15.お兄ちゃん、ペケ男を知る2
さて。
今日も清々しい一日が始まった。
朝のジョギングは心も体も健やかにしてくれるのだ。
「おはようございます」
ひんやり冷たい朝の空気が心地よい。
俺は昇ったばかりの朝日を肌に浴びながら、散歩をしているお爺さんに声を掛けた。
「お……おぉ……はて?」
お爺さんは杖に体重を預けながら首を捻った。
「……ワシの家はどっちじゃったかのう?」
「ここから南に700メートル。そこを左に曲がって400メートル。その後橋を渡って600メートル行った先の右手にあるお家ですよ」
海士坂家のご近所さんだ。
こんなところまでお散歩をしてるなんでまだまだ若い。
俺も見習わなくては。
そうして町内を一回り、家に戻る。
わざわざ遠回りをしたのだが、妹には出くわさなかった。
どちらかと言えば朝の弱い妹だ。仕方がない。
「ぬ?」
家の前をウロチョロとしている小動物がいる。
「ニー」
大きな愛くるしい眼。三色模様のふさふさ毛並み。先端までくねくねと揺れる器用な尻尾。
「ネコ目ネコ科ネコ属ヤマネコ種イエネコの三毛猫じゃないか」
伴性遺伝の代名詞的存在だ。
生殖能力を持つ雄は3万分の1の確率だそうで、非常に高い値が付くらしい。
こちらを警戒しつつも逃げようとしない猫の首根っこを抑えつつ、ひょいと股の方を向ける。
「ニーニー!」
じたじたと四肢を動かし、抵抗を試みる三毛。
首の付け根の皮を引っ張ると母親に運ばれる本能を思い出し大人しくなるという話だが、コイツには当てはまらないようだ。
「なんだ雌か」
野良三毛に遭遇する確率も含めれば宝くじを当てるような難度となる。
そうそう見つかりはしないか。
「ほれ。迷惑料だ」
急ぎ戻り、ことりとメザシを乗せた紙皿とミルクを置いてやる。
腹が空いていたのか飛びつく三毛だが、
「…………」
「ん?」
凄い勢いでミルクは飲み干したものの、メザシには口を付けようとしない。
もしや魚嫌いな猫なのだろうか。
「ふむ。こっちならどうだ?」
魚肉ソーセージを剥いて差し出すと、こちらは喜んで食いついた。
同じ魚ではあるのだが、加工品しか食べないのか。中々に贅沢な猫である。
「じゃあな」
再び玄関を抜けてリビングに入る。
つい先ほどまでは居なかった人物。最近、ようやっと見慣れてきた姉の姿がそこにあった。
「おはよう」
「…………ん」
茶色の長髪は、まだクシを通していないのかところどころが跳ねている。
顔も洗ってないのだろう。目もトロンとしていた。
間違いなく寝起き、寝ぼけている。
その証拠に、自分がどのような恰好をしているのか分かっていないご様子だ。
開襟シャツのパジャマにおパンツが一枚という恰好である。
ツヤとハリに満ちた白い生足。無言で居れば見目も良いだけに目の保養くらいにはなる。
いつの日か膝枕くらいしてくれないだろうか。
……いかん。
最近、妹に会えないせいで妙に寂しがりになっている気がする。
「ほらほら。朝食の用意これからだから、まずは顔を洗って着替えてきてください」
「…………んん」
ぐいぐいと背中を押して、洗面所に放り込んだ。
転んでラッキースケベといった展開は起きないらしい。
バタンと戸を閉めて後は放置。
「……で。朝ご飯は?」
そうして出来上がるのは、魔王様だ。
キリッとした目はまるでゴミを見るかのよう。
最近はそれが少し心地よくなってきた。うむ、悪くない。
少々ご機嫌斜めに見えるのは昨夜のせいだろう。
というか毎夜怒らせているような気もするが決して俺の過失ではない。おそらく。
「甘さ控えめのフレンチトーストとサラダです」
「ふん。悪くないわね」
あまり砂糖を入れ過ぎて、胸以外に栄養がいっても困るからな。
大きいのは胸と尻だけで十分だ。
「良い豆が手に入ったので焙煎しておきました」
「淹れて」
ごりごりごりごり。
とぷとぷとぷとぷ。
やっぱり朝はパンと美味しいコーヒーに限る。
ついでだから、味噌も作っておくか。あれも汎用性が高いしな。
◇
「やあ、おはよう」
にこにこにこにこ。
「………………」
にこにこにこにこ。
「…………気持ち悪ぃんだよ」
それは失礼。
これから毎日教室で妹に会えるかと思うと、嬉しくてペケ男くん相手にも笑顔になってしまうというもの。
そんな自分に向けられる奇異の視線も全く気にならない。
そういえば、今日は上履きが残っていたな。うん、幸先がいいぞ。
肝心の妹はというと、まだ登校してきていないようだ。
そういえば、登校初日に欠席していたがどうしたのだろう。
具合が悪いのか? 病気か、それとも怪我? 寝込んでいるんじゃないか? まさか一人自宅で倒れているんじゃ――
「ぬぬぬぬぬっ……!」
「いや、笑うのか困るのかどっちかに統一しろよ」
隣席のペケ男に指摘を受ける。
お前のように常時仏頂面を統一し続けるのもどうかと思うが。
あぁ、そうだ。コイツに聞いてみよう。
「なあ。ペケ男?」
「あ?」
ずざざざざ!
