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灰月事件簿  作者: 謎の雑種


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3/3

3話 家族

興味を持っていただきありがとうございます。


3-1 遠征


 七月六日、月曜日。


 灰月市かいげつしを出て一時間を過ぎた頃には、車窓を流れる建物の数もすっかり減っていた。


 片側一車線の州道が、山の斜面に沿って緩やかに曲がっている。ガードレールの向こうには深い谷が続き、その反対側には手入れの行き届かない林が迫っていた。


 清瀬蓮司きよせ・れんじはハンドルを握ったまま、バックミラーへ目を向けた。


 後部座席には、小柄な少女が一人で座っている。


 黄緑色の長い髪には青い筋が混じり、黒と深紅のパーカーのフードから一本だけ跳ねた髪が覗いていた。目元は黒い布で完全に覆われている。


 片手にはスマートフォンを持ち、慣れた指先で画面を忙しなく滑らせていた。


 黒い目隠しを着けているとは思えないほど、操作に迷いがない。


 それでも、こちらの視線には気づいたらしい。


 少女はスマートフォンの画面を伏せ、清瀬の方へ顔を向けた。


「何か問題でもございますか、清瀬さん」


「前が見えているのか気になっただけだ」


「これのことですか?」


 少女は、自分の目隠しを指した。


「見えていますので、気になさらないでください」


「それより、現地へ到着した後の行動を確認いたします。私が指揮をしますので、お二人は私の補佐を――」


「待て」


「まだ最後まで説明していません」


「捜査の指揮を執るのは俺だ」


 少女の口が僅かに尖った。


「いいえ。アーティファクトに関しては、私がもっとも詳しいです。それに、私はすでに事件を二回も解決しています。すなわち、この中で指揮を執るのに相応しいのは私です!」


「俺は刑事として、数十件の事件を捜査してきた」


「普通の事件とは違うので、数に入れないでください」


「事件に変わりはない」


 少女はなおも自分が指揮役に相応しいと主張したが、清瀬も指揮を譲るつもりはない。短い押し問答は、どちらも退かないまま続いた。


 助手席の坂本さかもとが、膝に載せた資料から顔を上げた。


 スーツの内側には、古びた真鍮色の硬貨が収められている。


 田村総司たむら・そうじからは、「大事にしてください。いいことが起きますから」とだけ言われている。


「まあまあ、清瀬さん。シーナさんも初めて俺たちと組むわけですし」


「坂本」


 シーナが助手席の方へ顔を向けた。


「はい」


「私は十九です。子ども扱いしないでください」


「そんなつもりはなかったんですけど」


 思いがけず注意された坂本が、困ったように清瀬を見る。


 清瀬は前方へ視線を戻した。


「気にするな」


「はい」


 坂本は黙って資料へ目を落とした。


 シーナ・ガラード。


 特殊凶悪事件捜査課とくしゅきょうあくじけんそうさかから派遣された、赤羽あかばの部下だという。


 現場経験は二度。


 アーティファクト事件に限れば、清瀬と大差のない新人だった。


「もう一度、事件を整理するぞ」


 清瀬が言うと、坂本が資料をめくった。


「六月以降、銀岸州静森郡ぎんがんしゅう・しずもりぐんとその周辺で十人が行方不明。最初は家出や遭難として別々に扱われていましたが、全員が黒枝州有林くろえしゅうゆうりんから十キロ以内で足取りを消しています」


 坂本の説明に、シーナが補足する。


「六月に入ってから家畜の被害も増えています。羊、山羊、子牛。食べられた痕があるのに、現場へ血がほとんど残っていない例もあります。夜の森で大型の獣を見たという証言が三件。二本足で立っていたという話も一件あります。獣性型ビーストアーティファクトによる完全変異者の可能性があります」


「それを確かめるのが今回の仕事だ」


「発見した場合は、私が対処します」


「対処とは、見つけ次第殺すという意味か」


「完全変異しているなら、討伐します。そこに戻すべき人間は、もう残っていません」


 目隠しで表情は読めない。


 だが、その声には迷いがなかった。


「完全変異者が関わっているかどうかも、まだ確定していない。現場を見てから判断する」


 清瀬がそう言っても、シーナは引き下がらなかった。


「ですが、私たちの記録では――」


「現場を見てからだ」


 清瀬はシーナの反論を遮った。


 シーナは不満そうに口を閉じた。


 午前十時を少し過ぎた頃、三人は静森警察署しずもりけいさつしょへ到着した。


 失踪者の資料、周辺の捜索記録、家畜被害の届出が小さな会議室へ運び込まれる。


 十人分の失踪時期と場所を並べても、すぐに共通点は見つからなかった。


 年齢も職業も住んでいる地区も違う。


 ただ、失踪者の一覧とは別に、五月末の行方不明者届が一件だけ取り下げられていた。


久保田宗一郎くぼた・そういちろう、五十八歳」


 坂本が読み上げる。


「五月二十五日に失踪。六月一日に自力で帰宅。森で滑落して、使われていない作業小屋にいたと話しています」


「一週間も?」


 シーナが資料を覗き込む。


「大きな怪我はなし。病院にも行っていません」


 坂本が資料を見ながら答えた。


 清瀬は地図を開いた。


 久保田牧場くぼたぼくじょうは黒枝州有林のすぐ南にある。


 最初の被害者が消える五日前、宗一郎は同じ森から一週間ぶりに戻っていた。


「この人が犯人ですか?」


 シーナが尋ねる。


「まだ何も分からない」


「一番怪しいではありませんか」


「怪しいから犯人にするのか」


 清瀬は取り下げられた届出を閉じた。


「この森で何かを見た可能性がある。まずは重要参考人として話を聞く」


3-2 戻ってきた男


 楢伏地区ならぶせちくは、山と牧草地の間に民家が点在する小さな集落だった。


 中心部には農協支所と診療所、商店、ガソリンスタンド、小学校が一か所ずつ。住民の顔と所有する車まで、お互いに把握しているような土地だという。


 楢伏駐在所ならぶせちゅうざいしょ長谷部修一はせべ・しゅういちは、日に焼けた顔で三人を迎えた。


「捜査員の方が来るとは聞いていましたが、随分とお若い方も一緒なんですね」


 長谷部の視線がシーナへ向く。


「私は専門の捜査員でございます。見た目で能力を判断しないようお願いします」


「これは失礼しました」


 長谷部は穏やかに頭を下げた。


 シーナは満足そうに頷く。


「気にしないでください。この人、俺より年下なのに俺を呼び捨てにしますから」


 坂本が小声で言った。


「坂本。聞こえています」


 駐在所の机へ地区の地図が広げられた。


 長谷部は失踪地点と家畜被害の場所を一つずつ指しながら、住民の家族関係まで添えて説明した。


「久保田さんのことなら、私も話を聞きました。五月二十五日の朝、牧場を出たまま戻らなかった。家族と消防団で森を探しましたが、見つけられませんでした」


「六月一日に、自分で帰ったんですね」


「ええ。森で足を滑らせたそうです。携帯電話も落として、古い作業小屋で動けずにいたと」


「一週間、飲まず食わずで?」


 清瀬が尋ねる。


「雨水は飲んだと言っていました。昔から頑固な人で、病院へ行けと言っても聞かず、無事に帰ってきたこともあって、私も強くは言えませんでした」


 長谷部は少し視線を落とした。


 駐在所を出た三人は、家畜被害を届け出た大庭富江おおば・とみえを訪ねた。


 富江の農地では、羊の柵が支柱ごと外側へ倒されていた。切断された跡はない。金属の支柱が根元から曲がっている。


「熊ですか?」


 シーナが尋ねる。


「熊なら足跡くらい残すだろう。夜中に聞こえたのは狼みたいな声だったよ」


「何頭でした?」


「さあね。二頭か三頭か。山じゃ声が響くから分からないよ」


 富江は素っ気なく答えた。


 シーナは柵の傷へ目を向ける。


 清瀬も周囲を調べたが、古い足跡と家畜の毛以外に目立った痕跡はなかった。


「ほかに変わったことはありませんでしたか?」


 坂本が尋ねた。


 富江は少し考え、羊舎へ目を向けた。


「羊の様子が変わったね。あの夜から森側の柵へ近づかなくなってね。日が暮れると羊舎の奥に固まって、外へ出そうとしても動かないよ」


 シーナの口元から笑みが消えた。


 次に訪ねたのは、地区中心部のガソリンスタンドだった。


 森下瑞穂もりした・みずほは、弟の森下和馬もりした・かずまが消えた日のことを何度も警察へ話していた。


 それでも、清瀬たちへ同じ説明を繰り返した。


「工具を取りに戻るだけだって言ってたんです。次の日も仕事だったし、家出する理由なんてありません」


「最後に電話で話したのは何時頃ですか」


「午後八時前です。車を停めて、林道を歩いてるって。後ろで犬みたいな声が聞こえて……和馬、一頭じゃないかもしれないって言ってました」


 声が僅かに震える。


「見つかりますよね」


 清瀬は、軽々しく頷くことができなかった。


「必ず、何があったのか確かめます」


 約束できるのは、そこまでだった。


 三人が久保田牧場へ着いた時には、午後五時を回っていた。


 牛舎と羊舎を挟む広い敷地の中央に、古い二階建ての母屋がある。


 宗一郎は作業着姿で三人を出迎えた。


 日に焼けた肌。白髪の混じった短い髪。五十八歳には見えないほど肩幅が広い。


 事前に連絡を入れていたため、ほかの家族五人も母屋へ揃っていた。


 妻の久保田和恵くぼた・かずえが茶を出し、長女の美緒みおが主に受け答えをする。長男の晴久あるひさと、その妻の沙耶さやは少し離れて座り、九歳の晴人はるとは祖父の隣にいた。


