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10話:由芽の講義(後編)

「本来なら、絶対に交わらない水と油。その片方を目に見えないほど細かな粒にして、もう片方の中へ散らし、一つの系に共存させる。その技術が――乳化エマルションです!」




「乳化は水と油を、共存させているのか。単純に二つが混ざった状態だと思っていたが……」


「ええ。共存です。ただし、仲は悪いままです」


「悪いまま?」


「別れないよう、配置と境界面を管理しているだけです。例えると仲の悪い夫婦の、厳重な監視下での同居ですね」


「急に不穏になったな」


「水と油ですから。出会った時点で関係は最悪です」




 水の中へ、ミクロサイズの油滴を無数に散らす。牛乳やマヨネーズは、こちらの仲間。反対に、油の中へ水滴を散らす乳化もある。バターやコールドクリームが近い。




「その水滴や油滴の境界へ、さっき説明した界面活性剤なこうどが並びます。水と仲のいい部分を水側へ、油と仲のいい部分を油側へ向けて、両者が別れないよう繋ぎ止めるんです」




「なるほど。だが――」




 颯真は、黒い天板の上に置かれた純白のサンプル管へ目を向けた。




「乳化したクリームは、白く濁っている」


「はい」


「それを肌へ塗ると、なぜ水のような『みずみずしさ』と、油のような『透明なツヤ』が両立する? 白く濁っているなら、両方の長所まで濁って、中途半端になりそうなものだが」


「いい質問です!」


「褒められる筋合いはない」


「そこ、試験に出ます」


「誰の試験だ」


「今から私が作ります」




 私は黒い天板の上で、手のひらを薄く滑らせた。




「まず、クリームが白く見えるのは、ベースそのものが白いからではありません。水と油では、光の屈折率が違います。光が無数の油滴や水滴の境界を通るたびに曲がり、あちこちへ散らされる。だから、人間の目には白く見えるんです」




「白い物質が入っているのではなく、白く見える光の状態を作っているのか」


「そうです。容器の中では、仲人が水と油を繋ぎ止め、白いクリームの状態を保っています。でも、それを指で肌へ塗り広げると、一気に薄い膜へ引き伸ばされます。水分は角質層になじみ、一部は蒸発する。すると油滴同士の距離が縮まり、油剤や皮膜形成成分が肌の表面へ均一に広がっていくんです」




「乳化が壊れて、元の水と油へ戻る?」




「完全に二層へ分離するわけではありません。いよいよ離婚というより、配置転換ですね」


「たとえが急に会社員になったな」




「容器の中の『白く濁った粒の集団』から、肌の上の『水分と透明な油膜』へ、役割を組み替えるんです。水分は角質層へみずみずしさを与え、油膜は表面の凹凸を滑らかに整えて、光を綺麗に反射する。だから、内側は潤って、外側には透明なツヤが出る」




「容器の中では共存させ、肌の上ではそれぞれを適所へ配置する」


「そうです。相反する水と油の恩恵を、時間差で正しい場所へ届ける。それが、乳化による『いいとこ取り』の正体です」




 私は人差し指を立てた。




「ただし、ここからが地獄でして」


「今度はなんだ?」


「化粧品は、容器の中では三年間壊れてはいけない。でも、肌へ塗ったら、すぐ綺麗に広がってほしい。つまり――」




「保管中は頑丈に。使用時は素直に、ということか?」




「百点です! 界面活性剤を増やせば、分離を抑えやすくなる場合があります。でも、多ければいいというものではありません。処方によっては、肌へ塗っても白さやぬるつきがいつまでも残る。種類や量を間違えれば、角質層の細胞間脂質へ余計に作用して、刺激の原因にもなる」




「かといって減らしすぎれば、店へ並んでいる間に水と油が別れる」




「そうなんです。棚の上で離婚成立。上が油、下が水。振っても戻らない、悲惨な二層式化粧品の完成です。不良品です」




 しかも、クリームに入るのは水と油と界面活性剤だけではないのだ。




「保湿剤、油剤、増粘剤、防腐剤、香料、各種有効成分。何十種類もの成分が、コンマ〇一パーセント単位で、奇跡みたいなバランスを保っています。たった一つの濃度を少し変えただけで、粘度が落ちる。粒径が変わる。防腐効果が弱まる。連鎖的に、系全体がドミノ倒しを起こすこともあります」




「それを三年間、起こさせない?」


「正確には、想定される保存環境の中で、三年間品質を保たせる、です」


「実際に三年間待って確認するのか」


「待っていたら、流行も担当者も会社も変わってしまいます。なので、未来を早送りします」


「未来を?」




「高温で保存して、劣化を加速させる。凍結と解凍を繰り返して、冬場の輸送を再現する。光を当てる。容器のプラスチックと反応しないか調べる。発売前の化粧品には、暑い倉庫、凍える配送車、まぶしい売り場、相性の悪い容器を、一通り経験してもらいます。本番で初体験させるわけにはいきませんから。消費者の肌の上で『想定外でした』は通用しません」




「それが、加速試験というものか」




「はい。私たちが作っているのは、今日だけ綺麗なクリームではありません。三年先まで壊れない未来ごと、設計しているんです」




 颯真は小さく頷いた。




「ああ。今ので化粧品の開発に時間がかかる理由は分かった」


「でも実はまだまだあるんです。今のは『水』と『油』の話です」


「まだあるのか」


「あります。先ほど、化粧品には三つの要素があると説明しました。『水』と『油』と――」


「『粉』。赤みやくすみを隠す」


「また百点! その粉には、『白浮き』という呪いがあるんです」




 私は実験台の中央に鎮座する、純白のサンプル管を指さした。真上から落ちるLEDの光を受けて、それは内側から発光しているように白い。




「肌の赤みやシミを隠す一番簡単な方法は、壁を塗るのと同じです。酸化チタンのような、屈折率が高くて光を強く散乱する粉を載せ、下にある色を物理的に見えなくする」




「無機顔料ペンキだな」




「はい。ものすごく小さなペンキです。カバー力は高い。でも、量が多すぎれば、肌が本来持っている色や光まで消してしまう。毛穴もシミも消えた代わりに、立体感までなくなって、人形のようなのっぺりした白さになる。これが『白浮き』です」