っとクラスメイトが一斉に後ずさりをした。
よく足並みの揃ったことだが、何だというのか。
「ちょっと待て。ペケ男ってのは……まさか俺のことか?」
「他に誰がいる」
「………………」
分かる。無言でも分かるぞ。
いるわけがない、って顔に書いてある。人を殺しかねない表情に書いてあるのがな。
だが、素直に認めたくはないのだろう。
ならばあえて理由を言おうじゃないか。
「俺、お前の名前知らないし」
言い方は少し失礼かもしれないが、問答無用で蹴り掛かってきた相手。
これくらいのコミュニケーションは許されてもいいはず。
決して無礼を無礼で返しているわけではないよ。あくまでコミュだ、コミュ。
「知らねーって……一応はクラスメイトだろが」
……おぉ?
何たることか、今日はペケ男と会話が成立している。
しかも、クラスメイトなんてしっかり認められているではないか。これは驚き。
何故そう思うかって、だって周りのクラスメイトが今のペケ男の発言に驚いているんだもの。
「事故に遭ったせいで記憶がないんだ」
「記憶だと? アホなことを――――と、一蹴してやりてーとこだが」
色々と得心がいった様子のペケ男。
「……ふん、なるほどな。それで態度が180度反転してんのか」
実を言えば記憶喪失でもなくもっと悪いのだが、それを言っても仕方がない。
「そういうわけで、名前で呼んで欲しかったら華麗に自己紹介をしてみろ。はい、3・2・1・キュー」
「…………めんどくせぇ」
「じゃあお前はペケ男だ。文句なかろう」
「…………けっ。面倒だ。それでいい」
思ったより素直な子だ。
養護教諭の言う通り、本当は良い子なのかもしれない。
子、と呼べるような外観でもないが。本当に中学生かと。
「でだ。ペケ男に聞きたいことがあるのだが――」
それにしても、俺がペケ男と会話するとクラス皆がガタブルになるのはどういった現象なのだろうか。
既にワイシャツの男子なんか見るからに腋汗ぐっちょりだぞ。
「あん? 先日の泣き言か?」
「違うっての」
「じゃあ、なんだよ」
「それはだな――」
――なんてやり取りを行っていると、マイエンジェルがやってきたではないか。
「おはよう」
元気があって宜しい。そして、何て可愛いんだ。さすがは俺の妹。略してさす俺。
……む? これでは妹を褒めていることにならないな。さす芋にしておこう。その方が美味しそうだ。
「おはよう、結衣」「……おう」
挨拶を返すと、さりげなくペケ男まで返しているではないか。
こいつ。俺に対する結衣の挨拶に便乗するなんて中々図太いヤツだ。
油断ならないな。
というかこっち横目で睨んでるぞ、コイツ……。
「あ、あの……数馬くん……?」
「え……? あ、うん?」
そうだ。忘れてた。俺数馬だよ。
そういえば、昨日もすっかり忘れてたな。
これからは注意しないと。
「ハイ。ボクハ、カズマデス。以後ヨロシク」
「………………え?」
あれ?
妹が押し黙ってしまったぞ?
何かやらかしたのだろうか……?
「ふ……ふふ……あははっ! ごっ、ごめんなさい、つい笑っちゃって!」
おぉ……結衣が笑ってる。
俺の前ではあんまり見せたことのない笑顔だぞこれは……。
カメラ、カメラはないのか――!?