 晴人が身じろぎした拍子に、湯呑みへ肘を当てた。


 倒れかけた湯呑みを沙耶が支え、晴久がすぐに布巾を滑らせる。宗一郎は晴人の頭へ大きな手を置いた。


「慌てるな」


「ごめんなさい」


 晴人は母親ではなく、宗一郎の顔を見上げた。


 宗一郎が頷くと、ようやく身体から力を抜く。


 和恵が笑い、美緒も濡れた卓上を拭き始めた。


 一見すれば、家族が自然に助け合っている光景だった。


 ただ、その動き出す瞬間だけは、宗一郎の許しを待っていたようにも見えた。


 シーナは何も言わず、その様子を見ていた。


 捜査対象を観察する様子とは、少し違って見えた。


「森で滑落し、古い小屋まで移動した」


 宗一郎は低い声で話した。


「脚を痛めて、しばらく動けなかった。携帯は斜面に落としてしまい、なくしてしまったよ」


「その小屋は、どこにありますか」


「分からん。林道から外れていた。帰る時も沢沿いに歩いただけだ」


「一週間、食べ物は?」


「小屋に古い非常食が残っていた」


 警察署の記録にはなかった話だった。


「あなたが、今回の失踪事件へ関わっているのですか?」


 シーナが真正面から尋ねた。


 坂本の手が止まる。


 清瀬はシーナを見たが、遅かった。


 宗一郎は怒りも動揺も見せなかった。


「失踪事件というと、十人がいなくなっている事件のことかね」


「はい」


「関わっていない。疑っているなら、好きに調べろ」


 美緒も困ったように笑う。


「父が帰ってきた後も、うちは普段どおりです。行方不明になった方とは、特別な付き合いもありません」


「そうですか。分かりました」


 シーナはあっさり引いた。


 宗一郎が一度、乾いた咳をした。


 その瞬間、何かを言いかけていた和恵も、膝の上で指を動かしていた晴久も、同時に止まった。


 僅かな間の後、全員が何事もなかったように会話へ戻る。


 坂本だけが、その動きを見ていた。


 聞き込みを終え、三人は母屋を出た。


 牛舎の前を通った時、牛が一斉に奥へ下がった。羊舎でも、家族が近づくたびに羊が柵の反対側へ集まっている。


「ミルク」


 晴人が一頭の羊へ近づいた。


「怖くないよ」


 羊は柵へ身体をぶつける勢いで逃げていた。


 晴人は残念そうな顔をする。


 その表情まで、どこか作られたものに見えた。


 牧場から十分ほど離れた場所で、坂本が口を開いた。


「清瀬さん。あの家族、変です」


「宗一郎の話か」


「それもあります。でも、何というか普通じゃない感じがして」


 坂本は後方に遠ざかる牧場を振り返った。


「あの人たち、誰かの命令で動いているような感じがして」


「そうですか? 私には、仲のいい家族に見えましたけど」


 シーナが遠ざかる母屋を見たまま言った。


3-3 森の偵察者


 その夜、三人は黒枝州有林へ入った。


 牧場から一・二キロほど奥にある旧集材所まで、崩れかけた林道が続いている。


 懐中電灯の光は木々に遮られ、十メートル先まで届かない。虫の声と沢音が重なり、どこかで枝が折れるたびに方向を見失いそうになる。


「本当に入るんですか」


 坂本が散弾銃の入ったケースを持ち直した。


「ここまで来てから聞くな」


「確認しただけです」


「坂本。怖いなら、私の後ろを歩いてください」


「君よりは前に出るよ」


「無理をしない方がよろしいです」


「二人とも静かにしろ」


 旧集材所には、朽ちた丸太と錆びたワイヤーが残されていた。


 三人が平地の中央へ入った時、シーナが立ち止まる。


「います」


 ほとんど同時に、右側の藪が大きく揺れた。


 黒い影が低い姿勢で飛び出す。


 狼に似た頭部と、人間のように長い両腕。二足で地面へ着地した身体は、清瀬より一回り大きかった。


 一体ではない。


 左側の丸太の上にも、同じ姿が現れる。


「完全変異者だと思われます。坂本は下がって!」


 シーナが地面を蹴った。


 小柄な身体が一体の懐へ潜り込み、掌底を腹へ叩き込む。鈍い音と同時に、その腕輪が淡く震えた。


 もう一体が清瀬へ飛びかかる。


 清瀬は拳銃を抜かず、身体を横へずらした。伸びてきた腕を掴み、足を払う。


 人間相手なら、それで崩せた。


 怪物は片足で踏み止まり、逆の腕を振るう。


 清瀬は両腕で受けた。


 衝撃は重い。


 だが、青山拓斗あおやま・たくとと組み合った時のように、身体ごと弾き飛ばされることはなかった。


 首元の太陽円盤が熱を帯びている。


 筋肉の奥に、普段より強い力が巡っていた。


 清瀬は相手の腕を押し返し、顎へ拳を打ち込む。


 怪物の頭が僅かに揺れた。


「これが、身体強化か」


「感心してる場合ですか!」


 坂本の声が飛ぶ。


 怪物が爪を振り下ろす。清瀬は丸太の陰へ転がり込み、首飾りを握った。


 赤羽から押しつけられた、得体の知れない力。


 白金色の炎が出ると聞かされていた。


「動け」


 何も起きない。


 円盤は熱を持っている。それ以上の変化はなかった。


 爪が丸太を抉る。


 清瀬は拳銃を抜き、怪物の胸へ二発撃ち込んだ。


 銃声が森へ響く。


 相手はよろめいたが、倒れない。


 一方、シーナは相手の攻撃を両腕で受け、その衝撃ごと腕輪へ蓄えていた。足を踏み込み、掌を怪物の胸へ当てる。


 ――轟奏ごうそう


 空気が弾けた。


 怪物の身体が後方へ吹き飛び、積まれた丸太へ突っ込む。


「これが専門家の――」


 シーナが振り返った、その時だった。


 森の奥から、低く長い遠吠えが響いた。


 清瀬と対峙していた個体の耳が動く。


 倒れていた一体も、すぐに身体を起こした。


 二体は互いを見ていない。


 それでも同時に背を向け、別々の獣道へ飛び込んだ。


「逃げました!」


 シーナが追おうとする。


「待て」


 清瀬が止めた。


「今なら追えます」


「暗い森で、向こうの道へ入る気か」


「ですが――」


「あいつらは俺たちを殺しに来たんじゃない」


 清瀬は二体が消えた暗がりを見る。


 攻め込める場面でも距離を取り、こちらの武器と動きを見ていた。


 そして、合図一つで同時に退いた。


「自分たちが見つかった後、俺たちが何をするか確かめに来た。これは襲撃じゃない」


 遠くで、短い遠吠えが二度返った。


「偵察だ」


3-4 力との距離


 翌日の昼、三人は地区に一軒しかない食堂へ入った。


 店内には古い扇風機が回り、窓の外には州道と牧草地が見える。


 坂本は焼き魚定食を前にしながら、何度も窓へ目を向けていた。


「昨日のが、店まで来ると思っているのか」


「思ってません。ただ、昼間に人の姿で歩ける可能性があるって聞いたので」


「警戒するのはよいことです」


 シーナは得意げに頷いた。


「完全変異者は、モデルによって人間だった頃の姿を再現できます。記憶も知識も利用しますので、会話だけで見抜くのは難しいです」


 シーナは続けた。


「昨夜の個体は、おそらくアスワングです。人間へ化けて群れを作り、生きた人間を狩る獣性型です」


「昨日の二体も、元は失踪者かもしれないということか」


 清瀬が尋ねる。


「可能性はあります」


「人間へ戻す方法は」


「ありません」


 シーナは迷わなかった。


「完全変異は、アーティファクトが元の魂と人格を食べ終えた状態です。言葉を話しても、家族を覚えていても、それは怪物が記憶を利用しているだけです」


「そう教わったのか?」


「はい」


「戻そうとした例は?」


「記録上、何度か試みたようですが、成功した例はありません」


 昨日まで二度しか現場へ出ていない人間の言葉とは思えないほど、きっぱりとしていた。


 清瀬はそれ以上追及せず、コーヒーへ手を伸ばした。


「もう一つ聞く」


「どうぞ。専門的なご質問でも構いません」


「この首飾りは、どうすれば使える」


 シーナの箸が止まった。


「使えなかったのですか?」


「見ていただろ」


「清瀬さんが首飾りへ怒っていたので、あれも発動に必要な手順なのかと」


 坂本が俯いた。


 笑いを堪えている。


「何がおかしい」


「何でもありません」


「アーティファクトは、持っただけで説明書を出してはくれません」


 シーナが姿勢を正した。


「ただの異物として押さえ込めば、力は応えません。反対に、すべてを受け入れて自分を明け渡せば、今度はアーティファクトへ呑まれます」


「どうしろと言うんだ」


「自分の一部として受け入れてください。でも、主導権まで渡してはいけません」


 シーナは少し考えた。


「受け入れるけど、受け入れすぎない。それくらいでいいんです」


「曖昧だな」


「感覚の話ですから」


「説明が下手なだけじゃないの?」


 坂本が言う。


「坂本には教えません」


「俺、何も持ってないけど」


 清瀬はシャツの下にある首飾りへ触れた。


 青山を変えた硬貨。


 あの男は、失ったものを取り戻すために力を手放せなくなった。


 清瀬自身も、事件を追うためなら自分の身体を後回しにする。


 違うと言い切れるほど、遠い話ではなかった。


「完全変異した後、原因のアーティファクトはどうなる」


「身体から離れ、次の所有者を探します」


「一つのアーティファクトが、何人も変えるのか」


「はい。獣性型には、それを繁殖として繰り返す物があります」


 清瀬は、十人の失踪者一覧を思い浮かべた。


 この事件では、遺体が一つも見つかっていない。


 殺されて隠されたのではなく、別の可能性がある。


「失踪者の中に、昨日のような姿へ変わった者がいる」


 坂本の顔から血の気が引いた。


「十人全員が、ということですか」


「まだ分からない」


 清瀬は答えた。


「だが、探す相手が人間の姿をしているとは限らなくなった」


3-5 静かな二夜目


 午後から、三人は失踪地点と家畜被害の場所を一枚の地図へ書き込んだ。


 十人の最後の目撃場所には赤い印。家畜被害には青い印。完全変異者らしき目撃情報には黒い印を付ける。


 すべての印は、黒枝州有林を中心とした範囲へ収まった。


「森を根城にしているのは間違いなさそうですね」


 坂本が言った。


「根城が一つとは限らない」


「昨日の個体が集団で動いているなら、中心になる場所か指揮する個体がいます」


 シーナが地図を指す。


「大庭さんが聞いた最初の遠吠えと、昨夜二体を退かせた声は同じものかもしれません」


 午後は久保田家の周辺を調べた。


 農協では、宗一郎の帰還後も飼料の購入量と出荷予定に大きな変化はないと言われた。


 ただし、長女の美緒は以前なら同僚へ牧場の愚痴をこぼしていたのに、六月から家族の不満を一切口にしなくなったという。


 小学校の担任は、晴人が急に大人しくなったと話した。


 授業中に騒ぐことも、友人と喧嘩することもなくなった。以前は羊の写真を何度も見せていたが、最近は動物の話そのものをしない。


 取引先の農家からは、家族の口論がなくなったと聞いた。


「前は宗一郎さんと晴久が、機械の買い替えでよく揉めてたよ。今じゃ晴久が何でも親父さんの言うとおりだ。不思議なくらい仲がよくなった」


 診療所に、宗一郎が受診した記録はなかった。


 一週間も森で遭難した人間を、家族の誰も医師へ連れていっていない。


 聞き込みの内容を日付順に並べていた坂本が、資料をなぞる指を止めた。


「清瀬さん。これ、偶然だと思いますか」


「何がだ」


「六月一日から五日まで、久保田家は外部との予定をすべてキャンセルしています。晴久は農協の共同作業、美緒は直売所の当番、和恵は診療所の予約、沙耶は学校の保護者会です。晴人も、その五日間は学校を休んでいます」


