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桜マーブル  作者: 綾沢 深乃
「第1章 遠い記憶からの始まり」

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「第1章 遠い記憶からの始まり」 (3ー6)

(3-6)


 離れていく香夏子の背中を見つめてから、桜はiPhoneのWordアプリに書いていたこれまでの文章に目を通す。


 現時点で四割まで出来ている。まだ書いていないけど、結末までどうするかも一応、決めてある。


 完成したら推敲する必要があるけど、頑張るしかないか。


 文庫本を取り出したけど、どうやら読んでいる場合ではないようだ。桜はそう決心して、iPhoneを両手で持ち、文章を書き始めた。


 それからしばらく桜はiPhoneで執筆をしたり、休憩として合間に読書をしたりと(本来の趣旨とは違ったけど、読書は出来た)自分の時間を満喫していた。真緒がグリーンドアに入って来れば、ドアのカウベルが鳴るのですぐに分かる。意識の一部分だけを注意しておいた。


 桜がそれから顔を上げたのは、注文したカフェラテを飲み干した時であった。中身の量も気にせず飲んでいたので、無くなってから初めて気付く。同時にあれから何時間経過したのだろうかと思った。


 顔を上げて、フロアにあるアンティークの壁掛け時計で時間を確認する。入ってきた時の時間は覚えているがそれから一時間以上が経過していた。


 真緒、遅くない? 桜の中で疑問が浮かび始める。


 iPhoneのLINEを開き、真緒からのメッセージを確認したが、何も届いていない。メッセージには先に行って待っててと書かれたのを最後に沈黙を守っている。


 心の奥底から不安めいたものが、徐々に湧き上がってくるのを感じた。


 今日まで真緒の様子を見て、特に変わったところはない。


 学校でもそうだ。桜が知っている通りの明るく天真爛漫な真緒。


 だからこそ、桜はいつの間にか考えないようになっていた。最初に会った日の事を。あの、紙袋を持って横断歩道を歩いた日の真緒を。


「ふぅ、」


 小さくため息を吐く。どうしようか、こちらから真緒に連絡しようか。


 さっきは急かしてしまうかと考えたけど、ココまで遅くなるのは想定していなかった。それにあんまり遅くなると家の心配もある。


 真緒だって遅くなるなら連絡をくれるはず。それがないという事は、彼女の身に何かあったのか?


 疑問は際限なく湧き上がってくる。桜が考えを巡らせていると、ピッチャーを持った香夏子が近付いてきた。空になったグラスにお冷やを注いでくれた。


「真緒ちゃん、遅いねー」


「ありがとうございます。そうですよね、どうしたんだろう」


「何か連絡とか来た?」


「いえ、何も。そろそろこっちから連絡してみようかなって考えてたところです」


「うん。一度、連絡した方がいいかもね」


「すいません。お待たせしちゃって」


「ううん。ウチは全然、大丈夫なんだけど……」


 香夏子とそう話していた時だった。


 カランコロン。


 店の上部に取り付けられたカウベルが鳴った。反射的に二人は、音の方へ顔を向ける。「あっ、やっと来た」と香夏子が小さく呟いた。


 グリーンドアにやって来た。真緒は数時間前に学校で見た彼女とは別人のように暗く、静かな顔をしていた。


 香夏子がピッチャーをテーブルに置いて、真緒に駆け寄る。彼女も様子がおかしい事に気付いたようだ。


 まるで頭から大量の冷水を被ったように動作が重たく鬱陶しそうに顔を動かして、店内を見回す真緒。グリーンドアの照明が暖色系なのもあるだろうが、それは桜の位置から見ても大分異質に見えた。


 離れている桜と真緒の目が合う。この数時間に一体、何があったというのか。心配になりながらもその様子を窺う。すると、駆け寄った香夏子が彼女に話しかけた。


 その様子はいつもと何も変わらなくて、それは余計な心配させない為だと分かる。何を話しているかまでは聞こえないが、真緒の負担になるような事は話していないはずだ。


 香夏子と何か言葉を交わした真緒はゆっくりとこちらへ近付いてくる。店内はジャズのBGMが流れているはずなのに学校指定のローファの足音がハッキリと聞こえた。桜はそれが怖くなり、勝手に視線を落としてしまう。手に持っていたiPhoneを用もないのに触っていた。