そうだ、スマホ――って、少年の手持ちはかの屋上から放り落としたままじゃないか――!!
「絶望した! 情け容赦のない現実に絶望した!!」
「えっ! ご、ごめんなさい、そんなに傷つくなんて思わなくて……!」
「いや、そうじゃない! そうじゃないんだ!! 今ここに結衣の笑顔が写真に収められないことが何よりも大きな損失――!」
いかーん!
結衣を誤解させてしまった!!
パニックパニック、皆が慌てて……いや、慌ててるのは俺だけか。
むしろ、皆は死んだ魚のような目をしてないか?
しかも、ペケ男くんまで。
「……はて?」
聞こえるのは「うわぁ……」みたいな一線を引いた声。
中には「きもっ……」のように人の心を抉る台詞まで混ざっている。
「ありゃあ、嫌われたな」などと、一体誰が誰に嫌われたというのか。
「………………」
おおう。
結衣までもが無言じゃないか。
可愛いお目々をパチクリさせてこっちを見詰めている。
くっ……またも抱きしめたい衝動が……。
「……か、数馬君、どうかした?」
「えっ? い、いえっ、何でも……」
見悶えていたところ、慌てて首を振って視線を逸らす。
あぁ、そんな仕草も可愛いぞ、マイシスターエンジェル。
そして、またも聞こえてくる溜息の大合唱。
さっきからなんだっちゅーねん。
「ん?」
隣から、ポンと肩を叩かれた。
見るとペケ男がこちらに手を伸ばしていた。
「何か?」
「いや……その……なんだ。失ったのは記憶だけじゃねーみてーだな」
「おう?」
そんな訳の分からない励まし? を受けてしまった。
◇
≪キンコーンカンコーン……≫
待ってました。
昼食です。心が躍るランチタイム。
別に昼飯が待ち遠しかったわけじゃあない。どうせ、自作弁当だし。
では、何が楽しみかと言うとですね?
「結衣! 一緒にお昼を食べよう!」
前の席のその前に回り込み、両手で二つの弁当を掲げて見せた。
……ふふふ、抜かりはない。
いつもより早起きして結衣の分の弁当まで用意をしてきたのだ。
実は、昨日のお昼。結衣が弁当を持参していなかったことを確認していた。
つまり、今のヒロユキ――少年は、結衣に弁当を作っていないのだ。
ならば、それは俺の仕事。何せ、たった一人の兄だからな。ふはは……!
しかし、そんな妹はどうしたのかというと。
「………………」
喜びのあまり言葉を失っている。
ようには、見えない。さすがの俺にも。
ありありとその目に浮かんでいるのは困惑の色。
うう、そんな目で見ないでくれ、妹よ。
お兄ちゃんは塩を掛けられたナメクジのようになってしまうぞ……。
「おい、数馬」
「……あん?」
ショックのあまりぶっきら棒に投げる。
目線の先に居たのは、
「なんだ、ペケ男か」
「ペケ男か――じゃねぇよ。いいから面貸せ」
「はいはい」
ペケ男に連れられて俺はゆっくりと教室を後にした。
どうせこのまま結衣の前に居ても進展しそうになかったせいだ。
というか去り際、クラスメイトたちに胸の前で両手を合わせられたり十字を切られてしまった。
◇
「――で? わざわざ屋上まで連れ出した理由は?」
「いいから座れ」
貯水タンクの裏。渋々と、俺はペケ男に言われた通りに腰を降ろした。
俺の手には二つの弁当。
対面のペケ男は手ぶらだ。
チラチラと目線が突き刺さる。
「食うか?」
「あ? 誰が男の手作り弁当なんか食うかよ」
「……おい」
あのな。俺だってペケ男に食わせるために用意したんじゃねぇよ。
結衣に食べさせたくて早起きして作ったんだよ。
昨夜から仕込みしたんだよ!