 清瀬は手帳へ書き出された日付を追った。


「宗一郎が戻った日から、五日間か」


「はい。六月六日からは、全員が普段どおりの生活へ戻っています。ただ、その頃から様子が変わったと言われています」


「帰ってきた宗一郎さんの世話を、家族全員でしていた可能性もあります」


 シーナが言った。


「そうかもしれない。だが、宗一郎の帰還と同時に、一家全員が外との接触を断っている」


 事件へ直接結びつけられる証拠ではない。


 宗一郎の世話だけで片づけるには、不自然さが残った。


 夕方、三人は久保田牧場の近くまで戻った。


 森へ入る前に、坂本が足を止める。


「昨日と同じ場所へ行くんですか」


「今夜は林道を外れない」


「それを聞いて安心しました」


「完全変異者を恐れているのですか?」


 シーナが尋ねる。


「怖いに決まってるだろ」


「正直ですね」


「君は怖くないの?」


「私は専門家ですので」


 答えになっていなかった。


 三人は日付が変わるまで、森の入口と牧場周辺を警戒した。


 遠吠えは聞こえない。


 家畜も騒がず、林道へ現れる影もなかった。


 前夜の騒ぎが嘘だったように、森は静まり返っている。


「私たちの実力を見て、出てこられないのでしょう」


 シーナが胸を張った。


「特に、私の轟奏を警戒していると思われます」


「銃声の方じゃない?」


「坂本。怪物は銃弾では簡単に倒せません」


「どちらでもいい」


 清瀬は暗い森から目を離さなかった。


「何も起きていないんじゃない。起こさないことを選んでいる」


「どうしてです?」


「こちらが焦って動くのを待っているのかもしれない」


 風のない林で、葉が一枚だけ揺れた。


「静かすぎる」


3-6 六人家族


 三日目の昼、清瀬は再び完全変異者についてシーナへ尋ねた。


「人間の姿を取れる個体は、どこまで人間らしく振る舞える」


「モデルと個体によります。変異前の記憶をすべて持ち、仕事や日常生活を続けられるものもいます」


「家族として暮らすこともか」


「可能です。ただし、人間の愛情や倫理が残っているわけではありません。怪物の価値観で、その記憶を解釈しています」


「群れを作るなら、待ち伏せもする?」


 坂本が尋ねた。


「知能が高ければします。人間の姿で助けを求め、仲間が隠れて待つ例もあります」


「群れの中で、役割を決めることもあるのか」


「あります。狩り、見張り、獲物の誘導。人間の生活を真似る個体なら、変異前の関係や役割を利用することもあります」


「それを先に言え」


 清瀬は思わず声を上げた。


 シーナが少し怯む。


「聞かれませんでしたので」


「……声を荒げてすまない。必要な情報は、先に共有してくれると助かる」


「今後、気をつけます」


 午後、三人は久保田牧場を再訪した。


 宗一郎は牛舎の前で飼料袋を運んでいた。清瀬たちを見ると手を止めたが、驚いた様子はない。


「また何か聞きたいのか」


「確認したいことがあります」


 清瀬が答えるより早く、シーナが前へ出る。


「アーティファクトをご存じですか?」


 宗一郎は黙った。


 近くにいた晴久、美緒、和恵、沙耶、晴人の視線が、一斉に宗一郎へ集まる。


 誰一人として、アーティファクトという言葉の意味を聞き返さなかった。


「知らん」


 数秒後、宗一郎が答えた。


「そうですか」


「待て」


 そのまま引こうとしたシーナを、清瀬が止める。


「今の言葉を、どこかで聞いたことは?」


「ない」


「ご家族もですか」


 美緒が愛想のよい笑みを浮かべる。


「初めて聞きました。何かの道具ですか?」


 遅れて作られた質問だった。


 清瀬は家族の顔を順番に見た。


「こちらで確認します。ご協力ありがとうございました」


 牧場を離れた後、シーナが不満そうに尋ねる。


「踏み込まないのですか?」


「何を理由に家へ入る」


「今の反応は明らかに怪しかったです」


「怪しいだけでは令状は取れない」


「怪物に令状が必要なのですか?」


「人間の家へ踏み込むなら必要だ」


「人間ではない可能性があります」


「可能性だけで撃つのか」


 シーナが口を閉じた。


「今夜は見張る。人を襲うか、森の個体と接触すれば動く」


 三人は牧場の南東にある、使われていない農機具小屋へ移動した。


 母屋の玄関と進入路、牛舎の一部が見渡せる。北西側の豚舎と森へ続く斜面は、建物と防風林に隠れていた。


 夕方、久保田家は普段どおりに働いていた。


 宗一郎と晴久は牛舎へ入り、美緒と沙耶は直売所を片づける。和恵が洗濯物を取り込み、晴人が羊舎の前を掃いていた。


 不審な外出も、森の個体との接触もない。


 日が沈むと、六人は母屋の食卓へ集まった。


 晴人が学校のノートらしき物を広げ、沙耶が横から覗き込む。晴久が何かを言うと、和恵と美緒が笑った。宗一郎は食卓の端から、五人を静かに見ている。


 やがて宗一郎が一度だけ頷いた。


 それを合図に、晴久はノートを閉じ、美緒は笑うのをやめた。和恵が晴人の背筋を正し、五人が揃って宗一郎へ顔を向ける。


 宗一郎が何かを話し、全員が同じように頷いた。


 料理へ箸をつける者はほとんどいない。それでも、誰一人として席を立とうとはしなかった。


 食事を必要としなくなっても、家族として食卓を囲む時間だけは、以前と同じように続けているらしい。


 いや、続けているというより、宗一郎が以前の形を繰り返させている。


 笑う時も、話をやめる時も、席を立たずにいることも、すべて食卓の端に座る男が決めていた。


 シーナは双眼鏡を下ろさなかった。


「毎日、全員で食卓を囲むんですね」


「普通の家族なら、珍しくないんじゃないですか」


 坂本が答える。


「そう、なんですね」


 シーナの声は小さかった。


 清瀬は横顔を見たが、何も尋ねなかった。


 やがて食卓から人影が消え、家の明かりが一つずつ消えていく。


 午後十時を回った頃だった。


 黒枝州有林から、若い女の悲鳴が聞こえた。


「助けて!」


 暗い森の中で、もう一度、声が響く。


 清瀬は立ち上がった。


「行くぞ」


3-7 救助の罠


 三人は悲鳴の聞こえた方角へ走った。


 獣道ではなく、森の中を通る古い作業道だ。左右を斜面に挟まれ、声は沢へ沿って何度も反響している。


「こっちです!」


 先頭を走るシーナが叫ぶ。


 木々の間から、人影が見えた。


 若い女が地面へ倒れている。


 その前には二体の怪物がいた。一体が逃げ道を塞ぎ、もう一体が長い爪を女へ伸ばしている。


「離れなさい!」


 シーナが飛び込んだ。


 一体が振り返り、彼女へ牙を剥く。


 もう一体は女の前を動かない。


「坂本は女性を見ろ。シーナ、左を頼む」


「了解いたしました!」


 清瀬は右の個体へ向かった。


 怪物が四つん這いになり、地面を蹴る。


 拳銃で撃っても止めきれない。


 逃げれば、背後にいる女が襲われる。


 清瀬は首元の円盤を握った。


 アーティファクトを信用したわけではない。


 青山を変えた硬貨も、目の前の怪物を生んだ物も、同じアーティファクトだ。


 それでも、今は力が必要だった。


 首飾りへ善悪を決めさせるつもりはない。


 力は借りる。


 だが、何を守り、誰を止めるかは俺が決める。


 円盤が強い熱を放った。


 両手の内側から、白金色の光が溢れる。


 炎だった。


 清瀬の両手を包みながら、皮膚も服も焼いていない。


 怪物が本能的に動きを止めた。


 首飾りから流れ込んだ名が、意識の奥へ浮かび上がる。


 ――審炎しんえん


 清瀬は右の掌を突き出す。


 白金色の炎が、五メートルほど先まで一直線に走った。


 怪物の胸から肩を包み込む。


 獣の悲鳴が森へ響いた。


 体毛が燃え、皮膚が裂ける。傷口は再生しようと蠢いたが、白金の炎に焼かれた部分から動きを止めていく。


 相手が横へ逃れようとする。


 清瀬は炎を逸らさず、上半身へ集中させた。


 二秒。


 三秒。


 怪物は力を失い、地面へ倒れた。


 清瀬は炎を止めた。