 だが、そんなものは数秒単位の時間稼ぎにしかならない。僅か数メートル分を稼いで価値を失う。真緒は桜の近くまでゆっくりとやって来て、足を止めた。


 顔を上げた桜と真緒がお互いに見つめ合う。彼女は、少ししてからいつものように向かい側に腰を下ろした。沈黙に耐えきれずにこちらから口を開く。


「真緒、遅かったね。何かあったの?」


 見えないガスの塊に手を突っ込むような感覚。桜はそれでも真緒から発せられる次の言葉をじっと待つ。やがて、彼女はちょっとだけ頷いた。


「うん、遅くなってゴメン」


 声色はいつもの真緒だった。まずはそれが判明してホッとした。それに乗って、桜は精一杯気遣って質問を続ける。


「何だか、元気ないみたいだけど、もしかして今日のテストで変な間違いでも見つけちゃった?」


 そんな訳ないのは、言ってる自分でも分かっているのに桜は聞かずにはいられない。何でもいいから話しかけないと、すぐにやって来そうな沈黙に耐えきれなかった。


「大丈夫。本当にごめんね」


「うん」


 とても大丈夫には見えないけど真緒は大丈夫だと言ってくる。おそらくこれ以上、何を聞いても答えてくれない。それを察する事が出来た。


 だとしたら、次に自分が出来る事はこの場の雰囲気を変える事。


「遅くなっちゃったけど、打ち上げ始めちゃおうか。実は真緒を待っている間にカフェラテ一杯だけ飲んじゃった。でも丁度、飲み干したからまた何か頼もうかな。真緒は何にする?」


 窓際に立てかけられたメニューを手に取り、二人の前に開く。でも桜がドリンクメニューを開いてページを捲っても、真緒は反応しない。


 目線はメニューに向けているけど、それただ落としているだけだ。そんな真緒が桜にはもどかしかった。


 こういう時、何が正解なのか経験が乏しい自分には分からない。予め“遠見の力”を使っていれば対処も出来たかも知れないけど、まさかこんな場所で深呼吸を繰り返して、集中する訳にもいかない。


 どうしたら……。


 言葉が出せず固まったままの真緒を見つめていた桜。すると、二人の下に香夏子がやって来た。


「コラッ、桜ちゃん。困ってるぞ」


 銀のトレーにコーヒーを二つ乗せた香夏子。まだ注文していないのにコーヒーを持って来てくれた彼女の気配りは有り難かった。


 香夏子の声は、真緒に届いたようでまるで夢から冷めたように瞬きを繰り返してから、ゆっくりと顔を上げて「あ、香夏子さん」と声を漏らした。


「はい。二人分のコーヒー。注文取りに行く前に持って来ちゃった」


 香夏子はテキパキとした動作で二人の前にコーヒーを置く。


 目の前に置かれたコーヒーから心を落ちかせる香りがした。いつも注文しているカフェラテとは違ったブレンドコーヒー。


 カップから漂う香りが、桜を安心させた。


「桜ちゃん、ずっと待ってたんだよ? 何があったかくらいはちゃんと説明したら? 謝る方は口にしたらそれで終わりかも知れないけど、謝られた方はそれで終わりじゃないんだよ?」


 香夏子が的確に言葉を真緒にぶつける。彼女が怒っているのを桜は初めて見た。


「あっ、いや。私は全然……」


「ほら、桜ちゃん優しいから気を遣ってくれてるじゃない」


 香夏子にそう指摘されて、真緒がこちらを向いた。彼女が今日、グリーンドアに来て、ようやく正面から自分を見た。綺麗な焦茶色の瞳。それが僅かだけど、潤んでいた。


「ごめん、ちゃんと話す」


 真緒がそう言うと、香夏子が「よーし。ちゃんと話す事」と言って、二、三回頷いてからピッチャーを持って離れて行った。残された二人は再び向かい合ったままとなり、沈黙が漂っていた。話すと言ったって、すぐには無理だろう。


 真緒が話せるまで桜はじっと待った。そこから一分程して、ようやく彼女が口を開いた。




「桜はさ、殺したい程、憎い相手っている?」


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