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2話:王子と完璧な白のサンプル

 キラキラ組の足音が消えたあとも、私はしばらく、地下廊下から動けなかった。

 ラボが封鎖され、データも消され、白組の五年間が段ボールに詰められていく。それをどうしても受け入れられなくて、私は『私物』と書かれた段ボールの前にしゃがみ込んだ。


 箱の中には、写真が入っていた。

 私が試作品のビーカーを両手で持ち、真剣な顔で話しかけている。背後では白組のみんなと蘭子さんが笑っていた。


 今朝、先輩は私を見なかった。名前を呼んでも振り返らなかった。


「蘭子さんが私たちを裏切るなんて、そんなわけ、ない……」


 口に出した途端、涙腺が緩む。

 写真を伏せようとして、手が滑った。床へ落ちた写真が廊下を滑っていく。

 その時、磨き上げられた黒い革靴が写真を踏む寸前で止まり、白く長い指がそれを拾い上げた。


「……ひどい顔だな」

 

 冷たい低音が、頭上から降ってきた。


 私は驚いて、勢いよく顔を上げる。

 そこに立っていたのは、創業家の御曹司、座馬颯真(ざまそうま)――朝の吹き抜けからこちらを見下ろしていた、通称『ザマス王子』だった。


 なぜ彼がここにいるのか。

 疑問よりも先に、彼が「奇跡の一枚(半目でビーカーを説得している悪い意味での奇跡)」を無表情で凝視していることへの羞恥心が勝った。


「ひ、ひどい顔で悪かったですね! 不意打ちで撮られた写真ですから!」

「写真の話ではない」

「え?」

「ひどいのは、今の君の顔だと言ったんだ」

「はあっ!?」


 思わず立ち上がり、段ボールの角に膝をぶつける。

 なんて奴だ。わざわざ初対面の相手の顔面にダメ出しをするために地下二階まで降りてきたのか。


 男はスーツの内ポケットから小ぶりな銀色の手鏡を取り出し、私に突きつけてきた。

 鏡の中の自分と目が合う。

 思わず、うっと唸った。

 悲しさ、無力感、行き場のない怒り。何もかも終わったことにして絶望へ逃げ込もうとしている女の顔がそこにあった。なるほど、確かにひどい顔だ。


「ビーカーに囁いている顔のほうが、まだましだ」


 男は手鏡をしまうと、写真を差し出してきた。


「なら、その研究員の顔に戻れ」


 有無を言わさぬその声に、私は呆然と彼を見返した。

 白い肌に、隙のない黒スーツ。絶対零度の表情。


 朝から酷使されつづけた私の脳は、とうとう口の管理を放棄した。


「あの……ザマス王子」


 沈黙。地下二階の気温が、体感で三度ほど下がった。

 彼の眉間に、ほんのわずかなしわが寄る。


「……面と向かってそう呼ばれたのは、初めてだ」


 怒りよりも呆れを含んだ声に、私は一気に血の気が引いた。


「す、すみません。あまりの驚きに脳内稟議を通さず、口が勝手に」

「ならば、今すぐその稟議を却下しろ」


 視線だけで首が飛びそうだ。私はコホンと咳払いをして誤魔化した。


「……で、いつからそこにいたんですか?」

「君が扉に再入室を懇願し、そのあと段ボールへ所有権を主張し始めたあたりからだ」

「げっ」


 ほぼ最初からだ。羞恥心が致死量を超えた。


「暗がりに潜んで、人が無機物に話しかけるのを眺めるなんて悪趣味では!?」

「暗がりに潜んでいなかったし、話しかけなかったのは、君があまりに深刻な顔をしていたからだ。声をかけるべきか迷った」


 そこに馬鹿にするような響きはなかった。

 事実を告げる声に、私は口をつぐむ。怒りと羞恥心の下に押し込めていた現実がむき出しになった。

 蘭子さんが連れて行かれた。ラボが封鎖された。アルフレッドもデータも失われた。

 肩からすとんと力が抜ける。


「大丈夫か?」


 顔を上げると、彼がさっきより一歩近くに立っていた。眉間に寄っているのは、呆れじわではなく心配じわだ。


「朝から、何か食べたか」

「……コーヒーを一杯」

「それは飲み物だ。平時ならともかく、今日はそういうわけにはいかなくなる。なにか食べておいたほうがいい」


 子供に言い聞かせるような、妙に静かな口調だった。


「三十分後、白組のメンバーは中会議室へ集められ、解体と異動辞令が出る。午後からは新しい部署での業務だ」

