「第3章 再会」(2ー2)
(2-2)
翌日の放課後の事。
桜が学校を出て、一人通学路を歩いている時、学校からの最寄り駅に母の姿を見つけた。以前と同様にパンツスーツを着て、手に持ったiPhoneで何かを操作している。
昨日の今日で。
まだ今朝も若干、父とはぎこちなかっただけに母の姿を見ると、とても腹が立った。まだ向こうはこちらを見つけていない。最初、このまま迂回して母の視界から回避して駅構内に入ろうとも思ったが、また嘘をつかれ兼ねない。
それに偶然ホームで会っただけの事を良いように改竄されて、文句の一つでも言ってやりたい気持ちもあった。
桜は怒りを原動力にして、一歩を大きく踏み出すと未だにiPhoneを触っている母の前までやって来る。
こちらが近付いた事で、ようやく気付いた母は、顔を上げて「あっ、」と小さな声を出した。彼女がこちらに向ける顔は笑顔だった。
どうしてそんな顔が出来るんだ。母の笑顔は桜の怒りに油を注ぐだけだった。
「あのさ、」
怒りに任せて、いつもより大きい声が口から飛び出た。視界の端から学生の視線を感じるが、気にしないフリをする。だが、桜の渾身の呼び掛けも母には全く通用していなかった。
「いや〜会えて良かった。長い事、ココで桜を待ってたんだから。仕事もあるし、あと十分待って会えなかったら今日は諦めようと思ってたの」
ちっとも良くないという気持ちと、あと十分何処かに隠れていたら、諦めてくれたのかという二つの気持ちが桜の頭をよぎった。後者の方は、無視したらまた危害が及ぶからダメだと、ついさっき考えた事を思い出して頭から追い出す。
このまま黙ってしまうと、また相手のペースにまた乗せられてしまうので、桜は先に口を開いた。
「どうして嘘をついたの?」
「嘘?」
母はその意味が理解出来ないようで首を傾げて眉をひそめた。その仕草が余計に腹が立つ。でもココで怒ってしまったらダメだ。彼女は努めて冷静な声を出した。
「お父さんに私とケーキを食べたって話をしたんでしょ? 本当は駅のホームで会っただけなのに」
「あぁ〜、それかぁ」
桜に指摘されてようやく繋がったのか母は、手を合わせて理解を示した。
「まずかった? そのまま伝えるよりは、良いかなって思ったんだけど」
「何がどう良いの?」
母の言っている言葉の意味が理解出来ず、桜は聞き返す。
「ん〜? まぁ、ね。桜にはちょっと難しいかな」
「あっそ。じゃあもういい」
自分から言い出したくせに難しいってなんだ?
直接口には出さないが、そう感想を抱く。
母と話していると終始、こんな感じになり疲れてしまう。このまま話を続けるより、早く本題に入った方がいい。
「それで、今日は何の用?」
「別に。ただ近くまで来たから、ついでに桜に会えないかなーって思ったの」
絶対に嘘だ。母がそんな非効率な事をする訳がない。
桜は瞬時にそれを見抜き、母に「本当は?」と追及する。
すると、母は小さく笑った。
「車で話そう? マンションまで送るよ?」
そう言って母は、こちらの返答を聞く前に先を歩き出した。一度、こうなってしまうと何を言っても無駄だと悟り、桜は大人しく彼女の後ろを歩く。
駅のロータリーを出て、ココから少し歩いた所にコインパーキングがあった。そこに母が入っていく。入口近くの清算機で料金を払うと、キーリモコンで車のロックを開ける。そこに停められていたのは、黒の外車のセダン。母の車だ。
家を出てからの母がどのようにして働いていたのか桜は何も知らない。要領の良い彼女が仕事でも失敗をしないのは、容易に想像出来る。元々、結婚前は働いていたらしい、再び働くのはそれ程、難しくないのだ。
そんな事を考えていると、後ろから母が小走りで駆け寄ってきて、助手席のドアを開ける。シートに無造作に置かれていたノートパソコンや書類なんかを片付け始めていた。自分の知らない母の日常をそこで初めて垣間見た。