あぁ、心が荒んで口調が荒々しくなるぜ……これじゃあ中学時代の再来だ。
「…………」
そんな俺の無言をどう解釈したのか。
ペケ男は渋々といった様子で弁当を受け取った。
捨てるよりは断然いい。世の中には食べたくても食べられない人が大勢いるのだ。
食べ物を粗末にする人間は死すべし。
「こっ――これは……!」
「な、なんだよ?」
無言で一口。
さらに一口。
「お? おおっ?」
ペケ男の箸は止まるところを知らない。
バクバクムグムグと弁当をかきこむ。まるで飲み物のような勢い。
パックのお茶を差し出すと、奪うようにして飲み干した。
「んぐっ、んぐっ…………ぷはぁ!」
そして、ペケ男のランチタイムは終了。
俺はというと当然一口も進んじゃいない。
「………………ふー」
ペケ男は腹をさすりながら空を眺めていた。
気のせいか表情がいつもより緩い。
まあいい。俺も飯にしよう。
こっちは自分用ということで、妹用に比べると素材は安め。
しかし、ボリューミーに作ってある。
つまり、男子弁当というわけだ。
「あー……もぐ。んぐんぐ……」
うむ。我ながら上等だ。
これならば犠牲になった鶏さんも浮かばれよう。ただの唐揚げではあるが。
「…………(じー)」
「んぐんぐ……ばくっ」
「…………(じー)」
「ごくん。もぐもく……」
「…………(じー)」
「……さっきからそう見られると食いにくいのだが?」
「――っ! わ、悪ぃ」
お前はついさっき食べたろう。
「………………」
「………………」
せっかく目を逸らしても、横目でチラチラとこちらを伺ってくるペケ男。
それでは先ほどと変わらないじゃないか。
ええい、仕方のないヤツめ。
「ほら。もう半分やる」
「…………いいのか?」
「おう。身体がデカい分、結衣用じゃ食い足りなかったんだろ」
「うっ」
ペケ男がわずかに上気する。図星だったようだ。
妹用の弁当箱に半分を取り分けてやり、それをペケ男に再度手渡した。
またも無言でがっつくペケ男。
こいつ、見た目通りハングリーなんだな。ワイルドだぜぇ。
ただし、クマさんの弁当箱が恐ろしく似合わないヤツ。
そうして、俺も落ち着かない昼食を終えた。
「……ごちそうさん」
「おう」
一応、最低限の礼節はあるようだ。
少しだけ関心しながらも、本来の用件を思い出す。
「で。なんだってこんなところに呼び出したんだ? まさか俺の弁当欲しさに……?」
「――んなワケねぇだろう!」
ですよね。知ってた。
「ふーん。そっか~弁当美味しくなかったかぁ~」
なので、ちょっとわざとらしく言ってみる。
するとどうだ。
「べ、別にマズかねぇよ! むしろだな…………あー! 言わせんなチクショウ!」
おぉ。
こいつちょっとだけ可愛いじゃないか。
きっと弟だな。これは弟属性だ。きっと姉か兄が上にいるぞ。
しかし、脱線したままはよろしくない。
このままでは短い昼休みが終わってしまう。
「で。本当の用件をさっさと言え。はい、3・2・1・キュー」
「………………」
だから、何でそこで黙るんだよ。
呼び出した意味分からないだろ、それじゃあ。
「……言ったら、明日も弁当作ってきてやる」
「ほ、本当か……?」
だから、何でそこで喜ぶんだよ。
少し可愛くなってきただろ、ちくしょうが。
人に懐いた野生のニホンオオカミみたいに見えてきたぞ。尻尾あったら振ってるだろお前。
マジで作っちまうからな? いいんだな?
「実はな――」
そうして、ペケ男は本当の用件とやらを渋々ながらに話し始めたのだ。
内容を聞いて察する。
これは確かにおいそれと他人に話すべき内容ではないな――と。
「なるほど。結衣のお兄さんが入院してるのか」
「あぁ。だから、あの子も今ぁ精神的にだいぶ参ってんだよ。そこのとこだけは、テメェが記憶喪失でも察してやってくれ」
コイツ……マジで良いヤツじゃないか。濡れそうだ。
加えて結衣が月曜日に欠席した理由も判明した。
少年――じゃなかった、ヒロユキの見舞いに行っていたのだ。きっと。
落下したのが木曜で、俺が退院をしたのは土曜。
つまり、休んでいた俺以外は、金曜の間に先生から事情を聴いていたのかもしれない。
ということは、クラスメイトの妙な態度は、それに因んでいたのか?
んんー……それとは少し反応が違う気もするな。
それともう一つ。
何やら大きな違和感があるぞ。
「その言い方だと、俺……じゃなかった、結衣のお兄さんとも面識があるような口ぶりだな?」
「ん? あぁ、もちろんあるぜ」
あるのかよ!
