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第4章 出会いと四日後に予定された死(1)

トントン。


乾いたノックの音が響いた。


「ハルデンベルク子爵様がお越しになりました。応接室にお通ししております」


私はソファからゆっくりと立ち上がる。


「準備して出かけるわ」


実は、もうとっくに準備を終えて待っていた。


「かしこまりました」


けれど、余裕があるように見せるのが肝心だからね。


……でも、実際は全く余裕なんてなかった。

鏡の前でずっと落ち着かず、焦りながら自分の顔を見つめていたのだ。


――今日の顔、気に入らない。


目の下のクマが目立っている気がする。

化粧で隠したつもりだけど、近くで見られたらバレるかもしれない。


鏡の中の私は、妙に頬だけが赤い。

それでいて、どうしていいか分からない子供みたいな顔をしていた。


手を握って、開いて、また握る。

全身がぞわぞわして、鼓動が耳まで届きそうなほど高鳴った。


――エルだったら、どうしよう。

――エルじゃなかったら、どうしよう。


乾いた唇を舐め、今にも走り出しそうな足を、無理やりゆっくり運ぶ。

深呼吸。


この扉を開ける瞬間、何かが決まる。


ガチャッ。


扉が滑らかに開いた。

日差しの差し込む窓を背に、ひとりの男性が振り返る。


私は必死に冷静さを装い、視線を上げた。

けれど、無意識に息を止めてしまう。


逆光の中、彼の顔に落ちた影は輪郭をくっきりと際立たせながらも、どこか柔らかさを帯びていた。


「リューネの光が届く時期の祝福を。お会いできて嬉しいです、イリィチャ令嬢」


――似ている。


私はドレスの裾を強く握った。


「エーリヒ・ヴェルナー・フォン・ハルデンベルクと申します。

微力ながらアルブレヒト皇子殿下の補佐官を務めております」


こげ茶色の髪、そして紺色の瞳を持つ青年が目の前に立っていた。

凛々しい顔立ちの中で、顎のラインだけがどこか柔らかい。

清澄せいちょうな瞳は、エルと似ていた。


しかし……。

どこかが違う。


エルは、青みがかったほど真っ黒な髪を持ち、瞳は深い紫色だった。

何より、エルだったなら……こんなふうに、見知らぬ人を見るような目を向けるはずがない。


胸の奥で、冷たい何かがひやりと流れ落ちた。


エルじゃ、ない。


「初めまして、ハルデンベルク子爵。

オブロフから参りました、エカテリーナ・アースナヤポリャーナ・イリィチャです。

お気軽にエカテリーナと呼んでください」


――いや、がっかりしないで。

最初からエルじゃない可能性は、分かってたじゃない。

本当にエルが危険に巻き込まれていないなら、それはそれでいいんだ。


……そう思っても、体の力は抜けた。ようやく掴んだ手がかりだと思ったのに。


「それでは私も、エーリヒと呼んでください」

「喜んで。ありがとうございます、エーリヒ」


エーリヒの目が大きく見開かれた。

『名前で呼んでほしい』というのは、ただの社交辞令に過ぎないから。

初対面で名前を呼び合うなんて、ほとんどない。特に異性の間では。


私の小さないたずらに、彼が当惑する様子を見ると、笑いがこみ上げる。

七皇子の第一の剣とまで言われる男なのに。

こういうことになると、こんなに初心うぶだなんて。


しばらく言葉に戸惑っていたエーリヒが、やっと微笑みを返した。


「はは……愉快な方ですね」

「ふふっ、よく言われます。お褒めと受け取っておきますね」


ついでに、厚顔無恥だともよく言われるけどね。

最近、大使が血圧の薬を飲み始めたという噂があるんだけど、まさかね。


胸には、ぽっかりと穴が空いたような虚しさが残る。

でも私は、気持ちを立て直す。


――さて、どうしようか?

もう帝国まで来たんだ。動くも動かないも、全て私次第だ。


まあ、これはこれで楽しいかもしれない。


少し困ったような笑みを浮かべるエーリヒに、私は再び微笑んでみせる。


――例えば、あの窮屈なオブロフじゃなくて、ここで素敵な恋のお相手でも探してみるとか?



***


ガラガラ……。

ヒヒヒン――!


馬車が次第に速度を落とし、やがて止まった。

エーリヒの顔を見た城門の衛兵たちが、慌てて姿勢を正し、槍を下ろして私たちを通した。


先に馬車から降りたエーリヒが、丁寧に私に手を差し伸べる。


「着きました。この庭園を通って、城の中へどうぞ」

「ここが、皇城ノイエ・ヴィスルイゼンですね!」


私は心から感嘆した。

朝の霧はすっかり晴れ、今は雲ひとつない青空。

白く輝く城の姿は、私の想像をはるかに超えて荘厳で、美しい。


「さすがに、すごい規模ですね……。迷子になったりはしませんか?」

「ええ、よくあると聞いています」

「なるほど……」


即答に思わず苦笑した。


こんなに即答で肯定されるとは。

慣れている彼は迷わないだろうけど、私は間違いなく迷子になりそうだ。

まあ、今日は脱走本能にはブレーキをかけておこう。初日なんだから。


そもそも、こうして皇城を訪れることになったのは、ちょっとしたきっかけだった。


軽く会話を交わしていたときだった。

さまざまな芸術品の集大成とも言える皇城を見てみたいと言ったら、彼は意外と快く申し出てくれた。

彼自身も、これから皇城に用があるらしい。


願ってもない好機だった。

四日後のテロを考えると、会場を事前に把握しておきたかったからだ。

舞踏会場までの道も、出入口も、全部。


皇城の庭園は、典型的な迷路式だった。

けれど、その規模はまるで別格。

生垣いけがきの向こうで最初に視界を奪ったのは、圧倒的な大きさを誇る噴水だった。


「すごい……。これが三百年前の彫刻家、ラウデルロの作品――黄金獅子の噴水ですね?」


黄金の翼をもつライオンが、水瓶を両前脚でしっかりと抱えている。

そこからあふれ出す水が幾筋にも分かれて、いくつもの虹を描き出していた。


「はい、その通りです」

「わぁ……! オデオン様式の真髄と呼ばれる作品を、こうして見られるとは……」

「芸術にご興味がおありですか?」

「母が造形芸術に造詣が深い人でしたので。自然といろいろ学ぶ機会がありました」


――はっ、少し興奮しちゃった。

でも、我慢できるはずないでしょ!?


だって、この庭園にある彫像は、どれも博物館級の文化遺産なんだ。

さすが帝国。


ただ、問題は……足が痛いってこと。

つま先がとっくに悲鳴を上げていた。


今シーズンはヒールが高いほどおしゃれって風潮で、つい流行に合わせちゃったけど……。

皇城に来ることになるとわかっていたら、楽な靴を選ぶんだった。


扇子をぱたぱたと軽くあおぐと、彼が私を丁寧に案内してくれた。

マヨルラカオレンジの並木の奥にある、五角形のガゼボ。

濃い緑の葉の間から、青い実の匂いがかすかに漂った。


「ここで少しお休みになりませんか?」

「はい、お気遣いに感謝いたします」


……気づいてくれたのね。


私は遠慮なんてせずに、すぐ腰を下ろした。


ノイエ・ヴィスルイゼンが広いという話は、耳にタコができるほど聞いてはいた。

でも、これでやっと庭園一つだなんて……。

いくらなんでも、非常識すぎない?

助けてぇぇ。もう足にタコができそう……!

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