仕事で近くまで来たのは、案外本当なのかも知れない。書類を紙袋に片付けていく母の後ろ姿に桜は、ぼんやりとそんな事を考えた。
「片付けなくていいよ。後ろの席に乗るから」
「そう? じゃあお願い」
桜がそう言って後部座席のドアを開ける。後部座席は何もなく、スッキリとしていた。普段から使っていないのがよく分かる。後部座席に座った桜は、家の車との違う匂いに若干緊張しながらもゆっくりとドアを閉めた。
桜がドアを閉めたのを確認してから、母は運転席に回り、ドアを開いて中に乗り込んだ。エンジンをかけて、車をゆっくりと前進させる。
母の運転する車に乗るのは、これまで数回あったが、乗る度に緊張してしまう。車がコインパーキングを出てから、桜はあらためて質問する。
「それで? 話って何?」
「ちょっと前に裕介君に聞いたんだけどさ。桜って進路、東京の大学に行きたいんだって?」
東京の大学に行きたいと考えていると父に話したのは、ついこの間だ。夕食時に大学進学の事をどう考えているかと聞かれてまだ漠然とだけど、前置きとした上で答えたのだ。
それがもう母の耳に入っている。父がすぐに伝えてしまったのもあるが、彼女が自分の進路に興味があるなんて思わなかった。
高校受験の時は母に相談なんてしなかった。あの頃からすでに父と二人暮らしだったのもあるけど、母とはまだそれなりの頻度で会ってた。こちらから話を振った事もあったけど、興味を示さなかった。そのたった一度で終わっている。
最終的に父と二人で今の高校に進学すると決めた。母には一年生の夏頃に通っている高校名を聞かれて答えたくらいだ。
車は交差点に入ると、母はウインカーを出して右斜線に路線変更をする。信号が赤になり、車が停車する。
カチカチとウインカーの点滅音が車内に響いた。
「そうだけど……」
警戒しながらも桜は肯定した。
「それって、どうして?」
「どうしてって。行きたい大学が東京にあるからで――」
「嘘でしょ?」
父に説明した事を母にも同様に説明しようとした途中に上から遮られる。問答無用で嘘だと言い切られた事に桜は固まった。
固まってしまった桜に母は、言葉を続ける。
「桜の頭が良いのは知ってる。だから、わざわざ東京の大学に行かなくても地元から通える範囲で良い大学は沢山ある。にも関わらず、東京って事は別の理由があるんでしょ? 大方、あの家から離れたいってところかな?」
「……っ、」
こちらの心を正解に見透したかのような母の言い方。それにどう答えたら正解なのか、桜は考え込んでしまう。こちらが次に話すのを向こうは待っている。
信号が赤から青に変わった。ゆっくりと走り出す車の流れに乗って、桜は口を開いた。
「別に私が何処の大学に進学したいって考えても自由でしょ?」
「そうだけどね。実は私も仕事の関係で近々東京に引っ越す事になったの」
「えっ?」
そんな話は父から何も聞いていない。突然の新情報に戸惑う桜だったが、すぐに頭の中で一本の線が繋がった。
二人を漂う小さな沈黙。それを破ったのは母からの一言だった。
「気付いた?」
「……うん」
母の問いに桜はゆっくりと頷く。二人共が地元から出て行ってしまったら、父が一人残ってしまう。彼にも仕事があるから自分達のように離れられない。
そこまで考えて桜は、父に大学に進学したいと言った時の事を思い出した。あの時は、まだ考えている程度の言い方だったけど、決して向こうは賛成した訳ではなかった。
ただ、こちらを尊重して折れてくれたのだ。その事に多少の負目はあった。それでも振り切って東京に行こうと考えていた桜だったが、今の母の話を聞いてしまった後で。
同じように振り切る事が出来るだろうか……。
桜が黙っていると、母が「だから、」と口を開く。
「悪いんだけど、東京の大学じゃなくて地元の大学にしてくれない?」




