↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
12/27

12話:疑惑のサンプル

 翌朝――


 新プロジェクト推進室――通称『キラキラ組』のフロアは、今日も始業前から暴力的なまでに発光していた。


 チリ一つない、シームレスな白い床。空間を冷たく切り分ける、フレームレスのガラスパーテーション。肌のくすみを物理的に抹殺しにくる、色温度まで計算された高演色LED。

 複数の高級フレグランスが、誰一人として一歩も譲らず、空中で熾烈なセンター争いを繰り広げている。


 眩しい。今日もキラキラだ。目を開けているだけで、網膜が労災申請書を書き始めるレベルで眩しい。


 私が通うべき職場は、昨日と何ひとつ変わっていない。

 変わったのは、ただ一つ。私の内側だ。


 昨夜、私は夜明け近くまで地下ラボにこもり、あの純白のクリームの解剖を始めた。


 遠心分離機でサンプルを層に分ける。顕微鏡用のプレパラートを作る。

 HPLC――高速液体クロマトグラフィーの抽出シーケンスを組み、順番に測定へ投入する。


 私が地上へ戻ったあとも、地下の暗がりでは分析機器たちが文句一つ言わず夜勤を続け、静かに、確実に、『見えない手』の正体を炙り出しているはずだ。


 私の中の研究者エンジンは、完全に再点火していた。いや。再点火どころか、アクセルが床へめり込んでいる。


 だからだろう。昨日は、この場違いな空気に押し潰されそうだったのに、今日は不思議と息がしやすい。


 もちろん、物理的な窮屈さまで消えたわけではない。


 私の規格を一切考慮していないスーツは、肩を動かすたびに縫い目から「ミシッ」と救難信号を発している。うっかり深呼吸でもすれば、胸元のボタンが即座に弾道飛行へ移行しかねない。


 だが、もう構わなかった。今の私は、敵地へ放り込まれて怯えている迷子ではない。


 ラボがあって、仮説もある。測定は、すでに始まっている。


 私は、このフロアに潜む『見えない手』の痕跡を拾い集めるために潜入した、研究者兼スパイなのだ。このちぐはぐなスーツだって、目的を果たすための仮初めのカモフラージュだと思えばいい。


 しかも、この低耐久偽装服とおさらばする手筈も、すでに整えてある。


 昨夜、颯真から渡された店と生地と納期の一覧――あれは服選びの助言などという生易しい代物ではない。どう見ても、実働部隊一名を現場投入するための『被服調達仕様書』だった――に従い、私は朝一番でセミオーダー店へ採寸の予約を入れた。


 要求仕様は、以下。

 特急仕上げ。納期三日。ストレッチ素材。自宅洗濯可。手入れの合理的なものを二着。

 今日採寸に行けば、あと三日で、私の物理的な装甲は最新版へ換装される。


 潜入用の偽装服はアップデート確定。分析は地下で継続中。研究者としての私は、とっくに再起動済み。


 その三つが揃っているなら、もう、この程度の眩しさに怯える理由はない。

 キラキラどんとこい!


「湊川さん。その席に、まだいたのね」


 背後から、銀の鈴を液体窒素で凍らせ、コンクリートへ叩きつけたような声が降ってきた。


 黒瀬麗奈さんだ。


 彼女は今日も完璧だ。

 毛穴どころか、人間的な弱点までコンシーラーで完全に隠蔽している。その隙のない美しさは、この暴力的に発光するキラキラ組のフロアそのものを擬人化したかのようだった。


 対して、完璧な彼女が冷たい視線で見下ろしている私の「その席」は、フロアの最果てにある。


 絶えず熱とオゾン臭を吐き出す巨大な複合機と、販促カタログの詰まった段ボール山に挟まれた社内流刑地――通称『シベリア』だ。


 スポットライトのような高演色LEDの光もここまでは届かず、薄暗い。ここに座って複合機の駆動音を一日中聞いていると、自分が有機体の人間なのか、それとも装填待ちの予備トナーなのか、時々アイデンティティーの境界線が曖昧になる。


「おはようございます」

「今日、午後から『Blanche(ブランシュ)』の企画会議があるの。あなたも一応、同席して」

「はい」

「発言はしなくていいけれど、議事録くらいは取れるでしょう?」


 議事録。

 なるほど。

 人間型予備トナーから、タイピング機能付きボイスレコーダーへの用途変更らしい。


「承知いたしました」


 私は口角だけを動かし、従順な笑みを貼り付けた。


 ――発言は求めていない。


 上等だ。

 こちらも、仲良くディスカッションをするつもりはない。

 敵地へ潜り込み、プロジェクトの進捗を観測し、生の情報を回収する。

 本日の私の役割は、議事録係ではない。偵察機だ。

 

* * *


 午後の企画会議は、相変わらず物理法則の通じない異世界だった。


「このキービジュアル、もう少し内側から発光するような『透明感』が欲しいわね」

「分かります。蓋を開けた瞬間の『多幸感』を、パッケージ全体で表現したくて」

「ターゲットは二十代後半。仕事も美容も妥協しない、自分への投資を惜しまない大人の女性」

「いいですね。肌だけじゃなく、人生までアップデートできる感じ」

「それ、刺さる!」

「映える!」

「エモい!」


 出た。

 キラキラ三段ロケット。

 刺さる。

 映える。

 エモい。


 何に刺さり、どこへ映え、なぜ感情が動いたのかは、誰も説明しない。

 だが、会議室では明らかに肯定的な反応が起きている。

 白組の研究会議でこれをやったら、開始三分で全員から再現条件を要求される。


『その多幸感は、何名を対象に、どの尺度で測定しましたか?』

『透明感の定義を明確にしてください』

『刺さった対照群はありますか?』


 以上の質問によって、会議は即死する。

 