 急に呼吸が重くなり、喉が乾く。両腕には、長時間殴り合った後のような疲労が残った。


 だが、立っていられないほどではない。


 隣では、シーナがもう一体の攻撃を紙一重でかわしていた。


 爪を腕輪で受け、脇腹へ拳を打ち込む。回避と打撃を重ねるたび、腕輪と相手の身体に見えない音が蓄えられていく。


「そこです」


 シーナの掌が相手の胸へ触れた。


 ――内響破ないきょうは


 怪物の身体が内側から跳ねた。


 胸の奥で何かが破裂し、口から血を吐く。二、三歩よろめいた後、その場へ崩れ落ちた。


「二体、討伐しました」


 シーナは倒れた個体を見下ろした。


 動く様子はない。


 清瀬が相手をした個体も倒れている。


 目の前の敵は、二体とも倒れた。


 少なくとも、すぐ近くにほかの気配は感じられない。


 張りつめていたものが緩み、胸の奥へ安堵が広がる。初めて組む二人の前で、ようやく専門家として役に立てた。そんな小さな自負が、周囲への警戒を僅かに鈍らせた。


「助けて……」


 若い女が、震える手を伸ばした。


 人間へ擬態した怪物が、助けを求めるふりをして獲物を誘う。シーナは、その記録を知っていた。


 だが、実戦経験の浅い彼女は、知識を目の前の怯えた女性へ結び付けられなかった。


 もう危険はない。


 そう決めつけ、倒れた個体へ背を向ける。


 シーナは若い女へ駆け寄った。


「もう大丈夫です。私たちは――」


「待て、シーナ!」


 清瀬は周囲を見た。


 悲鳴を聞いてから、ここへ着くまで数分はかかっている。


 怪物は二体いた。


 それなのに、女の服には泥が付いているだけで、爪に裂かれた傷も噛まれた跡もない。


 昼間に聞いたシーナの言葉が蘇る。


 人間の姿で助けを求め、仲間が隠れて待つ。


「その女から離れろ!」


 女が顔を上げた。


 怯えていた表情が消える。


 口元だけが、異様に大きく歪んだ。


 両腕が膨れ、指先から黒い爪が伸びる。


 シーナは振り返ったが、反応が遅れた。


 女だったものが地面を蹴る。


 清瀬は二人の間へ身体を滑り込ませた。


 伸びてきた両腕を押さえる。


 怪物は清瀬の右腕へ噛みついた。


「ぐっ――!」


 スーツの袖が裂け、牙が前腕の肉へ食い込む。


 清瀬は左の拳を相手の側頭部へ叩き込んだ。


 一度では離れない。


 肉が引き裂かれる感触と同時に、腕へ激痛が走った。


「清瀬さん!」


 シーナの声が震える。


 怪物がもう一度噛みつこうと口を開く。


 その頭部へ、横から銃口が向けられた。


「離れろ!」


 坂本が引き金を引いた。


 至近距離から放たれた散弾が、怪物の頭部を撃ち抜く。


 身体から力が抜け、清瀬の前へ倒れた。


 坂本は散弾銃を構えたまま、荒い息を繰り返している。


 銃口が小さく震えていた。


「清瀬さん、腕が……」


 シーナは清瀬の傷を見たまま動かない。


 右前腕の表面は大きく裂け、血が袖を濡らしている。


 坂本は散弾銃を下ろし、ポケットから清潔なハンカチを取り出した。傷へ押し当て、外した自分のネクタイでずれないように固定する。


「応急処置です。ちゃんとした手当てをするまで、これで持たせます」


 清瀬は短く頷いた。


 森の奥から、低い遠吠えが響いた。


 今度は一つではない。


 前方。


 右の斜面。


 背後。


 いくつもの声が、三人を囲むように次々と応えた。


3-8 古い避難小屋


「走れ!」


 清瀬の声で、坂本が動いた。


 シーナだけが、血に濡れた清瀬の腕を見つめたまま立ち尽くしている。


「シーナ!」


 清瀬は左手で肩を押した。


「今は止血できない。囲まれる前に森を出る」


「私が、見落としたから……」


「後にしろ。走れ」


 三人は来た道を戻った。


 木々の間を、複数の影が並走している。


 獣道を使う相手の方が速い。


 森の入口へ向かう道には、すでに二つの遠吠えが回り込んでいた。


「清瀬さん、下へ戻る道は駄目です!」


 坂本が叫ぶ。


「どこへ行く」


「分かりません。でも、あっちは囲まれます!」


 坂本は林道を外れ、南西の斜面へ続く細い道を指した。


 地図には載っていない。


「根拠は」


「ありません。ただ、嫌な感じがするんです」


 遠くで枝が折れた。


 迷っている時間はなかった。


「先に行け」


 清瀬は坂本の判断に従った。


 古い作業道は、倒木と蔦に覆われていた。


 負傷した右腕を動かすたび、傷から熱い痛みが走る。坂本が前を進み、シーナは清瀬の左側を無言で進んでいた。


 背後の遠吠えが近づく。


 坂本の足が木の根へ引っかかった。


「うわっ!」


 地面へ膝をつき、手にしていた懐中電灯を落とす。


 懐中電灯は斜面を転がり、倒木へ当たって止まった。


 光が、蔦に隠れた錆びた板を照らしている。


 坂本が蔦を払った。


第三林業避難所だいさんりんぎょうひなんじょ……〇・九キロ」


 矢印は、さらに細い脇道を指していた。


「そんな場所、地図にはなかったぞ」


「行きましょう。ほかに逃げる場所はありません」


 坂本が立ち上がる。


 その胸元で、コイン型のアーティファクトが一瞬だけ温かくなっていたことに、本人は気づかなかった。


 十五分ほど進んだ先に、古い建物が見えた。


 第三林業避難所。


 観光用の山小屋ではない。厚い木壁の一部を鋼板で補強し、南側の入口には重い鋼製扉が付いている。


 三人は中へ飛び込み、扉を閉めた。


 重い作業机と鋼製の資材棚を押し、入口を塞ぐ。三つの細長い窓も、金属製の雨戸を閉じて長椅子と木材で補強した。


「少しは持ちます」


 シーナが言った。


「少しじゃ困るんだけど」


 坂本は資材庫を探し、壁へ固定された白い箱を見つけた。


 密閉された古い救急箱だった。


 中には未開封のガーゼ、包帯、消毒液が残っている。薬は使用期限を大きく過ぎていたため使えない。


「清瀬さん、袖を切ります」


 坂本は鋏で右袖を開き、傷を確認した。


 噛み取られた範囲は長さ六センチほど。皮膚とその下の肉が削れているが、骨や太い血管までは届いていない。


「痛みますよ」


「早くしろ」


「言われなくてもやります」


 消毒液をかけられ、清瀬は奥歯を噛んだ。


 坂本はガーゼを重ね、圧迫するように包帯を巻く。最後に三角巾で腕を固定した。


「出血は抑えました。でも、病院へ行かないと駄目です」


「分かっている」


 激痛はある。


 それでも意識ははっきりしていた。首飾りを持ってから身体の奥に巡る熱が、失血と痛みで崩れそうになる身体を支えている。


 治しているわけではない。


 倒れるまでの時間を延ばしているだけだ。


 シーナは壁際へ座り込んでいた。


 目隠しで表情の半分は隠れている。それでも、唇が震えているのは分かった。


「清瀬さん」


「何だ」


「申し訳、ございませんでした」


 声が途切れる。


「私、何の確認もせずに近づいて……清瀬さんが止めてくれたのに、遅れて」


 膝の上で両手を握る。


「私のせいです」


「気にするな」


「ですが、私が専門家だと言ったのに」


「今は反省会をしている場合じゃない」


「二体を倒して、もう安全だと思ってしまいました。二度も任務へ参加して、怪物も倒したから、今回も私ならできると思って……」


「シーナ」


「私がもっと見ていれば、清瀬さんは――」


 清瀬は彼女の前へしゃがみ、顔の高さを合わせた。


「誰でも失敗はする」


「それでも、私が……」


「いいか。誰かが失敗した時、それをカバーするのがチームだろ」


 シーナの口が閉じる。


「今回は俺がカバーした。それだけだ」


「でも――」


「謝罪なら、後でいくらでも聞いてやる」


 清瀬は立ち上がった。


「今は、ここから三人で出る方法を考えろ。完全変異者を一番知っているのは、お前だ」


「私を、まだ頼るのですか」


「頼る。お前が考えるまで、俺たちで時間を稼ぐ」


 鋼製扉の向こうから、何かが地面を踏む音がした。


 一つ。


 二つ。


