲車でもいいが機関銃の火力は弱いし、装甲はペラペラ。
対戦車砲で撃たれたら、一発で火だるまになってしまう。
火力が違いすぎて押し負けてしまう。
1936年には日独防共協定が結ばれたばかりである。
独国はなぜ日本軍と中国軍に加担するのだろうか?
独国では実は親日派と親中派で真っ二つに分かれていた。
ナチス外務大臣リッベントロップは日本との連携を重視していた。
独国外務省は内戦で混乱する中国軍に肩入れしようとしていた。
この第二次上海事変の勝敗によってはどっちにも転がる。
彼らは協定といいながら、双方を天秤に掛けているのだ。
そういった計算高いしたたかさが独国の外交なのだろう。
1937年08月18日上海に日本軍増派部隊1400名が到着する。
19日にはさらに1000人が上海に到着、計6300名となる。
だが中国軍の実行部隊は70000名の精鋭部隊である。
10倍に及ぶ敵軍の猛攻に大損害を出しながら日本軍は耐えた。
これは戦車部隊による臨時トーチカの持久戦法がじわりと効いている。
いままでの装甲車と違い、対戦車砲ではどうしても撃ち抜けない。
中国版3.7cm PaK 36では撃ち抜けない事に気付いた中国軍。
双方とも停止し、動くに動けない状況がしばらく続いた。
上海陸戦隊A「増派はまだか」
上海陸戦隊B「早くしてくれ」
上海陸戦隊C「もうもたんぞ」
日本の近衛内閣は上海派遣軍を編成し派遣する事となった。
蔣介石は国家総動員令を発し、大本営を設置、陸海空総司令となった。
中国は国民軍と共産党軍が一時的に結託する事(国共合作)となった。
とうとう第二次上海事変は日中全面戦争へと発展する。
だが中国国民軍自慢のゼークトラインは弱かった。
たった2日で突破されてしまったのだ。
それは浸透戦術によるものだった。
長大な塹壕には必ず防備の集中と散漫が生じてしまう。
防備の薄い所を突破すれば、塹壕はたやすく陥落した。
浸透戦術は奇しくも独軍が発明した塹壕突破戦法だった。
独軍の塹壕を独軍の塹壕突破戦法で破られたのだった。
情けないやら悔しいやら、蔣介石は頭を抱えた。
蔣介石「最強の独軍兵器で武装してこの体たらく」
「所詮は付け焼き刃か」
「ならば”ペンは剣よりも強し”戦法だ」
国民党には国際宣伝処という宣伝部隊がある。
メディア発信力を最大限に生かして、欧米に喧伝する。
欧米には国際宣伝処の支社が至る所にあった。
米国はニューヨーク、シカゴとワシントン,英国はロンドン。
カナダはモントリオール、オーストラリアはシドニー。
メキシコシティー、インド、シンガポールに事務所を設立していた。
これら事務所には航空便で写真と記事が届く手筈だ。
AP通信、米ロイター、英マンチェスター・ガーディアン紙。
すぐに各国一流通信社が中国の記事を取り上げた。
これら新聞社の特派員ハロルド・J・ティンパーリの仕業である。
表向きはジャーナリスト、裏は国民党国際宣伝処の顧問を務めた。
蒋介石はメディア発信力の莫大な影響力を知っていた。
その最たるものが「上海南駅の赤ん坊」と言われる写真である。
たった一枚の写真が米英仏の世論へ訴えかけ、中国に味方した。
仏「赤ん坊になんて酷い事を!」
英「日本国を追い込む決意だ!」
米「日中戦争に介入して戦う!」
文字媒体ではなく、写真媒体での訴えかけを中国側は強化してきた。
BATTLEでは負けてもプロパガンダで勝てば、欧米が味方してくれる。
国民党国際宣伝処に対抗して日本軍も喧伝に本腰を入れた。
宣撫官の結成と宣撫隊の発足だ。
これは1932年熱河作戦のおりに結成されて5年が経過していた。
だが中国側のような「全世界」的なツテは一切なかったのだ。
主なメディアは東京日日新聞、東京朝日新聞、新申報だ。
中国軍の「全世界」支部の宣伝部隊と日本軍の「日本国内」の新聞。
戦争で勝つのは圧倒的軍事力であり、宣伝ではないとした日本軍。
これでは余りにもメディア発信力が弱すぎた。
外務省外交官補:福田篤泰「ううむ、これはマズい」
上海派遣軍報道部:宇都宮直賢「何とかしなければ」
陸軍参謀本部第2部(情報部)でもこの情報は把握していた。
対支那特務工作専従の部署を設置、影佐禎昭大佐を長に据えた。
影佐「やるからには徹底的にやるが宜しいか」
参謀本部「全て任せるから何とかしてくれ」
影佐は全世界に発信し、各国のメディアに働きかけた。
「最前線の取材を許可するから特派員を送ってくれ」
国民党国際宣伝処は中国側のいわばプロパガンダだ。
日本側も取材すれば、真偽が判明するだろう。
海外メディアは我こそはと食いついてきた。
英国、ソ連、イタリア、仏国、スペイン、独国、米国、中国。
英ガーディアン、ソ連プラウダ、伊コリエーレ、仏フィガロ。
堂々たる顔ぶれであり、中国国民軍の比ではない。
ソ連と中国もちゃっかり末席に名を連ねていた。
厚顔無恥と言えばそれまでだが、影佐はへいちゃらだった。
8カ国の従軍記者を指揮用6輪重装甲無線車に乗車させた。
他に軽装甲付弾薬トラックを改造した特殊車両も従軍する。
写真現像/電送機を搭載したメディア送信車だ。
写真電送は1928年有線で、1932年無線で実用化された。
中国で起こった事はその日のうちに全世界が知る事になる。
ベースとなった装輪装甲車Sd Kfz 263は特に機密ではない。
中国ではSd Kfzシリーズはポピュラーであり、記者もそ知らぬ顔だ。
この指揮車が「速戦速決」の機甲部隊に追従する。
そして最前線「戦車隊」の一挙手一投足を取材するのだ。
報道は中国の扇動を牽制すると同時に諸刃の剣でもあった。
日本軍の蛮行をも全世界は知る事になる。
日本陸軍「おま、それ、ちょっ」
陸軍はあわてて静止しようとしたが、影佐のメディア・カーは出発。
最前線ではとてつもない蛮行が繰り広げられていた。
メディア展開については日本は厳しく制限し、良くも悪くも何が現地で起きているのか分かりませんでした。これを逆手に取られ、蒋介石は全世界に向けて日本人の「蛮行」を喧伝するのです。正確さや真実かどうかはこの際後回しで起こった事を都合のいいように伝えました。ヤラセじゃないのかと疑う専門家を差し置いて、全世界がその写真に心を動かされたのです。次回は南京事件(1/4)です




