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15話:西京焼きと純白のサンプル

「――うるさい!」


 背後から、液体窒素より冷たい声が飛んできた。振り向くと、颯真が立っていた。


 いつもの、隙のない黒いスーツ――ではない。


 ジャケットもネクタイもなく、白いシャツの袖を肘までまくり、その上から藍染めのエプロンを締めている。


 吸血鬼系美形。創業家の御曹司。次期社長候補。事業戦略部長。私の靴のサイズと菓子パンの賞味期限を把握している監視者。三十分の懊悩を三行へ圧縮する人間要約装置。そして、正論で武装したオカン。


 ――そこへ、エプロン。


「……あの」

「なんだ」

「属性、まだ増えるんですか」

「意味が分からん」


 颯真が歩いてくる。

 彼の両手には木製のトレーが置かれていた。

 トレーには、完璧な配置の一汁三菜が並んでいる。焼き魚をメインに、ふわりと湯気を立てる味噌汁、小鉢、そして艶やかなご飯。


 地下ラボの空気組成が上書きされていく。エタノール。オゾン。冷たいコンクリート。そのすべてを、出汁と焦げた味噌の香りが雪崩のように押し流していく。


「……どうしたんですか、それ」

「食事だ」

「それは、見れば分かります。なぜここに? ここで夕飯食べるんですか?」

「君が食べるんだ」

「は?」

「どうせまともに食べていないだろう」

「栄養補助ブロックとコーヒーは食事とは言わない」

「なんで分かるんですか」

「休憩室のごみ箱に空袋が二枚。マグカップの内壁にコーヒーの残渣が三層」

「私、監視されてます?」

「休憩室に生活感を持ち込み過ぎてる方が悪い」


 颯真は実験台へトレーを置きかけ、散乱したチップとスパチュラを見て、すぐに持ち直した。


「栄養はしっかり取った方がいい。健全な実験は、健全な肉体に宿る」

「そんな言葉、聞いたことありませんけど……」


 とか言いながら、私は木製のトレーを手に休憩室へ向かう颯真のあとを、忠犬よろしく、いそいそと追った。


 休憩室のテーブルに、颯真が次々と皿を並べていく。


 こんがり焼けた鰆の西京焼き。豆腐となめこの味噌汁。湯気の立つ胚芽米。ほうれん草の胡麻和え。きゅうりの浅漬け。


 見事なまでの、一汁三菜だった。完璧な栄養バランス。完璧すぎて、逆に怖い。


「これ、どうしたんですか」

「作った」

「誰が」

「俺が」

「嘘ですね」

「嘘をつく必要がどこにある」

「メイドさんとか家政婦さんが作ったんでしょ?」

「いない。自分の食事くらい、自分で作る」


 会社の上役が、夜の地下ラボで、私に手料理を食べさせようとしている。字面にすると、ものすごく危ない。既に法務部案件の香りすらする。


 しかも相手は、いまだ敵か味方か判定不能。手の内も腹の底も一ミリたりとも見せていない、色白吸血鬼系美形――通称、ザマス王子である。


 危険だ。


 鰆を一切れ口に運ぶごとに、返済不能の借りが複利で積み上がっていく可能性がある。味噌汁一杯で魂に抵当権を設定され、胚芽米一膳で終身契約。

 食後には、血を二百ミリリットルくらい吸われるかもしれない。


  しかし――。


 ――くううぅぅぅ……。


 鳴った。

 腹が。


 よりによって、この緊迫した局面で、ものすごく正直に。私の胃が、本人の許可なく全面降伏を宣言した。


 出汁の香りが鼻腔から侵攻し、腹の音が内側から砲撃。完璧な挟み撃ちを受けた私の警戒心は、〇・二秒で壊滅した。


 もういい。吸えないい。二百ミリリットルくらい、食後に好きなだけ持っていけ。この一汁三菜を食べられるのなら、献血一回分などお安い御用だ。なんなら四百ミリリットルまで即決できる。