 窓の外にも、低い呼吸が増えていく。


 坂本が壁際から外を覗いた。


「七体います」


 正面に三体。


 左右の窓へ二体ずつ。


 その中央に、ほかより大柄な個体が立っていた。


「もう諦めろ」


 獣の口から、人間の言葉が聞こえた。


 低く掠れた声。


 清瀬には聞き覚えがあった。


 久保田宗一郎の声だ。


「俺たちと同じになれば、怯える必要もない。失うものもなくなる」


 鋼製扉が、外側から大きく叩かれた。


3-9 神威解放・サンダルフォン


 扉へ押しつけた作業机が、床を数センチ滑った。


 左右の窓でも、金属製の雨戸が激しく鳴る。


 七体のアスワングは同時に襲いかかりながら、開口部を分けて力を加えていた。


 偶然ではない。


 宗一郎が指示を出している。


「お前たちは、久保田家か」


 清瀬が扉越しに尋ねた。


「そうだ」


「家族を、同じ怪物へ変えたのか」


「怪物じゃない。家族だ」


「誰も争わない、素敵な家族さ。お前たちも入れてやる」


「行方不明になった十人は、どうした」


 扉の向こうで、宗一郎が低く息を吐く。


「ここにいる」


「皆、互いに助け合う家族になった」


 清瀬は、昼間にシーナから聞いた話を思い出した。


 群れの中で役割を決める。


 宗一郎は、変異させた人間を仲間ではなく、増えた家族として扱っている。


 だが、そこに相手の意思はない。宗一郎が中心に立ち、役目を与え、従うことを家族の証しにしているだけだ。


 家族の形を借りた、獣の群れだった。


 扉が再び打たれた。


 蝶番の一つが歪み、木の壁に亀裂が走る。


 続けて、正面からだけ三度の衝撃が来た。


 左右の雨戸を叩く音は止まっている。


 宗一郎だけが、鋼製扉を押し開けようとしていた。


 作業机が床を削りながら下がる。二人で押した時よりも速い。


「同じ完全変異者でも、あれだけ力が違うのか」


「最初に変異した個体です。長く力へ馴染んでいるか、元の欲とアーティファクトの性質が強く合っている可能性があります」


 シーナは扉を見つめたまま答えた。


「通常の個体だと思わないでください」


「清瀬さん」


 シーナが立ち上がった。


 先ほどまで震えていた声が、少しだけ落ち着いている。


「奥の手があります」


「聞かせろ」


「私のアーティファクトの力を解放します。そうすれば、周りの敵を一網打尽にできると思います」


「できるのか」


「できます」


 一度言い切ってから、小さく付け加える。


「たぶん」


「最後の一言が不安なんだけど」


 坂本が言う。


「やるしかありません。お二人は、できるだけ耳を塞いでください」


 シーナは二つの腕輪を胸の前で重ねた。


 小さく息を吸う。


 ――神威解放レガリア・リリース・サンダルフォン。


 腕輪から光の筋が伸びた。


 シーナの背後で、金属の管が一本ずつ姿を現す。


 長さも太さも異なる無数の管が、巨大なパイプオルガンのように並び、左右へ翼の形を作っていく。


 最初の音が鳴った。


 低く、腹の底を揺らす音。


 次に高い音が重なり、狭い避難小屋だけでなく、壁の向こうの森へ広がっていく。


 清瀬は左手で耳を塞いだ。


 それでも、音は骨と床を伝って身体の内側へ入り込む。


 心臓の鼓動と音楽が重なり、血液まで震えているようだった。


 外で、アスワングたちが苦しげに唸る。


「怯むな! 壊せ!」


 宗一郎が叫んだ。


 七体が一斉に扉と窓へ体当たりする。


 一体が演奏に耐えきれず、窓から離れようとした。


「戻れ!」


 宗一郎の一喝に、その個体は苦痛に喉を鳴らしながら向きを変えた。再び雨戸へ爪を立て、自分の身体が傷つくことも構わず体当たりを繰り返す。


 守り合っているのではない。


 宗一郎の命令へ従っている。


 雨戸の留め具が一つ外れた。


 鋼製扉の上部が内側へ曲がる。


 シーナの鼻から血が一筋流れた。


 両腕が震えている。


「まだですか!」


 坂本が叫ぶ。


「あと、少し……!」


 扉の隙間から、黒い爪が差し込まれた。


 清瀬は左手へ審炎を灯し、その爪を焼く。


 肉の焦げる臭いが広がる。


 それでも、腕は引っ込まない。


 焼けた爪が扉の縁を掴み、隙間をさらに押し広げる。


 宗一郎だけが、音と炎に耐えていた。


 シーナの背後で、最後の管が高い音を奏でた。


 音楽が止まる。


 一瞬だけ、森からすべての音が消えた。


 シーナが右手を上げる。


 指を鳴らした。


 ――内響破ないきょうは


 避難小屋の外で、七つの鈍い破裂音がほぼ同時に響いた。


 壁を叩いていた爪が止まる。


 扉へかかっていた重みが消え、何かが地面へ倒れる音が続いた。


 静寂が戻った。


 シーナの背後にあった管の群れが、光の粒となって消えていく。


 その時、扉の向こうから低い唸り声が聞こえた。


 一体だけ、まだ生きている。


「床へ、手を……」


 清瀬と坂本は手のひらを床へ押し当てた。


 五秒。


 身体に溜まっていた振動が腕を通り、床板へ流れていく。床全体が低く震えた後、胸を圧迫していた重さが消えた。


 清瀬たちが立ち上がるより先に、鋼製扉が外側から引かれた。


 歪んだ蝶番が壁から抜け、扉と作業机がまとめて倒れる。


 夜気の中に、宗一郎が立っていた。


 胸と脇腹が内側から裂け、黒い血が流れている。左腕も不自然な方向へ曲がっていた。


 それでも、倒れない。


 その背後には六体の怪物が倒れていた。


 宗一郎は清瀬たちへ向かわず、最も近くに倒れた小柄な個体へ膝をついた。


「和恵」


 肩を揺らす。


「起きろ。みんなで帰るぞ」


 返事はない。


 宗一郎は次の個体へ視線を移し、その場で動きを止めた。


 喉の奥から、獣とも人間ともつかない声が漏れる。


 家族を失ったことを、理解している。


「お前たちが……」


 宗一郎が立ち上がった。


「俺の家族を壊した」


 地面を蹴る。


 坂本が散弾銃を撃った。


 散弾が宗一郎の顔と肩を捉え、頭を大きく仰け反らせる。普通の個体なら倒れる距離だった。


 宗一郎は二歩下がっただけで踏みとどまり、残った右腕を振り上げる。


 清瀬は左手を向けた。


 ――審炎しんえん


 白金色の炎が宗一郎の脚へ絡みついた。


 毛と皮膚を焼き、再生しかけていた傷を塞がせない。それでも宗一郎は炎を引きずり、清瀬との距離を詰めた。


 清瀬の右腕は使えない。


 審炎を維持する左腕も、音を逃がした直後の痺れで震えている。


 宗一郎の右手が清瀬のコートを掴んだ。


 巨体が回る。


 清瀬の身体は床から浮き、避難小屋の壁へ投げつけられた。


「ぐっ……!」


 背中から叩きつけられ、息が詰まる。負傷した右腕へ激痛が走り、審炎が消えた。


 坂本が散弾銃へ次の弾を送る。


 宗一郎は銃口を右手で掴み、坂本ごと持ち上げた。


 残った片腕を横へ振る。


 坂本の身体が散弾銃ごと投げ飛ばされ、作業机を越えて床へ転がった。


「痛っ……」


 二人とも意識はある。


 だが、すぐには立ち上がれない。


 壁へ清瀬が激突した衝撃で、亀裂の入っていた板が割れた。飛んだ木片の一つが、座り込んだシーナの目隠しの留め具を弾く。


 黒い布が片側だけ外れ、右目が露わになった。


 清瀬の位置からは、垂れた髪に遮られて瞳までは見えない。坂本も倒れた作業机の陰にいる。


 シーナは神威解放の反動で、両腕にほとんど力が入らずにいる。


 宗一郎は彼女の前で足を止めた。


 先ほどまでの怒りが、ゆっくりと顔から消えていく。


 残った右手を、シーナへ差し伸べた。


「最初に会った時、お前が俺たち家族を見る様子は、捜査をしているようには見えなかった」


 宗一郎は一歩ずつ近づく。


 足を踏み出すたび、胸や腹の奥から鈍い破裂音が鳴った。裂けた口元から、黒い血が筋となって流れる。


 宗一郎の身体は、残った音によって内側から崩れ続けていた。


 動けば、それだけ破裂が広がる。


 清瀬と坂本を投げ飛ばしたことで、先ほどのように全力で襲いかかれる状態ではなくなっていた。それでも宗一郎は、シーナへ手を伸ばすためだけに足を進めた。


