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14話:アルフレッドの分析

 かくして――私の日常は完全な二重構造になっていた。


 朝、アラームを三回殴って体を起こす。着慣れてきたスーツに着替え、退寮期限の迫る独身寮を飛び出し、会社までの七分を全力疾走。昼はキラキラ組の会議で魂を抜かれ、夜は日付が変わる寸前まで地下ラボで顕微鏡を覗き込む。


 そんな日々は、遠心分離機の最高回転数もかくやという勢いで、目まぐるしく回っていった。



 昼のキラキラ組の定例会議。


 採光豊かなガラス張りの部屋で、私は今日も「人間型予備トナー」として稼働する。


「このビジュアル、パケ買い確定じゃない?」

「次のポップアップ、もっとオーガニックな導線にしたくて」

「インフルエンサーのエンゲージメントを、自然発生的に最大化できない?」


 オーガニックに設計された自然発生とは何だ。

 人の手が入った時点で、それはもう養殖ではないのか。


 疑問はすべて脳内の廃棄フォルダへ放り込み、飛び交う華麗な横文字を、耳から指先へ直結させる。議事録、印刷、資料差し替えが私の主な担当だ。


 もっとも、ただ補充されるだけのトナーで終わる気はなかった。


「この可愛さを発売後も守るために、四十度と五十度の保存確認も入れましょう」

「世界観を最後まで壊さないため、ロット番号は底面で管理します」

「三年後も“生まれたての透明感”を名乗るなら、凍結融解と遠心分離の結果が要りますね」


 品質管理というゴリゴリの現実に、リボンを巻いて企画書へ密輸する。


 科学、潜入成功。


 そのたび、テーブルの向こうで黒瀬さんの眉が一ミリずつ上がった。私を見る目の温度は、日を追うごとに順調に下がっている。低温保存試験なら、とっくに合格ラインだ。


 だが、窓の外に夜の帳が下り、香水の残り香とともにキラキラ組が消える午後八時。


 私は、ようやく呼吸を始める。


 本館を抜け、敷地の奥へ急ぐ。誰にも見られないよう座馬邸へ滑り込み、地下のラボへと向かう。扉が開いた瞬間、ひんやりと重い空気が頬を撫でた。


 エタノール。微かなオゾン。冷たいコンクリート。


 ――帰ってきた。


 私専用になったハンガーラックから白衣を引っ掴み、袖へ腕を通す。


 シャッ、と布が鳴った瞬間、昼間ずっと仮死状態だった脳細胞が、一斉に蘇生した。


「よし。今日も回すよ、アルフレッド!」


 会社のLEDで干からびた深海魚が、夜な夜な地下ラボという海へ這い戻り、ピペットを握った途端に全速力で泳ぎ始める。


 もはや私は完全な夜行性生物だ。


 分類するなら、哺乳類ではなく研究員。主食はカフェイン。好物は、再現性のあるデータである。


 そしてラボは、着実に私の「巣」へと変貌しつつある。

 特にラボ直結の休憩室。颯真から「絶対に住むな」と冷たく言い渡されたはずの場所は、今や見事な生態系を形成している。


 簡易ベッドの枕元には、界面活性剤のミセル構造に関する英語論文。足元には、チョコレート味とフルーツ味の栄養補助ブロックの箱。椅子の背には三着目の予備白衣。


 テーブルには、目盛り付きのビーカーではない、私専用のマグカップ。学生時代の学会でもらった、絶妙にダサいロゴ入りである。


 壁一面には、色とりどりの付箋が増殖していた。


『ゼータ電位、再測定』

『四十度保存・三日目』

『攪拌速度一五〇〇rpmで凝集』

『粘度計の機嫌が悪い』

『牛乳を買う』

『アルフレッド、今日は比較的素直』


 研究記録、生活メモ、試料への私信が、同じ壁面で平和に共存している。



「……居住権を主張する気か」


 ある夜、その惨状を前にした颯真が、頭痛をこらえるようにこめかみを押さえた。


「違います。一時的な資料展開と、作業動線の最適化です」

「一時的というには、ずいぶん生活基盤が整っているようだが」

「集中して実験を行うための環境整備です」

「では、ベッドの上に畳んであるスウェットは何だ」

「仮眠時の身体的負荷を軽減するための作業補助着です」

「寝間着だろう」

「万全な研究には、万全な仮眠が必要なこともあります」


 我ながら、滅茶苦茶なことを言っているなとは思っているが、その日は颯真は何も言わずに戻っていった。


 ところが翌日ラボに来ると、休憩室が綺麗になっていた。

 テーブルの上のマグカップの下へ珪藻土のコースターが敷かれていた。崩落した論文が、いつの間にか分野別に揃えられていた。冷蔵庫には私専用の棚ができ、その中央には、野菜とタンパク質を過不足なく詰め込んだ保存容器が鎮座している。


