「第1章 遠い記憶からの始まり」 (3ー7)
(3-7)
全く考えてもいなかった方向からの一撃。
真緒の発した強い言葉は、桜の脳全体に響いて、ジンジンと音を立てる。
遅刻した理由を聞く話だったのにかなり違う話へと変化している。高低差を感じて、俯瞰で見ていたもう一人の自分が酷く戸惑っていた。戸惑っている桜を前に真緒は、こちらに真剣な眼差しを向けてきて逃さない。彼女のその態度が、決して冗談ではない事が伝わってくる。
桜は目を閉じて、これまでの人生を振り返る。まだ十七年程度だけど、色々あったのは事実だ。自分なりに大変な事も嬉しい事もあった。
そんな人生で、殺したい程憎い相手――。
自問自答を終えた桜はゆっくりと目を開いた。
「殺したい程かどうかは分からない。でも憎い相手はいる」
嘘偽りなく、桜はちゃんと口にした。
心の奥にある秘密の部屋。そこにある金庫に何重にも鍵を掛けて、決して誰にも開けられないようにしていた。普通に暮らしている分には絶対に誰にも開けられない。一緒に暮らしている父には悟らせた事すらない、明確な憎悪。
口にして相手を思い浮かべた途端、耳たぶが熱くなり、体が火照ってくる。汗はかいていないが、頬も赤くなっていたかも知れない。
桜の告白を聞いた真緒は、目を見開いて驚いた反応を示していた。そっちから聞いたのにどうして驚くのか。そう思ってつい眉を顰めた。
それが伝わったのか。「あっ、ゴメン! そうだよね、私から聞いたのにね」と申し訳なさそうに謝ってきた。
「いや、別に」
謝れた事に桜がそう返すと、真緒が小さく笑う。
「桜でもそういう相手がいるのかなって、つい聞いちゃった。実はね、ついさっきまでその人に会ってたんだけど……」
「うん」
桜が相槌を打つと、真緒が一拍置いて短く息を吸った。先程は、質問をされて驚いたが、何かしら彼女の身にあったのだろうなとは察していた。
そこから続いた真緒の言葉は、再び桜に衝撃を与える。
「さっきまで会ってたのに私、殺せなかった」
「……えっ?」
殺せなかった。
クラスで男女混合のグループで誰とても仲良く話しているようなイメージの真緒の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。
どうして? とか何故? の前に衝撃で桜の思考が固まってしまう。
殺意だけを持って実行出来なかったのか。
それとも実行したけど、殺せなかったのか。
硬直が解けた脳で考えるのは、そんな事だった。
桜の思考を表情から読み取ったのか、真緒が首を振る。
「安心して、心持ちだけだから。本当に殺した訳じゃない」
それを聞いて、桜の肩が自然と下がる。どうやら知らない間に緊張して肩が上がっていたらしい。その様子に真緒がクスクスと笑った。
「私が殺す訳ないよ〜。そんな事したら刑務所暮らしになっちゃうじゃん。まだまだ遊びたいもん」
「……刑務所」
真緒の放った「刑務所」という単語を桜は呟く。
それは普段、生きていく上で外にあるものとして扱う桜。
だが、真緒はまるでその場所を殺人を犯した時のデメリットと程度しか考えておらず、肝心の正当性については、何も考えていないように感じた。
目の前にいるのが、本当に自分の知っている真緒なのか。どうかすると違う人の気がしてきた。桜はそう考えていると、真緒が小さく息を吐いて、自虐的に笑った。
「ただ殺せなかったのがね。無性に悔しくて……。私一体、何やってるんだろうって、どうしようも出来なくて、ちょっと街をブラブラして」
「そうだったんだ。それなら連絡をくれたら――」
「また止めてくれた?」
桜が言い切る前に真緒が首を傾げて質問してくる。“また”の部分がフックになって、あの日の映像が脳裏によみがえった。それは止めた現実の映像でなく、止められなかった未来の映像だ。
あの日、真緒の手を掴んだ時、彼女は赤信号を渡ろうとしていた。
だけど、真実はそうじゃなかった。真緒は、赤信号とか関係なく、横断歩道を渡ろうとしていたのだ。
殺したい程、憎い相手を殺しに行く為に。
いくら未来が見えたところで、決して万能ではない事を桜本人が一番知っている。
だからこそ、“遠見の力”はテスト勉強ぐらいにしか使ってこなかった。彼女が思い付く一番簡単で確実な使い方だった。
桜がそう考えていた時、真緒が両手をパンッっと叩いた。
そこまで強く叩いていなかったのに思い他、強く響いた。店内に響いたその音は、一瞬だけ店内BGMさえ、止めてしまうような勢いがあった。
「今日はもう、止めにしようか。流石にこんな状態だと打ち上げは難しいよ。桜にはずっと勉強教えてもらってたのに本当にゴメン」
「ううん、それは別にいいんだけど」
「ありがとう、今日のコーヒー代は私が払うから。せめてこれくらいはさせて」
そう言って真緒は、有無を言わさずテーブルに置かれた伝票を手に取った。
「分かった、ありがとう」
「うん、どういたしまして」
桜が礼を言うと、真緒は笑顔で頷いた。それから二人は帰り支度を始めた。
と言っても真緒は元々、テーブルに何も出していなかったので、横に置いていた通学カバンを持つだけだ。桜の方も文庫本を出していたので、手早く通学カバンにしまう。勿論、ぐしゃぐしゃにならないように丁寧に。
香夏子に出されたコーヒーは、あと一口分だけ残っていたので、立ち上がる前にカップに口を付けた。少し冷めてしまったコーヒーは最初の一口より苦味が濃くなっていた。
会計を済ませてグリーンドアを出ると、ポツポツと雨が降っていた。店内にいる時は気付かなかったが、どうやらついさっきから降り始めたようだ。
天気予報では、晴れだと言っていたから、今朝も洗濯物を干したけど、濡れてしまっただろう。帰ったら取り込んで、週末にまとめて洗い直すしかない。
アスファルトに雨が当たって、独特の匂いがした。幸いな事にまだ雨脚はそこまで強くない、早く帰ろう。桜は、通学カバンから常備している折り畳み傘を取り出す。
バサッと勢い良く音を立てて、折り畳み傘が広がった。隣にいる真緒は何もせず、そのまま店先からローファを履いた足を一歩、前に出した。
「あれ? 真緒、折り畳持ってないの?」
「あー、うん。今日は忘れちゃった。まぁ、これくらいなら大丈夫だよ。駅に着いちゃえば、電車に乗れるし」
照れ笑いをして、真緒はそのまま足を進めた。桜もそれに続く。二人でビジネス街を駅に向かって歩いた。
確かにまだ本降りではないけど、濡れてしまうのは良くない。真緒のブラウスが雨に当たって次第に滲んでいく。