「羨ましかったんだろう、俺たち家族が」


 シーナは答えない。


「俺には分かるんだ。家族を求める、お前の気持ちが」


「俺も小さい頃、両親に捨てられた。家族を失って、一人になった」


「他人の家族が、羨ましくて仕方がなかった」


「だから、俺たち家族を見つめるお前の姿で分かった。お前も一人ぼっちなんだと」


 伸ばされた手が、シーナの前まで来る。


「家族を多く失ってしまった。だが、俺たちはやり直せる。晴人もいる。三人で一から家族を作り直そう」


「お前が、家族を語るな」


 清瀬が壁へ手をつき、立ち上がった。


「あれは家族じゃない。お前の命令だけで動く、獣の群れだ」


「妻も、子供も、孫も、無理やり怪物へ変えた。人をさらわせ、襲わせた。そんなお前が家族を語るな」


「俺は家族のためにやった」


 宗一郎の声へ、再び怒りが混じる。


「病気にも、老いにも奪われないようにした。お前たちが来なければ、家族はずっと幸せだった」


「何が家族の幸せだ」


 清瀬は痛む右腕を押さえ、宗一郎を睨んだ。


「全部、お前一人の幸せだろ」


「黙れ!」


 宗一郎が清瀬へ振り向こうとする。


 その時、シーナが震える右腕をゆっくりと伸ばした。


 宗一郎の動きが止まる。


 シーナは差し伸べられた手を見つめた。


「宗一郎さん。あなたの言うとおり、私は家族というものが羨ましいです」


「物心ついた時から孤児院で過ごし、両親の顔も知りません」


「孤児院から引き取ってくださり、いろいろなことを教えてくれた方には出会いました。ですが、あの方との関係は、家族というより先生と生徒に近いものでした」


「だから私も、家族に憧れています」


「分かってくれたか、シーナ」


 宗一郎が、差し伸べた手を僅かに近づける。


「家族になろう」


 シーナはその手を見つめ、静かに首を横へ振った。


「……ごめんなさい。家族に憧れているからこそ、あなたの家族にはなれません」


 宗一郎の表情から、期待が消えていく。


 シーナの親指と中指が、音を鳴らす直前の形で重なった。


「私のアーティファクト、響祷の腕輪オラトリオは、魔力を帯びた音を相手の身体へ蓄え、内側から破壊することができます」


 先ほどまで震えていたシーナの声は、もう揺れていなかった。


「今のあなたを殺せるだけの音が、まだ体内に残っています」


 片側の目隠しから覗く右目に、薄い十字形の模様が浮かんでいた。


 宗一郎は、その瞳を見つめた。


 脅しでも、虚勢でもないと悟ったらしい。


 逃げようとしても、シーナへ襲いかかろうとしても、動いた分だけ体内の崩壊が進む。攻撃へ転じるより先に、目の前の指が鳴る。


 差し伸べていた手が、ゆっくりと下がる。


「そうか」


 寂しそうに、宗一郎が言った。


「それでも、家族にはなってくれないか」


「ごめんなさい。私には、まだやるべきことがあります」


 短い沈黙が落ちた。


「最後に、一つだけ頼みがある」


 宗一郎は倒れた家族を振り返った。


「家族のそばで、眠らせてくれ」


 シーナは指を構えたまま、小さく頷いた。


「分かりました」


 宗一郎は背を向け、家族のもとへ歩いた。


 一歩ごとに身体の内側で小さな破裂が重なり、黒い血が足元へ落ちる。


 シーナは指を構えたまま、宗一郎が残った力を家族のもとへ戻るために使うのを待った。


 和恵の隣へ膝をつき、その肩へ右手を置く。


「もういい」


 宗一郎が、背を向けたまま言った。


 シーナが指を鳴らした。


 ――内響破ないきょうは


 宗一郎の胸の奥で、重い破裂音が鳴った。


 口から黒い血を吐き、家族へ覆いかぶさるように倒れる。


 そのまま、動かなくなった。


 清瀬は宗一郎へ近づき、呼吸と脈を確認した。


 ない。


 シーナは震える左手で目隠しを戻した。


 外には七体の怪物が倒れている。


 宗一郎のほか、身につけている服や体格から、和恵、晴久、美緒、沙耶と思われる個体がいる。


 残る二体は、行方不明者から生まれた個体だろう。


 誰も動かない。


 その場で、シーナが膝をついた。


「シーナ」


 呼びかけた直後、シーナが地面へ吐いた。


 背中が大きく震えている。


「大丈夫です。これは、想定された反動でございますので……」


「大丈夫な人間は吐かないよ」


 坂本が水筒を差し出す。


「私の身体と、あのアーティファクトは少し相性が悪いだけです」


「なぜそんな物を使っている」


「使える力があるのに使わないのは、もったいないではありませんか」


 清瀬は何も言わなかった。


 それは使命感なのか。


 誰かにそう思い込まされているだけなのか。


 今の清瀬には判断できない。


 坂本はシーナへ肩を貸し、三人は避難小屋へ戻った。


 小屋へ入った後、坂本は胸元の硬貨へ触れた。


「お前が、あの避難所を教えたのか」


 答えはない。


 ただ、掌の中で硬貨が一度だけ小さく震えた。


 坂本は硬貨を見つめたが、それ以上問いかけることはしなかった。


 避難所の周辺は圏外だった。


 三人は夜明けまで小屋に残り、交代で警戒することにした。


 外に倒れた七体。


 罠の場所で倒した三体。


 討伐した怪物は、これで十体。


 清瀬は久保田家の顔を思い浮かべる。


 宗一郎、和恵、晴久、美緒、沙耶。


 五人は外にいる。


「待ってください。数が合いません」


 坂本が指を折りながら言った。


「倒した十体のうち、五体が久保田家の人たちなら、行方不明者に当てはまるのは残り五体だけです。でも、行方不明者は十人います」


「全員が怪物へ変えられたとは限りません」


 シーナが答える。


「生きて捕らえられているか、すでに殺されている可能性もあります」


「だが、残る五人も怪物になっている可能性は捨てられない」


 清瀬は外に倒れた怪物を見た。


 戦いが終わったとは、まだ断定できない。


「晴人がいない」


 久保田家の子供だけが、七体の中に含まれていなかった。


「最悪の場合、まだ六体いるということですか」


 坂本の声が、僅かに強張った。


3-10 残された子供


 七月九日の朝。


 森へ薄い光が差し始めると、三人は避難小屋を出た。


 シーナの顔色は悪いままだったが、自分で歩けるまでには回復している。清瀬の右腕も強く痛んでいたが、出血は止まっていた。


 夜明けまで、新たな襲撃はなかった。


 遠吠えも聞こえず、小屋の周囲にも近づいてきた足跡は増えていない。


「最悪、あと六体いるという話でしたけど……本当は、もういないんじゃないですか」


 坂本が静かな森を見回した。


「残る行方不明者が、最初から怪物へ変えられていなかった可能性はあります」


 シーナが答える。


「ただ、宗一郎を失って群れの統率が崩れ、残った個体が森の外へ逃げた可能性も否定できません」


「いないのか、逃げたのか。どちらにしても確かめる必要がある」


 清瀬は牧場の方角へ目を向けた。


「一度、地区へ戻りましょう」


 坂本が言った。


「清瀬さんは病院、シーナは休養です。俺も、できればしばらく森を見たくありません」


「その前に、久保田牧場を確認する」


「本気ですか?」


「群れを指揮していたのは宗一郎だ。ほかの家族四人も混じっていた。あの牧場が群れの中心だった可能性が高い。それに、晴人だけがいない」


「だからこそ、応援を待つべきです」


 シーナも反対した。


「そのために通信が戻る場所まで行く。牧場へ踏み込むとは言っていない」


「清瀬さんがそう言う時は、大体あとで踏み込みますよね」


 坂本の指摘に、清瀬は答えなかった。


 久保田牧場の南東まで戻ると、携帯端末の圏外表示が消えた。


 シーナがすぐに赤羽へ連絡する。


『おはようございます。三人とも生きていますか?』


 端末から、場違いに明るい声が聞こえた。


「赤羽さん、緊急の報告です。完全変異者十体を討伐しました。清瀬さんが右腕を負傷。未確認の行方不明者が五人、久保田家の子供一人も所在不明です。最大六体の怪物が残っている可能性があります」