俺には覚えが全くないぞ!
「ヒロユキさんは、俺が尊敬する二人の内の一人だからな」
しかも知らない内に尊敬されてた件。
まさかのヒロユキファンでござる。
「おかしいな……確かに同じ中学を卒業してるから、三人の時には一年に居たはずだが……」
「おうよ。俺ら一年の時にヒロユキさんが三年だな。相当目立つ人だったが、テメェの記憶にはねぇか」
いや、そうじゃなくてね……まぁいいや。
「二学年も離れるとさすがに分からないな……」
「普通はそうだろうな」
何せ結衣しか見てなかったからな。
他に分かるヤツがいるとすれば……あぁ、居るな。
「ミツヤの兄弟くらいか」
「あ? なんだって?」
ピクリ、とペケ男の眉毛が動いた。
「だから、ミツヤの兄弟くらいかって言ったんだよ」
「テメ……兄貴のこと知ってんのか?」
「は?」
おいおい。
何を言ってるんだこのペケ男は。
「しかも、呼び捨てだと……? あの鳥水木の生ける伝説の一人……ミツヤ兄さんを……?」
「ちょ、ちょっと待て!」
待て。マジで待て。
理解と整理が追い付かなくなってきたぞ。
「確認するぞ。落ち着け。いいな?」
「あ、あぁ……」
「ひーひーふー……ほれ」
「ひーひーふー」
うむ。
完全にパニクってるぞ、このペケ印。
ともあれ。
「お前、まさかミツヤの弟なのか?」
「そうだ」
うわあ……似てる……そう言われればミツヤに似てるよ……。
ちゃんとすればイケメンなところとか、面長なところとか彫りの深いところとか。
人殺し顔過ぎて気付かなかった。
名前は何て言ったっけな。さすがに二つ離れているとそこまで記憶にない。
……と。待てよ?
記憶との最大の相違が他にある。
「記憶だと、確かミツヤの弟はそんなに大きくなかったというか……ああ。ちょうど今の俺くらいだったような気がするのだが」
「あん? 何言ってやがる。そりゃ二年前の話だろうが。つか、もしかして俺と面識あんのかテメェ?」
「二年前……?」
何ということでしょう。
成長期。そう、これが恐るべき男子の成長期というヤツなのです。
ミツヤの弟君といえば、こうプニプニコロコロしていて子猫のように愛くるしい男子だったのに。
「劇的ビフォーアフター……」
「だから、何言ってやがる。つか、考えてみりゃ学年同じなんだ。一年の時から顔は合わせてんだな」
かつて無邪気だった少年が、ハリウッド特殊メイクばりの殺人鬼面に。
匠はどこかで気が触れたのでしょうか。猫は猫でも今やサーベルタイガーなのです。
「ひょっとして、もっと前から俺と顔合わせてたとか? だってミツヤ兄さんのことを呼び捨てにするくらいの仲だもんな……?」
「あ、あぁ。少なくとも小学生の頃には顔合わせてるな……」
「おぉ! そうか、やっぱりか! なんだ、そうならそうともっと早くに言えよ! こんな三年生になってから打ち明けやがってよぉ!」
そして、急にフレンドリーになるペケ男。
こういうところはまだ昔の面影がある。
「弁当、うまかったぜ!」
それはもういいって。また明日も作ってきてやるからさ。
というか、俺はミツヤの弟を餌付けしてしまったことになるんだな……。
「ミツヤめ……何をどう間違って、あの弟をこんな風に育ててしまったんだ……」
真っ直ぐに育っていれば、今頃は女子どもが放っておかないほどのイケメン男子に育っていたはずだ。
何せ、アイツと同じ遺伝子を持っているのだ。
「は? 何言ってやがる」
そんな俺の独り言に、ペケ男が反応した。
「ミツヤの影響じゃないのか?」
「はっ、まさか」
鼻で笑われた。
そして、俺はこの後、信じ難い発言を耳にすることになる。
「俺は、ヒロユキさんに憧れてんだよ。この傷もそう決心した時に付けたもんだぜ?」
「………………オォゥ?」
あえてもう一度言おう。
なんということでしょう。
無邪気だったはずの少年にとっての匠は、わたくしだったのです。
今日は屋上の風が冷たいな。