「……いただきます」


 鰆へ箸を入れる。

 口に入れるとほろりと繊維がほどけた。白味噌の甘み。魚の旨味。最後に焦げの香ばしさ。


 続けて味噌汁を一口。


「おいしい……」

「そうか」

「ものすごく、おいしいんですけど」

「そうか」


 颯真は向かいへ座り、動かなくなった。


 私が食べる様子を、じっと見ている。正直、食べにくい。


「もう少し、しっかり噛んだ方がいい」

「は?」

「今、七回だ。一口最低三十回」

「数えてたんですか!?」

「食塊を細かくし、唾液と十分に混ぜろ。消化に良い」

「もう隠す気ないでしょう」

「何をだ」

「持ち前のオカンスピリッツ?」

「これは栄養学だ」


 胚芽米を口に入れながら、私はノートPCを引き寄せた。


「ついでにこの時間に週次報告です。いま、ものすごく重要な壁にぶち当たっていまふ!」

「咀嚼しながら重要な話をしようとするな」


 ごくん。


「ぶち当たっています!」


 画面へ、二本のグラフを表示する。


「成分分析と、光学顕微鏡の見た目は、ほぼ完全一致です。でも、粘度、ゼータ電位、レーザー回折のデータは一致しません。工程条件を七十三通り潰しましたが、全滅でした」

「つまり?」

「頂いたサンプルは、白組の物とは性質は明らかに違います。ところが、成分は同じで、作り方を変えただけでは今のところ再現できてません」


 私は箸を握ったまま、画面をびしりと示した。


「だが、物が違うことは明らかなんだな?」

「はい。サンプルの物は明らかに違う。数字で説明できる。それだけでも冤罪は主張できると思います」

「だが、君の顔はまったく納得がいった顔をしていないな」

「そうですね……。例えるとアリバイは証明できても、トリックが解けていないんです」


 私は画面上で重なる赤と青の線を指でなぞった。


「成分も、配合比も、見た目も同じ。なのに、どうして物理的な強度だけが違うのか。どんな技術を使えば、見た目を変えずに、こんなものを作れるのか。犯行方法を一撃で暴く、決定的証拠(スモーキング・ガン)がないんです」


「なるほどな」


 颯真は、鰆の西京焼きと純白のサンプルを交互に見た。


「完全に同じ素材、調味料で作った二つの鰆の西京焼きがある。一方がもう一方より明らかに美味しい。君は七十三回、同じ材料で西京焼きを作ったが、美味しい方の味が出せない。味が違うから二つの料理を作った料理人は違うはずだが、どうやって美味しくしたか分からないから、料理人の潔白を証明できない」


「その通りです……」


「ただ、白組で製造されたという前提を崩せるなら、会社側の筋書きに穴を開けられるかもしれない。こちらも動くから、君も頑張ってくれ」


 がんばって。

 そのたった五文字が、私に深く刺さった。


「任せてください!」


 強く頷いて、私は残っていた鰆を一口で頬張った。

 そして、しっかりと、三十回噛んだ。



「……あの。ひとつ、聞いていいですか」

「なんだ」

「どうして、ここまでしてくれるんですか?」


 颯真の手が止まった。


「疑惑のクリームをくれて、ラボ。機材。毛布。加湿器。胃薬。そして最後は鰆です」

「鰆に問題があったか?」

「最高でしたが! そこじゃありません」


 勢いのまま、身を乗り出す。


「蘭子さんの不正調査も、白組の解体も……会社のトップ――役員会で決まったことなんですよね?」


 とうとう、口にした。ずっと喉の奥に刺さっていたのに、抜けば何かが壊れそうで、見ないふりをしてきた一本の棘。


「あなたは次期社長候補です。むしろ、その決定を下す側の人間のはずです。それなのに、どうして――。会社の方針に逆らってまで、私にラボを貸したんですか。どうして、こうして証拠探しにつきあっているんですか?」


 言い切った瞬間、自分の声がわずかに上ずっていたことに気づいた。


 怖かったのだ。


 この問いは、私たちの間にかろうじて張られている「単なる利害の一致」という薄い膜を、内側から突き破ってしまう。そんな予感がしていたから。


「……」


 颯真は、答えなかった。


 彼はテーブルに置かれた自分のマグカップへ視線を落とした。長い睫毛が伏せられ、端正な横顔から、すべての感情が消える。


 空調の低い稼働音だけが、やけに耳についた。


 やがて、颯真は短く息を吐き、前髪をかき上げた。


「……祖父は化学者だった。君と同じ、白衣を着ていた」


 彼の視線が、私の袖口へ落ちる。


「この土地にあった四畳半の木造平屋。鍋と天秤、湯煎の道具。アルカサスは、そこから始まった」


「ここが、その跡地なんですか」

「ああ」


 今はコンクリートで、周囲には最新鋭のHPLCとレオメーターが置かれているが、昔も、四畳半と鍋と天秤があったのだ。


「当時、まともな化粧品は高価だった。いいものは、金のある女性にしか届かない。祖父はそれが許せず、欧州の大手に負けない商品を昼夜を問わず作り続けた」


 颯真の指が、テーブルの上に一本の線を引く。


「――すべての女性に、美を」

「創業理念……入社式で暗唱しました」


「ただの標語ではない。化学で世界に誇れるものを作り、必要とする人へ届ける。俺は、それを継ぐ人間として育てられた。だから……、品質を落としかねない基礎研究の全面外注化には賛成できない」