 短い沈黙が落ちた。


『十体ですか。初めて組んだ三人にしては、随分と大きな群れを引きましたね』


「感想は後にしてください。応援をお願いします」


『すぐに手配します。最短で二時間十五分。三人は牧場へ入らず、監視を続けてください』


「了解いたしました」


『シーナ』


「何ですか」


『勝手に格好をつけて、もう一度神威解放を使わないように』


「どうして使ったと分かったのですか!」


『声が弱いので』


 通話が切れた。


 シーナは不満そうに端末を見つめる。


「赤羽さんはいつも、私を子供扱いします」


「妥当だろ」


「清瀬さんまで!」


 三人は前日と同じ農機具小屋付近から、久保田牧場を監視した。


 母屋に動きはない。


 牛と羊の鳴き声だけが、朝の牧場へ響いている。


「シーナ」


「何ですか」


「昨夜使った、神威解放というのは何だ」


 シーナは両手首の腕輪へ触れた。


「アーティファクトに宿る力を、限界まで解放する技です。私の場合は、響祷の腕輪オラトリオに宿るサンダルフォンの力を解放しました」


「解放するとどうなる?」


「通常は、私が相手や物へ触れて衝撃を与えなければ、音を蓄積できません。神威解放中は、サンダルフォンの演奏が届く範囲なら、触れずに音を蓄積できます」


「耳を塞げと言ったのは、蓄積を抑えるためか」


「いいえ。単純に、かなり大きな音がしますので、うるさいと思いまして」


 清瀬は眉を寄せた。


「耳を塞いでも、音の蓄積は防げません。音だけでなく、振動そのものが身体へ届きますので」


「俺たちにも蓄積されていたのか?」


 坂本が自分の身体を確かめるように見下ろした。


「はい。昨夜、床へ手をつけていただいたのは、すぐに音を逃がすためです」


「床や壁に手をつければ、解除できるのか」


「五秒ほど必要ですが、できます。それと、昨夜ほど音を蓄積した状態で解除しなければ、徐々にですが、身体の内側が破裂します」


「それを先に説明してくださいよ!」


 坂本が声を上げた。


「申し訳ありません。昨夜は、そこまで説明できる状態ではありませんでしたので」


 清瀬は前夜、床へ手を押し当てた意味をようやく理解した。


 一時間ほど経った頃、農道の先に人影が現れた。


 ふくらはぎまで届く白いロングコートを着た、背の高い男だった。


 ゆったりとした白いパンツに、黒い靴。銀色の髪は地肌が透けるほど短く刈り込まれている。


 顔は俯いていて見えない。


 迷う様子もなく敷地へ入り、正面玄関から母屋へ入った。


「あの人、久保田家の知り合いですかね」


「分からない」


 清瀬は時間を確認した。


 十分。


 二十分。


 三十分が過ぎても、人物は出てこない。


 裏口から出た可能性もあるが、牧場の北西側は監視地点から見えなかった。


「確認に行く」


「赤羽さんは待てと言いました」


 シーナが止める。


「家へ入った人間が襲われている可能性がある」


「ですが、何も確認せず入るのは危険です」


 前夜の失敗を繰り返さないための言葉だった。


「中を調べられるのか」


「正確ではありませんが、反響を使えば生命反応を探せます」


 三人は母屋の死角へ回り込み、東側の壁まで近づいた。


 シーナが手のひらを壁へ当てる。


 腕輪から微かな振動が流れた。


 壁と床を伝い、返ってきた音へ意識を集中する。


「足音はありません」


「呼吸は」


「一人分。小さいです。鼓動も、子供くらい」


「先に入った奴は?」


「確認できません。少なくとも、この建物の中にはいないと思います」


 清瀬は玄関へ回った。


 鍵は掛かっていない。


 拳銃を左手に持ち、ゆっくり扉を開ける。


「警察だ。誰かいるか」


 返事はない。


 三人は廊下を進んだ。


 居間の隅に、晴人が座っていた。


 人間の姿で、膝を抱えている。


「お父さんたちが、帰ってこないんです」


 小さな声だった。


 坂本は反射的に晴人へ駆け寄ろうとした。


 清瀬が左手で肩を掴み、引き止める。


「近づくな」


「でも、子供ですよ」


「昨晩のことを忘れたのか。久保田家はもう……」


 坂本の身体が強張った。


 晴人はゆっくりと顔を上げた。


「おじさんたちも、家族になってくれる?」


 口元から、白い牙が覗く。


 小さな身体が内側から膨れ、服が裂けた。


 晴人だったものが床を蹴り、三人へ飛びかかった。


          *


## 3-11 群れを作った弾丸


 母屋に残っていた最後の一体が動かなくなった後も、誰もすぐには口を開かなかった。


 坂本は居間へ背を向けたまま、散弾銃を強く握っている。


 シーナは黙って立っていた。


 完全変異者は人間ではない。


 そう言い切っていた彼女も、その姿が子供だったことまで何も感じないわけではないらしい。


 清瀬は右腕の痛みを押さえ、母屋の捜索を続けた。


 先ほど入った人物が消えている。


 その理由を確かめなければならない。


 台所に、六人分の食事をした形跡はなかった。


 冷蔵庫には大量の生肉が詰め込まれ、通常の食材はほとんど手つかずで残っている。


 食卓の周りには、六脚の椅子が並んでいた。


 食卓の上には、昨夜、晴人が家族へ見せていたノートが開いたまま残されている。


 シーナは一度だけ足を止めた。


「どうした」


「何でもありません」


 そう答えて、シーナはノートから目を離した。


 北側の書斎では、宗一郎の机の右下にある引き出しが開けられていた。


 鍵は壊されていない。


 中は空だった。


「清瀬さん、ここを見てください」


 坂本の声が、作業用土間から聞こえた。


 大型の作業台が、床の擦れた跡から少しずれている。


 三人で動かすと、ゴム製の床敷きの下から金属製の蓋が現れた。


 蓋を開ける。


 冷えた空気と、生肉が傷んだような臭いが上がってきた。


 狭いコンクリート階段が、地下へ続いている。


「私が先に行きます」


 シーナが言った。


「反響では、下に生命反応はありませんでした」


「油断するな」


「はい」


 地下室は、元々倉庫として使われていたらしい。


 古い農具と保存容器の奥に、被害者の鞄、財布、携帯端末、衣服がまとめて置かれていた。


 隣の区画には、農業用の鉄柵を組み替えた檻が二つある。


 檻の中の椅子には、三十代ほどの女が固定されていた。


 すでに息はない。