「待て」




 颯真の目が、わずかに細くなった。




「酸化チタンも、光を散乱させて白く見せているのだろう。なら、先ほどの乳化の白や、君の言う新技術と原理は同じではないのか」




 私は思わず、身を乗り出した。




「そこに気づきましたか!」




 危うく颯真の袖を掴むところだった。両手を天板につき、どうにか踏みとどまる。




「大きく言えば、どちらも光の散乱です。違うのは、光をどれだけ散らし、どれだけ透過させ、どちらの方向へ返すか。酸化チタンは隠蔽力が非常に強い。下の情報を消すのが得意です。でも、私たちが欲しいのは、全部を塗り潰す白ではありません」




「白く見せながら、肌そのものの光も残す?」


「そうです!」




 私はサンプル管を、そっと指先で回した。




「雪も雲も、材料そのものは透明です。氷も水滴も、一つだけなら透けている。でも、微細な粒や空隙が無数に集まると、その境界で光が何度も散乱し、真っ白に見える」




「白を塗るのではなく、白く見える光の通り道を作るのか」




「まさにそれです。可視光に近い大きさの粒子で光を散らす、光散乱ミーさんらんを利用する。絵の具のように塗り潰すのではなく、光を柔らかく散らしながら、一部は肌へ通す。それによって『白さ』と『透明感』を両立させる。その難題に、私たち白組は挑みました」




「その答えが、『シンヴェール』?」




「正式には……。そして私の中では――『アルフレッド』です」


「なぜ名前が二つある」


「『シンヴェール』は表向きの技術名。『アルフレッド』は、私が勝手につけたコードネームです」


「なぜアルフレッドなんだ」


「気難しくて、扱いに注文が多くて、機嫌がいい時だけ完璧な仕事をする。英国人執事っぽいでしょう?」


「紛らわしい……」




「アルフレッドの正体は、『中空シリカポリマー』です。中身が空洞になった、極小のシャボン玉のような透明粒子です。外側の透明な殻と、内側の空気では屈折率が大きく違う。その境界で光を強く散乱させることで、顔料を厚く塗らなくても、肌の内側から発光するような白を作れます」




 私はガラス管越しの純白を見つめ、深く息を吐いた。




「ただし、こいつが、とんでもなく気難しい」


「英国執事だからか」


「中身が空っぽの、極小シャボン玉だからです」




 化粧品工場では、水と油を乳化させるため、巨大なホモミキサーを毎分何千回転もの速度で回す。


 強いせん断力で大きな油滴を細かく砕き、均一に分散させるのだ。




「でも、その中へ、壊れやすい中空粒子を入れたら――」




 私は両手をミキサーの刃のように激しく回す。




「アルフレッド、粉砕」


「死ぬのか」


「死にます。中空の殻が叩き割られ、ただのシリカ片になります。空気との境界が消えるので、光を散乱する性能も消滅。殉職です」


「なら、壊れないように、ゆっくり撹拌すればいい」


「そう思いますよね。普通は」




 私は唇の端を吊り上げた。ここが、化学の底意地の悪いところだ。




「優しく混ぜると、今度はアルフレッド同士が寂しがります」


「寂しがる」


「粒子に感情はありません。ただ、挙動としては寂しがります」


「どういう意味だ」


「粒子同士が近づくと、分子間力ファンデルワールスりょくという弱い引力が働くんです。一つ一つは小さな力です。でも、何千、何万という粒子が接触すれば、全員で団結して巨大なダマになる」




 ダマになれば、肌へ塗った時にざらつく。伸びない。粒子の分布が偏り、光も均一に散乱しない。




「昼間、外注先の試作を触った時、私の指が検知したざらつき。あれが、凝集したアルフレッドです」




 私は動かしていた両手を止め、冷たい天板へついた。




「強く混ぜれば、殻が壊れる」


「はい」


「弱く混ぜれば、粒子が集まる」


「はい」


「壊さないためには、限界まで優しく。集めないためには、限界まで激しく」


「はい」


「……完全に矛盾しているな」


「一〇〇パーセント、矛盾しています」




 私は、天板を挟んで立つ颯真の瞳をまっすぐ見据えた。




「その矛盾を解決する技術と針の孔のような小さい手順、つまり工程窓プロセスウインドウを探してきました。殻を壊さず、粒子も凝集させない方法をずっと探してきました……」




 白組は五年間、数千回の失敗を重ねてきた。




 殻が割れたり、ダマになったり、粘度が落ちたり、ラボでは成功したのに工場の大きな釜では再現できなかったり……。




 一つずつ失敗を潰し、ようやく正解の輪郭が見え始めていた。




「でも、私たちの最新試作にも、どうしても取り切れない微細なダマが残っていました」




 私は、純白のサンプル管へ視線を戻した。




「なのに、これにはない。五年間、どうしても懐かなかった気難しい英国執事を、誰かが、完璧に手なずけています」




 私と颯真の視線が、同時に天板の上のサンプル管へと落ちた。


 しばしの沈黙がラボに落ちる。そして――。




「……これが。これが、あなたが言っていた流出していたサンプル、なんですよね?」




 颯真を見つめる私の声が、静寂なラボの中に響いた。






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