第二話:特典なしのニューゲーム 〜小学生必死編〜
「――いっ!?」
肺から空気が一気に絞り出されるような感覚とともに、俺は跳ね起きた。
視界が、低い。鼻を突くのは、刺された時の鉄臭い匂いでも、夜の川沿いの冷たい空気でもない。使い古された畳の匂い。窓の外から聞こえる、やかましいほどの蝉時雨。
俺は、自分の手を見た。白く、小さく、肉付きのいい、子供の手。
「……はえ?」
喉から出たのは、まだ変声期も迎えていない、高くて頼りない少年の声だった。震える手で、自分の腹を触る。ナイフで裂かれたはずの場所には、傷一つない。
カレンダーが目に入った。一九九七年七月。
俺は、二〇二六年の冷たい地面で死んだはずだ。だが、今ここにいる俺は、小学校二年生の、あの頃の「久世恒一」だった。
(やり直せる……? 本当に……?)
心臓が早鐘を打つ。これは夢か、それとも死の間際に見ている幻覚か。だが、この畳の感触も、夏の湿った空気も、あまりに生々しい。
「……ハ、ハハ……っ」
笑いが漏れた。喉の奥が引きつる。うまく息ができない。
もしこれが本当に「やり直し」なのだとしたら。
あの時、冷たい地面で誓ったことを――
「……っ」
言葉にしようとして、詰まった。うまく出てこない。
頭の中は、あの光景でぐちゃぐちゃだ。
「……ふざけんなよ」
ぽつりと、零れた。
冴子さんの苦痛に歪んだ顔を思い出す。
やはり暴行されたのだろうか...思い出すだけで腑が煮えくり返る。
俺は立ち上がる。足が少しもつれる。それでも壁に手をついて、なんとか姿見の前に立った。
そこには、まだ何も知らない、ただの子供の顔がある。まだパサついていない黒い頭髪、ダークブラウンの瞳、自信のない表情。
――だが、その奥に。
焼け残ったみたいに、消えないものがあった。
三十五年分の後悔と、あの夜の絶望。
それが、消えずに残っている。
「……これで、終わりじゃねぇんだな」
小さく呟く。少しだけ、声が震えた。
残念ながら、転生特典の魔法やチート能力などは使えないようだ。だが、そんなものがなくてもいい。
いや――あったほうがいい。
「……いらねぇよ、そんなもん」
言い切ったあとで、ほんの少しだけ間が空く。
(……いや、あった方がいい。手から雷とか出してみたかった。)
思わず苦笑が漏れる。
それでも。
人生のやり直しが万人に与えられているとは思えない。これは、間違いなく「機会」だ。
俺は、ゆっくり拳を握った。
まだ柔らかいが、血豆や擦り傷で腫れ上がった子供の手。力なんて、ほとんど入らない。
「……まずは、この体からだな」
視線を上げる。鏡の中の自分と、目が合う。
逃げそうな目だった。前と同じだ。
「……逃げるなよ、俺」
小さく言い聞かせる。
そして、息を吐いた。
(最低でも――)
言葉を、選ぶ。
(俺と、俺が大切だと思えるやつくらいは……あんな目に遭わせない)
一度、目を閉じる。
次に開いた時、ほんの少しだけ、視線が定まっていた。
久世恒一、二度目の人生が、今ここから始まる。




