第十一話:初対面 〜小学生必死編〜
「さおり、図書館行く準備してね。」
姉が優しい口調で私に三度目のお願いをする。
吉田家は貧乏だ。お父さんが死んじゃってからお母さんとお姉ちゃんと三人で暮らしている。お母さんは看護婦(平成では一般的な呼称)という仕事をしていて、病院で働いている。お姉ちゃんは、大学生で毎日勉強を頑張っている。私は小学二年生で特に何も頑張ってはいない。その辺りにいる一般的な小学生でなんの取り柄もない。
そんな私が先日から気になっていることがある。普段から私と同じくらい大人しかった「久世恒一」くんが別人のようになっていた。
朝一から初めて話しかけられたと思うと自分の席はどこだ?と。
そしてそれよりも驚いたのは、昨日いつも通り感じのよくない四人組に向かって定規を使って反撃していた。
これまでの久世くんからは考えられない行動だった。いつも俯いて何も言い返せず嵐が去るのを待つだけだった久世くんはもうそこにはいなかった。彼にいったい何があったのだろうか。
とはいえ、近くにいる私にとばっちりが来るのは避けたかったので、最大限の敬意として親指だけ立てておいた。
そんなことを考えながら図書館に行く準備ができた。家にいるとエアコン代が勿体無いからお姉ちゃんと図書館に行くことになっている。さてこの山積みの宿題は夏休み中に終わるのかな、他人事のように宿題の一部をバッグにねじ込んだ。
図書館通いを始めて数日。俺の日常は「父の監視下での筋トレ」と「図書館での法学解読」の二色に塗りつぶされていた。
そんな折、ノートを開いて昨日の復習をしようとした俺の背中に声が掛かった。
「……久世くん。何をそんなに熱心にやってるの?」
振り返ると、隣の席の吉田さんだった。 話を聞くところ彼女は夏休み初日からいたらしい。猛スピードでページを繰り、般若のごとき形相でノートを埋める俺に圧倒されて、声をかけられずにいたらしい。うん、つまりドン引きしていたということだ。
「こんにちわ、吉田さん。法律の勉強だよ。世の中物騒だしね」
「世の中物騒なの……?」
(うん。今この瞬間も、どこかで誰かが嫌な思いをしてると思うよ)
不思議そうに小首をかしげる吉田さん。 そりゃそうだ。一九九七年の小学生にとって、世界はまだ平和で、守られるべき温かな場所のはずだ。デポルがしょっちゅう犯罪を犯しているなんていう事件もほとんどきかない。
俺はそれだけ言うと、会話を打ち切って六法全書を開いた。 正直、余裕なんて一ミリもない。転生?したからといって、脳細胞が劇的に増えたわけでも、魔法やチートが宿ったわけでもないのだ。 言葉の壁、概念の壁。一九九七年の古い六法全書が突きつける「難解な日本語」という名の迷宮に、俺はただひたすらに、血の滲むような努力で挑んでいるに過ぎない。正直なところ、あと三、四年で理解ができるのか?と、半べそをかいている。
(……チートや魔法がないなら、時間と執念で対応するだけ。昔からそのやり方しか知らない、だから今もそうするけど意味不明すぎて泣きそう)
国語辞典と格闘しながら、刑法の構成要件を解体し、自分なりの考察をノートに叩きつける。 その様子を、少し離れた場所から奇妙な目で見つめる存在があった。
「……ちょっと、君」
不意に、横から声をかけられた。 吉田さんの隣に立つ、背の高い女性。 黒髪を後ろに束ね、清潔感があり、妹のさおりと同様美しい顔立ちをしている。名は吉田みこと。彼女の姉で、19歳の女子大生だという。
「はい、何でしょうか」
俺はペンを止め、視線を彼女に向けた。 みことは、俺の机に広げられた色褪せた六法全書と、びっしりと書き込まれたジャポニカ学習帳を交互に見て、何か言いたそうにしている。
俺のノートには「強姦罪における暴行・脅迫の解釈」や「現行法の不備と改善案」といった考察が整理された筆致で並んでいる。
「……これ、君が一人でやってるの?」
「そうです。何か、おかしなところがありましたか?」
俺が至極真面目に問い返すと、みことは怪訝な表情を浮かべた。
(おかしい……なんてレベルじゃない。小学生が、強姦罪における暴行についての解釈なんて、どう考えても異常じゃない!)
みことの瞳には、好奇心と、それ以上の「得体の知れないものへの恐怖」が混じっていた。
「ただの暇つぶしですよ。あと、世の中物騒ですからね。最低限の知識はつけておかないと。」
俺はそれらしいことを伝え、再びノートに没頭した。 だが、みことの視線は俺から離れなかった。
(あれ…そういえば、前世では吉田さんとすらまともに話したことはなかった。そして当然こんな綺麗なお姉様に出会うことすらなかったな。)
この出会いが、俺のロードマップにどう影響を及ぼすのか。少し楽しみになってきた。