「え……」

「君の異動先は、新プロジェクト推進室だ――湊川由芽」


 私は絶句した。

 新プロジェクト推進室――『キラキラ組』。黒瀬さんが牛耳る、社内カースト最上位の花形部署。白衣を奪われた私があの空間で生存できるとは思えない。


「……ちょっと待ってください」


 私は彼を真正面に見据えた。


「どうしてそこまで知っているんですか? 三十分後の予定も、一介の研究員の異動先まで。……もしかして、他にも何か知っているんじゃないですか? 蘭子さんが連れていかれた理由とか、データが消された理由とか」


 彼の表情は変わらない。沈黙が降りた。


「発端は、取引先からの問い合わせだった」


 不意に、彼が口を開いた。


「アルカサスの次期ファンデーションを名乗るサンプルが出回っている。本物か、と。純白のクリーム。開発中の『シンヴェール』に酷似していた」


 ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。

 シンヴェールのサンプル? そんなもの、あるはずがない。


「直後に匿名の内部告発があった。西城蘭子が、処方データと試作サンプルを持ち出した、と。裏づけるアクセス記録も見つかった」

「そんなのありえない!」


 私は叫んでいた。蘭子さんが持ち出すはずがない。それに、シンヴェールはまだ他人に渡せる状態ですらない。


「会社は警察に被害届を出した。そして今朝、西城蘭子は任意同行に応じ、今は事情聴取を受けている」


 彼はそれだけ告げると、くるりと背を向けた。

 コツ、と革靴が鳴る。そのまま歩き出し――自販機の前で立ち止まった。


 ピッ。ガコン。

 戻ってきた彼の手には、温かいココアがあった。彼は何も言わず、それを私に押しつける。


「今のうちに糖分を取っておけ。さっきも言ったが、今日は忙しくなる」


 それだけ言い残し、今度こそ彼は長身のシルエットを地下廊下の角へ消していった。


 あとに残されたのは、ココアを握りしめた私だけだった。


「蘭子さんが私たちを裏切るなんて、やっぱりありえない」


 そう信じている。けれど、今の私には証拠がない。もし誰かがシンヴェールに見せかけたサンプルを用意し、先輩に罪を着せたのだとしたら――。


 許さない。絶対に。


 怒りで全身の血が沸騰する。その瞬間、ぐらりと足元が揺れた。

 崩れ落ちる寸前で壁に手をつく。カロリーのタンクが空になっていた。


『今のうちに糖分を取っておけ』


 オカンみたいな王子の忠告を思い出し、震える手でココア缶のプルタブに指をかける。

 もう片方の手で缶の底を支えた――ふいに。


 カサリ。


「……ん?」


 缶の底で、何かが鳴った。

 指の腹に触れたのは、薄いビニールとセロハンテープ。

 私は缶を裏返した。


 缶の底に、透明なパウチが貼りつけられていた。

 その中で――純白のクリームが揺れていた。


* * *


 これって……?


 監視カメラに背を向け、私は缶の底から剥がしたパウチを白衣の深いポケットへ突っ込んだ。

 何も気づいていませんよ、ただココアをもらっただけですよ、という顔で廊下を歩く。


 一歩、二歩、三歩……。


 角を曲がった瞬間、女子トイレへ全力疾走した。

 一番奥の個室に飛び込み、鍵をかける。


 ポケットから透明パウチを取り出し、天井の蛍光灯へかざした。

 中身は、純白のクリーム。


 女子トイレの個室で、謎のクリームを光に透かす二十七歳。事情を知らない人が見たらだいぶ通報寄りの絵面だが、今はどうでもいい。

 層の境目、油浮き、色むら。どこを見ても、均一な白だ。

 五十度近いホットココアの缶に貼りつけられていたのに、分離した様子はない。


 パウチの切れ込みを破り、手の甲へごく少量を乗せる。

 指で、すっと伸ばす。

 滑り出し、伸び、肌への馴染み方。色も感触も、私たちが作っていた『シンヴェール』によく似ている。


 けれど。


「……違う」


 もう一度、指の腹を滑らせる。

 やっぱり、違う。


 私たちのシンヴェールには、伸ばしきる直前、ごくわずかなざらつきがあった。原因はシンヴェールの中核を担う新基材――私が勝手に“アルフレッド”と呼んでいる、あの気難しい素材だ。


