浦上川
橋から落ちようとしている者がいた。倉場という男だった。
倉場の父はスコットランド出身の商人トマスで、幕末の長崎を拠点に交易等手広く商売をしていた。トマスは様々な要人と交流を持ち、明治維新にも大きく関わったと言われる。倉場の母は日本人で、その長崎で倉場は生まれた。
長崎で倉場は父の事業のなかの水産業に関する事業を引き継ぎ発展させた。そして妻ワカとともに、国内外の多くの有力者と親交を結び、自身の事業、そして長崎を発展させようとした。
しかし昭和になり、戦争が暗い影を落としていく。父の母国を始めとした多くの国と敵対関係となり、倉場の夢は薄れていった。
妻ワカは自国のためと、地域の人たちと戦勝の祈願をするのだが、妻ワカも父が英国人、母が日本人だった。倉場夫妻には当局よりスパイの嫌疑をかけられ、地域の人たちとも今まで通りとはいかなくなった。
ワカは病気がちになり、床に伏してしまう。倉場は必死に看病するが、日に日に弱っていった。話も出来ないようになっていたが、ワカはそれでも倉場に笑顔を送った。倉場と居られて幸せだったと言っているようだった。
そして倉場に看取られ、息をひきとった。
昭和十九年六月に八幡製鉄所を目標に初めての空襲があり、昭和二十年に入るとアメリカ軍は本格的な無差別爆撃を始める。
昭和十九年の秋から昭和二十年春にかけて帝国陸軍は、偏西風にのせて何所に落ちるか分からない風船爆弾、数千個をアメリカ大陸に向けて放った。アメリカ当局は敵に状況を知られないよう報道管制を敷いた。その為市民にも、この事を知らされなかった。
昭和二十年五月五日、オレゴン州の森でキャンプに来ていた日曜学校の生徒五人と先生が犠牲となった。
昭和二十年八月九日、長崎に新型爆弾が落とされる。もはや初老の倉場にとって、いや誰にとっても受け止められないことだった。数日後、倉場は焦土と化した町、町のあとを当てもなくさまよった。
そして崩れ落ちた浦上天主堂に辿り着く。浦上天主堂は吹き飛ばされ、焼き尽くされていた。浦上天主堂のすぐ近くで新型爆弾が炸裂していた。
瓦礫に埋まり、眼が窪み頭部だけになった木製のマリア様をみつける。
「マリア様、どうか愚かな私たちをお許し下さい。マリア様の子らが、そしてその隣人たちが、こんな惨い……」
ムリーリョの傑作「無原罪のお宿り」をモデルに制作されたと伝えられ、青いガラス玉の眼に、水色の衣をまとい、天使たちもおり、頭の周りを十二の星が取り巻く、二メートル程の非常に麗しい像だったと云われている。
禁教期には観音様をマリア様に見立てた、マリア観音様にお祈りする所もあった。
明治になる少し前には既に大浦天主堂が建てられていた。外国人の為の教会とは言えその威容を町ゆく人は嫌でも見せらていただろう。
その珍しい西洋風の建物に、大勢の見物人が来ていたという。その見物人に紛れて、浦上の隠れキリシタンの人たちも来ていた。そして神父様に信仰を告白し、「サンタ・マリア様のご像はどこ?」と尋ねた。
それから、そのシンボリックな教会を政府が容認してもなお、国内の信徒は大弾圧を受けたが、明治六年になって、やっと弾圧が停止された。といっても近代になっても、その歴史を色濃く引きずっていた。
浦上には多くの信徒が暮らしていた。また部落もあった。また当時、多くの外国人も働いていた。彼らは細々と身を寄せ合って暮らしていた。
浦上天主堂は自身の生活もままならない信徒たちにより、およそ三十年もかけて建立された。本聖堂の完成は大正四年のことだった。その時、盛大な献堂式が行われ、無原罪の聖母に献げられた。
そしてそれは一瞬にして崩れ落ちた。
新型爆弾は生き残った者にも深刻な後遺症や、新たな差別を容赦なく浴びせた。
「こんピカドンがー。移るばい。よっそわしか」
ピカドンの被害者がピカドンの罪までも背負わされた。食べ物といえば進駐軍の捨てた残飯くらい。町や田畑を破壊され、家族を失い、僅かの財産も失い、医療もままならず、その後も多くの人が次々と亡くなっていった。
倉場は、橋から浦上川に身をなげた。川辺には、まだ遺体が残っていた。爆弾が落ちた時、焼かれた町から多くの人が水を求めて川に向かった。そして漸く辿りついた人々も次々と息絶えていった。そして何ヶ月もそのままだったという。
「皆さまがなぜこんなことになったのか、今から御説明に参ります。そしてワカ、最後にお前のところに。皆さま、どうか、どうか……」