「”住”環境を改善していただき、ありがとうございます」

「長時間作業者の健康維持は、設備保全の一環だ」

「枕も前よりふかふかにしていただき、まことにありがとうございます」

「睡眠効率への投資だ」

「つまり……、住んでいいということですね?」

「住むな」

「……」


 矛盾している。

 だが、もう私は、その矛盾を本気で指摘しなくなっていた。

 それどころではない敵がいるのだ。


 実験台の中央。

 小さな透明パウチの中で、あまりにも完璧な純白のクリームが、今夜も涼しい顔をしているのだ。


 ◇


「やはり、一致したかあ……」


 声は、思っていたよりも低く出た。

 地下ラボを満たす分析機器の冷却ファンは、いつもと変わらない低い唸りを続けている。


「保持時間、一致! ピーク面積比、一致! 検出成分も、配合比も――誤差範囲内! ほぼ全部、一致!」


 私はキャスター椅子ごとデュアルモニターへ突進し、画面を食い入るような目で見つめた。


 赤い線で示された『白組の最終試作・シンヴェール』。

 青い線で示された颯真に渡された『純白のサンプル』。


 二本のクロマトグラムを重ねた瞬間、赤と青は寸分違わず抱き合い、一本の紫色の線へと変わった。


 油剤、保湿剤、防腐剤、面活性剤、すべて一致。検出できた微量成分まで、仲良く全員一致。


 ここだけを見れば、白組のレシピがそのまま使われたと言われても仕方がない。


 光学顕微鏡も改めて見る。


「こっちも同じ。双子。いや、そっくりすぎて親でも名札が必要なレベル……!」


 千倍まで拡大しても、違いは分からない。

 光を乱反射する微細な粒子が、液中を無数に漂っている。素人の目どころか、五年間シンヴェールを追い続けてきた私の目にも、完全に「同じ」に見える。


 成分も、配合比も、顕微鏡像まで同じ。


 そう。

 ここまでは、笑ってしまうほど同じなのだ。


「――なのに!」


 私はマウスをひっぱたき、隣の画面へ別のグラフを出す。


 次の瞬間、さっきまで熱烈に抱き合っていた二本の色の線が、盛大な喧嘩別れを始めた。


 レオメーターが弾き出した粘度曲線。

 四十度を超えた瞬間、白組の試作を示す赤い線は、加熱に伴ってへなへなと崩れていく。


 一方、純白のサンプルを示す青い線は――仁王立ち。


 四十度。

 まだ立っている。


 五十度。

 微動だにしない。


「なんでよ! そこは一緒に崩れなさいよ! さっきまであんなに仲良しだったでしょうが!」


 グラフに人間関係を求めても仕方がない。

 だが、彼らの離婚理由が分からない。


 さらに、粒子同士がどれだけ反発し、くっつかずにいられるかを示すゼータ電位。純白のサンプルは、白組の試作より明らかにマイナス電荷が深い。油滴同士の間に、強烈な「近寄るな」オーラが発生している。高くて、厚くて、頑丈な、目には見えない防壁だ。


 そして極めつけは、レーザー回折による粒径分布。


 白組の試作が描いたのは、裾野の広い、なだらかな山だった。

 対して純白のサンプルが叩き出したのは――針。


 細くて、鋭くて、迷いがない。


 ほぼ同じ大きさに揃えられた粒子だけが、一糸乱れぬ軍隊のように整列し、たった一本のピークへ集中している。


「同じ材料! 同じ配合! 同じ見た目! それなのに、出来上がった構造の強さだけが天と地! どういうことよ、これ!」


 同じレシピで作ったはずなのに、片方は普通のクリーム。

 もう片方は、クリームの顔をした要塞である。


「何者なのよ、お前は……!」


 モニターへ詰め寄った瞬間、背後から猛烈な視線を感じた。


 振り返る。


 実験台の上には、ここ数日で私が作り続けた試作容器が、ずらあああああっと並んでいた。


 水相と油相を合わせる温度を、〇・五度刻みで振った。

 ホモジナイザーの回転数を変えた。

 界面活性剤を投入するタイミングを、秒単位で前後させた。

 混ぜた。測った。壊した。洗った。また混ぜた。


 考え得る工程条件(プロセス・パラメータ)を片っ端から組み合わせ、潰し、作り直した。


 その数、七十三。七十三人姉妹、堂々の全滅。

 白組のレシピと設備じゃ、どう工程(プロセス)を弄り回しても、この化け物は絶対に作れない。


 つまり――。


「このクリームは白組から持ち出されたものじゃない……」


 私が積み上げた七十三個の敗北が、皮肉にもそれを証明している。


 七十三連敗。だが、そのすべてが白組の無実を示す、七十三個のアリバイだ。


「よし……! よしよしよし! これは蘭子さんの無実の証拠になる」


 思わず拳を握る。

 だが――喜びは、三秒しか続かなかった。


「……でも、まだ足りない」


 間接証拠は揃いつつある。

 白組のクリームと完璧なクリームは性質が違う。そして、白組のレシピではこのクリームは作れない。


 そこまでは、数字が証明してくれる。

 けれど、直接証拠がない。


「成分も見た目も同じなのに、どうして機械で測ったときだけ『別の化け物』になるのよ……!」


 まるで、透明な鎧を着た幽霊を相手にしている気分だった。


「あと一歩……! あと一歩なのに! この『見えない手』の正体さえ分かれば、全部ひっくり返せるのにぃぃぃぃ!」


「――うるさい!」


 背後から、液体窒素より冷たい声が飛んできた。


 振り向くと、颯真が立っていた。




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