「だったら、止めればいいじゃないですか。役員会へバーンと入って、『外注化は中止だ』って」


 私は扉を開けるように手を動かした。


「企業は小学生の学級会ではない」


 颯真の黒い目に射抜かれ、私の両手が止まる。


「父は療養中だ。今、会社の実権を握っているのは専務の座馬玄蕃――俺の叔父だ。合理化を推進した張本人だ」

「身内……」

「二十年前、赤字で傾いた会社を救い、売上を三倍にした。株も、派閥も、数字もある。何より、実績がある」

「手強いですね」

「無能ではない。だから厄介なんだ。俺が正しさを叫んでも、『青臭い甥が私情で騒いでいる』の一行で処理される」


 颯真は眉間に皺を寄せた。


「外注化を進めようとしていた最中、白組のサンプル流出疑惑が起きて話は一気に進んだ。流出疑惑のことを玄蕃が事前につかみ、白組廃止の口実にした」


「……やっぱり。段取りがよすぎました」

「それどころか、流出そのものに彼が関わっている可能性もある。外注先の関連会社は玄蕃が社長を務めているんだ」

「真っ黒じゃないですか!」

「黒く見えるだけでは止められない」


 ぴしゃりと切られた。


「外注すれば、研究費は確実に下がる。アルカサスの開発基準は高すぎる。経営判断としては理がある。だが――」


 颯真の声が、どこか悔し気に低くなる。


「安さと引き換えに品質を落とせば、祖父の理念を捨てることになる」


 そして、一語ずつ噛みしめるように告げた。


「祖父の理念を取り戻すには、感情でも、正論でも勝てない。勝つには、数字と現物がいる。サンプル流出疑惑の真相が明らかになって、もしそれに叔父が関わっていることが判明すれば、」


 ――だから、このラボを彼は私に貸したのだ。


 感情ではなく、数字で。疑惑ではなく、現物で。専務の思惑を暴くために。彼が私の証拠探しに手を貸す理由が、ようやく一本につながった。


「……ずるいですよ」

「何がだ」

「エプロン姿で鰆を食べさせて、そのうえ、あんな話まで聞かせるなんて」

「服装と話の内容に相関はない」

「大ありですよ! 先に胃袋を完全に掌握しておいて、そこへ創業理念で研究者魂まで揺さぶるなんて。こんなの、絶対に頑張るしかないじゃないですか」

「何も言わなくても、君は頑張るだろう?」

「……まあ、そうなんですけどね」


 思わず、笑いがこぼれた。

 そして颯真の口元にもーー、検出限界ぎりぎりの笑みが浮かんだ。


「じゃあ、もうひとつだけ」

「なんだ」

「白組には、私以外にも研究員がいます。先輩たちもいる。私より詳しい人だっている」


 私は、彼をまっすぐ見た。


「どうして――私だったんですか」


 ぴたり、と。


 空になった皿へ伸びていた颯真の手が止まった。


 ほんの〇・五秒。だが、普段の彼なら絶対に発生しない、明確な処理落ちだった。


 しかし、颯真はすぐに何事もなかったように立ち上がると、食器をトレーへ重ね始めた。


「明日も朝は早い。切りのいいところで休め」

「ちょっと。今、露骨に話を逸らしましたよね?」

「睡眠の質を考えるなら、二時までには寝た方がいい」

「会話のキャッチボール!」

「加湿器の水は満タンにしてある。喉が乾燥するなら点けておけ」

「オカン業務で押し切らないでください!」


 私の抗議を完璧に聞き流し、颯真はトレーを持って、さっさと休憩室を出ていった。

 見事な戦略的撤退だった。


 あとに残されたのは、ほんのり漂う出汁の香りと、ぬるくなったお茶。そして、肝心な答えを一つも回収できなかった私だけ。


「……なんなんだ、あの人」


 だが、はぐらかしたということは、彼の中に明確な『答え』があるという何よりの証拠だ。


 いつか必ず吐かせてやる。退路を塞ぎ、あの鉄壁の無表情から見事に一本取りたい。


 そう決めて、ぬるいお茶を一口すすった。


 久しぶりに摂った温かい食事が、体の隅々まで染み渡っている。

 胃の腑は満たされ、不思議なくらい心まで温かかった。



****

11話を飛ばして投稿してました。もし?ってなっておられましたら、戻っていただけると。。。

すみませんでした。

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