 そんな会話が飛び交う中でも、私は長テーブルの最末席でキーボードを叩きながら、聴覚フィルターの感度だけを限界まで引き上げていた。


 目的は一つ。

 新ブランド『Blanche』の現在地だ。


 私たち白組が五年をかけて開発した、顔料を使わず、光の散乱だけで肌に透明感を生み出す新素材――シンヴェール使用。その心臓部にあるのが、気難しく、繊細で、ちょっと機嫌を損ねると即座に凝集する中空ナノポリマー、通称アルフレッドだ。まだ未完成……。


 それを、処方データごと奪い、わずか半年後に市場へ投入しようとしているのが、この『Blanche』プロジェクトである。


 委託したOEMはどこか。試作はどこまで進んだのか。安定性試験は始まっているのか。量産条件は決まっているのか。


 拾える情報は、一文字でも多く拾う。

「そういえば、外注さんから一次試作、今朝届きましたよ」


 若手プランナーが、昼食の話でもするような軽さで切り出した。

 私の指が、キーボードの上で止まる。


「あ、見ました見ました。あれ、すごくないですか?」

「すごい。テクスチャー、もうほとんど完成形ですよね」

「ね。白組が五年かけても商品化できなかったって聞いてたから、間に合うのかなって心配してたんですけど」

「やっぱり、処方づくりのプロは仕事が早いですよねー」


 きゃっきゃと明るい声が飛び交う。

 奥歯を噛み締める。

 危うくエナメル質の耐久試験を開始するところだった。


 ――ほとんど完成。


 五年かけても駄目だったものが、数週間で?


 あり得ない。

 アルフレッドは、資料を読んで手順どおりに混ぜれば完成するような、素直な原料ではない。

 あれはレシピではない。猛獣の飼育日誌だ。

 何度で暴れ、何回転で噛みつき、どの界面活性剤を入れると檻を破るのか。白組が五年かけて蓄積した失敗の履歴まで含めて、初めて処方になる。

 完成したとすれば、可能性は二つ。

 本当に、あのサンプルのように白組を超える技術をOEMが持っている。あるいは――完成したとみんなが思っているだけ。


「これが、その一次試作よ」


 黒瀬さんが、小さな透明のサンプル容器をテーブルへ置いた。

 中には、真珠のような純白のクリーム。


 プランナーたちは順番に指へ取り、手の甲へ伸ばしていく。


「香り、すごく好き」

「肌馴染み、最高じゃないですか?」

「しっとりするのに、べたつかない!」

「これ、絶対バズりますよ!」


 官能評価と呼ぶには、評価項目があまりにも自由奔放だった。

 香り。

 好き。

 最高。

 バズる。

 測定単位は、おそらく気分である。


 サンプル容器は、テーブルをゆっくりと一周していく。

 そして、やがて――末席の私の前まで到達した。

 誰も、私に評価を求めたわけではない。

 隣のアシスタントが置き場に困り、私のスペースへ無造作に押しやっただけだ。

 願ってもない。


 私は心拍数の上昇を押し殺し、顔面を無関心な機械へ偽装した。

 容器を手に取る。蓋を開ける。ごく少量を右手の人差し指へ取り、左手の甲へ薄く伸ばした。


 その瞬間。

 五年間、アルフレッドに鍛え上げられた私の指先が、悲鳴を上げた。


 ――いる。ダマがいる。


 目には見えない。

 だが、確実にいる。滑らかな乳化膜の中に、細かな凝集塊が潜んでいる。ざらつきと呼ぶにも小さな、ごく微細な引っかかり。

 だが、私には分かる。

 毎日毎日、来る日も来る日も、数千回にわたってアルフレッドを触り続けた、この指には。

 アルフレッドが、まだ暴れている。

 念のため、もう一度。今度は体温を伝えながら、ゆっくりと円を描く。


 重い。


 伸び切る直前、指がわずかに止まる。

 皮膚上で水分が飛び始めた途端、隠れていた粒子の凝集が顔を出す。


 間違いない。これは白組の最終試作で、最後まで消せなかったものと同種のざらつきだ。私たちが五年かけて挑み、あと一歩のところで超えられなかった『壁』。


 この外注先も、その手前で立ち往生している。

 増粘剤で粘度を上げ、見かけ上、分離しないように整えているだけだ。今は綺麗に見えても、時間が経てば必ず化けの皮が剥がれる。


 高温保存……凍結融解……遠心分離……。


 どれか一つでもかければ、アルフレッドは盛大に反乱を起こす。

 これは、完成品ではない。白組の処方をなぞっただけのものだ。


 颯真から渡された、あのサンプルには、ざらつきがなかった。気味が悪いほど均一で、アルフレッドが完全に手なずけられていた。


 目の前にあるのは、私たちと同じもの。颯真が持っていたのは、誰かが未知の技術で完成させた、正体不明の成功作。


 つまり。

 サンプルは、二種類ある。


「あの」


 気づけば、右手が挙がっていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。