 アルフレッドは圧倒的な白さを引き出せる代わりに、とにかく均一に分散させにくく、処方全体を不安定にする。ところが、指先のクリームには、私たちのロットに残っていた不安定さの痕跡がない。少なくとも、あのざらつきは完全に消えている。


 私はもう一度、パウチを光へかざした。


「シンヴェールが目指していた……完璧な白だ」


 確かにアルフレッドの顔をしている。でも、中身は別人。泉の女神が「あなたは正直者ですね」とご褒美に差し出してきたような、きれいなアルフレッドだ。


 つまり、これは白組が最後に作った試作品をそのまま持ち出したものではない。

 私たちの最新ロットでも、ここまで均一で滑らかにはならなかった。蘭子さんが白組の現物を持ち出したのだとしたら、こうはならない。


 それに、白組の処方データを盗み、そのまま再現しただけでもここへは届かない。

 何かが加えられている。

 私たちの知らない技術、未知の処理工程が。誰かが、私とは別の方法でアルフレッドを手なずけたのだ。


 このサンプルには、入手経路も保管履歴もない。しかも、私はいま自分で開封した。これ自体を正式な証拠にはできない。けれど、次に何を調べるべきかを示す手がかりにはなる。

 少なくとも会社が描いた「蘭子さんがデータを流出した」という筋書きには、最初の穴が開いた。会社の筋書きは、成立しないはずだ。


 胸の奥で、小さな火が燃え始めた。

 分からないものを目の前に置かれて、「へえ、不思議ですね」で帰れるほど、研究員は聞き分けのいい生き物ではない。


 私は手の甲を、もう一度光へかざした。

 違いを感じているのは、今のところ私の目と指先だけ。ただの「感覚」だ。

 『触ったら、なんか違いました』という報告書を出しても、上層部も警察も納得はしない。この感覚を、誰が測っても同じ結論へたどり着く『数字』に変えなければならない。


 やるべきことは四つ。


 一つ、この純白サンプルと白組試作品の差を数値化すること。

 二つ、加えられた未知の処理・工程を特定すること。

 三つ、それを実行できた人間を追うこと。

 そして四つ――蘭子さんの関与の有無を、感情ではなく『データ』で証明すること。


 試作品は奪われ、データは消され、ラボは封鎖された。私は午後からキラキラ組へ異動だ。

 普通なら行き止まりだ。でも、胸の火は消えない。


 ――奪われたなら、奪い返せばいい。ないなら、また、作ればいい。


 アルフレッドを、私の手でもう一度立ち上げる。白組の最終ロットを再現し、この“きれいなアルフレッド”との差を数字にする。そこから必要な技術と工程を割り出し、事件当時の白組ではこのサンプルを作れなかったことを証明する。


 そうすれば、技術の痕跡をたどって、これを作った人間へたどり着ける。会社が採用した筋書きが偽りなら、根元からひっくり返せる。


 私はパウチを白衣のポケットへしまい、胸元をきつく握った。

 全身の血が沸騰しそうなのに、頭の芯だけは恐ろしいほど冷えている。


「……証明してやる」


 すっぴん、白衣、寝癖、地味、社内カースト最下層……。上等だ。

 メイクは得意じゃない。でも――化粧品を作ることなら、誰にも負けない。

 成分表は嘘をつかない。光の散乱は、肩書きに媚びない。乳化の安定性は、誰にも忖度しない。


 この完璧な白の下に隠された真実を暴き、すべてをひっくり返す。

 私は白衣の袖をまくった。


 地下二階の、薄暗い女子トイレ。

 誰にも見えない場所で、たった一包のクリームから――私の『逆転レシピ』が、いま、ここに仕込まれた。


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