 胸には、細い刃物で深く貫かれた傷が一つ残っている。完全変異に耐えられず死亡したのではなく、何者かに殺されたことは明らかだった。


 変異途中だったのだろう。指先の爪は黒く変色し、歯も僅かに尖っていたが、人間の姿を保っている。


 片方の掌には、何かを強く握っていた痕がある。


 手首には赤黒い紐の擦れた跡。手の周囲には、剥がされたばかりの粘着テープが残っていた。


「アーティファクトを持たされていた」


 清瀬が言う。


「はい。おそらく、次の完全変異者にするために」


 シーナは床へ落ちたテープを見た。


「ですが、ありません」


 低温庫には、四人分と思われる遺体と人骨が残されていた。


 森下瑞穂の弟が、その中にいないことを願うべきなのか。


 完全変異者として自分たちが倒した中にいる可能性を考えれば、どちらがましなのかも分からなかった。


 低温庫の奥にある鋼製扉が開いている。


 その先には、土と古いコンクリートで作られた狭い搬入路が続いていた。


 斜面の上から、朝の光が僅かに差している。


「先に入った人物は、ここから逃げたんですね」


 坂本が言った。


「女を殺し、持たされていた物を回収した」


 清瀬はテープの跡を見る。


「俺たちが戻る時間を知っていたような動きだ」


「偶然、ではありません」


 シーナも否定した。


 三人が地上へ戻った頃、遠くから車の音が聞こえ始めていた。


 赤羽たちの応援が近づいている。


 シーナは端末を取り出し、赤羽へ報告した。


「完全変異者は、合計十一体。すべて討伐しました。地下室で被害者四人の遺体と、変異途中で殺害された女性一人を発見。原因と思われるアーティファクトはありません」


『三人とも帰れそうですか?』


 赤羽は、最初にそれを確認した。


「はい。清瀬さんは早急な治療が必要です」


『十一体を相手に三人とも帰ってきたなら、初めて組んだ班としては上出来です』


「ですが、アーティファクトを回収できませんでした」


『回収できなかったことを責めるつもりはありません』


 電話の向こうで、赤羽の声から僅かに軽さが消えた。


『持っていった誰かがいることが問題なんです。その人物は、牧場の構造とあなたたちの動きを知っていた』


「今回の事件を起こした人物でしょうか」


『可能性はあります。たぶん、この事件は久保田家から始まったわけじゃない』


 通話が終わる。


 清瀬は牧場の北に広がる森を見た。


 宗一郎の言った「助け合う」には、群れの食料になることまで含まれていた。


 久保田家は、行方不明者のうち五人を怪物へ変え、四人を食い殺した加害者だった。


 同時に、最初は誰かにアーティファクトを持たされた被害者でもある。


「清瀬さん」


 坂本が、森を見たまま声を掛けた。


「宗一郎は、本当にただの怪物だったんですかね」


 清瀬は坂本へ目を向けた。


「何が言いたい」


「あの人がしたことは許されません。でも、怪物になった後も、家族にこだわっていました。最後まで家族と一緒にいようとしていた」


 坂本は言葉を探すように、一度口を閉じた。


「それが正しかったとは思いません。ただ、全部が怪物の本能だったのかなって」


「分からない」


 清瀬は森へ視線を戻した。


「あれが宗一郎自身の思いだったのか、怪物が人間だった頃の記憶を使っていただけなのか。今の俺たちには判断できない」


「そうですか」


「ただ、宗一郎が人をさらい、家族まで怪物へ変えた事実は消えない。最初に誰かからアーティファクトを持たされた被害者だったこともだ」


 加害者だったから、最初から怪物だったことにはできない。


 被害者だったから、犯したことをなかったことにもできない。


「どちらかだけで片づけるつもりはない」


 坂本はしばらく黙った後、小さく頷いた。


 完全変異した後には、もう救えない。


 その言葉を、清瀬はまだ受け入れきれなかった。


 だが、迷っている間にも被害は増える。


 何を守り、どこで止めるのか。


 力を持つ前より、その判断は重くなっていた。


 事件は終わった。


 十人の失踪者も、久保田家も、もう戻らない。


 それでも、久保田家を怪物へ変えた者と、群れを作ったアーティファクトは残っている。


          *


 黒枝州有林を縫う林業用道路を、一人の男が歩いていた。


 身長は百八十センチ後半。立ち襟の白いロングコートは膝下まで届き、身幅と袖には余裕がある。ゆったりとした白いパンツの裾から、黒い靴が覗いていた。


 銀髪は十ミリほどに刈り込まれ、右のこめかみには二本の剃り込みが入っている。


 男は機嫌よく鼻歌を口ずさんでいた。


 手には、赤黒い紐の付いた弾丸型の首飾りがある。黒ずんだ真鍮の表面には、複数の牙が円を作る刻印が刻まれていた。


 背後からエンジン音が近づいてくる。


 男が振り返ると、一台のパトカーが速度を落とし、すぐ隣で停まった。


 運転席の窓が開く。


 乗っていたのは、楢伏駐在所の長谷部修一だった。


「アーティファクトは回収できましたか?」


「おかげさまで、できましたよ」


 男は群牙の魔弾パック・バレットを持ち上げてみせた。


「試験体は十一体まで増殖。群れの形成と指揮行動も確認できました」


「宗一郎は、どうでした?」


「いい線までいっていました。家族への執着が、人間だった頃の記憶を残したまま群れを束ねる芯になっていた」


 男は手の中の弾丸を見た。


「もう少し魂を食わせて、こいつをもう一度埋め込んでいれば、アスワングの王種になれたかもしれません」


「それは惜しいことをしましたね」


「収穫はありました。次は、もう少しうまくやれますよ」


 男は首飾りをポケットへ収め、助手席の扉へ手を掛けた。


「その顔は、いつまで使うんですか?」


「もう少しですかね」


 長谷部の顔で、男は穏やかに笑った。


「それより、ユダ」


「何です?」


「あの三人を、なぜ殺さなかったんですか?」


「私の仕事は、アーティファクトの回収でしたので。あの三人の処分までは頼まれていません」


「姿を見られています」


「顔までは見られていませんよ。それに、頼まれてもいない仕事を増やすのは好きじゃないんです」


「相変わらずですね」


 ユダは肩をすくめて助手席へ乗り込んだ。


 パトカーは二人を乗せ、何事もなかったように森を離れていく。


 車内から、ユダの鼻歌だけが微かに聞こえていた。




最後まで読んでいただきありがとうございます。

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