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灰月事件簿  作者: 謎の雑種


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1/4

第1話 臓器欠損連続殺人事件

Aiを使ってます。

# 第1話 臓器欠損連続殺人事件


## 1-1


 午前五時十二分。


 灰月市の空は、まだ夜の色を捨てきれていなかった。


 国立灰月大学の北門から外れた、使われなくなった資材搬入口に赤色灯の光が沈んでいる。


 学生街の朝は早い。駅へ向かう学生も、講義前に走る運動部員も、夜勤明けの店員もいる。だが、この搬入口だけは別だった。表通りから一本奥へ入り、さらに古い雑居ビルの脇を抜けた先。錆びたシャッター、剥がれた注意看板、使われていない荷下ろし用の坂道。


 人が偶然入り込む場所ではない。


 清瀬蓮司は、現場保存用のテープの前で足を止めた。


 吐いた息が、かすかに白い。


 朝方にしても、妙に冷えていた。


「三件目か」


 低くつぶやくと、隣にいた若い刑事が手帳を開いた。


「はい。一件目が白瀬真帆。二件目が三枝梨奈。今回が水野亜衣、二十歳。国立灰月大学の二年です」


 若い刑事の声は、いつもより硬い。


 無理もなかった。ブルーシートの下にあるものを一度見れば、誰でもそうなる。


 清瀬はテープをくぐり、鑑識の邪魔にならない位置でしゃがんだ。


 若い女だった。


 薄手のコートは胸元から腹にかけて大きく裂けている。刃物で切り開いたというより、内側にあるものを無理やり探られたような損壊だった。血は乾き始めているが、乾き切ってはいない。


 発見から、それほど時間は経っていない。


 清瀬は口元を押さえなかった。


 吐き気がないわけではない。ただ、顔に出している余裕がなかった。


「財布は」


「あります。スマホも、カード類もそのままです」


「性的暴行の痕跡は」


「現時点では確認されていません。詳しくは司法解剖待ちですが」


 刑事はそこで言葉を切った。


 言わなくても分かる。


 目的は金でも、性でもない。


 腹を開いて、中身を奪うこと。


「一件目、二件目と同じだな」


「はい。ただ、今回は大学に近すぎます。これまでより範囲が北に寄っています」


 清瀬は遺体から視線を外し、搬入口の入口を見た。


 表通りからここまでは、ゆるい坂になっている。そこに、靴底をこすったような跡が残っていた。血の筋はほとんどない。つまり、大きな損壊はこの奥で起きた可能性が高い。


 犯人は、被害者をここへ誘い込んだ。


 あるいは、途中まで連れてきてから奥へ引きずり込んだ。


 どちらにしても、人目を避けている。


「発見者は」


「新聞配達員です。午前四時四十七分に通報しています。この先の建物裏を抜けると配達順路を短縮できるらしく、普段から朝だけ通っていたそうです」


「何か見たか」


「人影は見ていません。ただ、搬入口の奥だけ妙に寒かった、と」


 清瀬は眉を動かした。


「寒かった?」


「本人は、朝方だからだと思ったそうです。ただ、表通りに戻ったら普通だったとも言っています」


 清瀬は自分の白い息を見た。


 朝方だから寒い。それだけなら説明はつく。だが、ここだけ空気が違うという証言は引っかかる。


「悲鳴は」


「近隣への聞き込みでは、悲鳴らしいものを聞いた証言はありません」


「この傷でか」


「搬入口は表通りから外れています。朝方は配送車も通りますし、古い換気扇の音もあります。聞こえなかった可能性はあります」


「他には」


「悲鳴ではありませんが、金属を引きずるような音を聞いた住人が一人います。時間は午前四時前後。ただ、トラックの荷下ろし音だと思ったそうです」


 清瀬は黙った。


 悲鳴の証言はない。


 寒さの証言はある。


 金属を引きずるような音もある。


 それだけで事件は解けない。だが、普通の殺人事件として片付けるには、どれも少しずつ形が歪んでいる。


「ここで襲ったんじゃないな」


 若い刑事が顔を上げる。


「運ばれた、ということですか」


「少なくとも、表通りで襲ってそのまま放置したわけじゃない。犯人は見られることを避けてる。衝動的に襲っただけなら、こんな奥まで連れ込む必要がない」


 清瀬は遺体の手元を見た。


 爪が割れている。指先にはアスファルトを引っかいたような細かな傷があった。抵抗はしている。意識もあった可能性が高い。


 だが、助けを呼べていない。


 声を塞がれたのか。


 それとも、叫ぶ前に動けなくされたのか。


「凶器は」


 若い刑事は少しだけ困った顔をした。


「鑑識は、大型の刃物か、獣害の偽装を疑っています。ただ」


「ただ?」


「傷の縁が、刃物にしては荒すぎるそうです。大型犬や野生動物の噛み跡とも合わない。人間の手で裂いたような部分もありますが、力の入り方が異常だと」


「人間の手で腹を裂けるか」


「普通は無理です」


「普通はな」


 清瀬は立ち上がった。


 搬入口の奥には、朝の気配が入ってこない。ビルの隙間に溜まった暗さが、赤色灯に照らされて濡れたように揺れている。


 違和感は、臭いだけではなかった。


 遺体の周囲のアスファルトだけが、うっすら白く曇っている。霜に似ていた。だが、霜が降りるほどの気温ではない。排水溝の縁に残った水滴も、妙に冷えて濁って見える。


「今朝の気温は」


「十二度前後です」


「凍る温度じゃない」


 返事はなかった。


 清瀬は足元に視線を落とした。


 血ではない。


 アスファルトの小さな亀裂に、白灰色の粉のようなものが入り込んでいる。霜の白さに紛れているのに、それだけが妙に乾いて見えた。


「これ、採取したか」


 近くにいた鑑識が顔を上げる。


「どれです?」


「排水溝の手前。白っぽい粉だ」


 鑑識がライトを当てる。光を受けた粉は、一瞬だけざらついた骨片のように見えた。


「塗料か、建材の粉ですかね。採っておきます」


「一件目にも似たようなものがなかったか」


 若い刑事が手帳をめくる。


「一件目の現場写真に、白っぽい汚れが写っていたはずです。ただ、鑑定では古いカビか建材の粉の可能性が高いと」


「二件目は」


「雨で流れています」


 清瀬は舌打ちしかけて、飲み込んだ。


 何かがつながっている。


 だが、つながり方が分からない。


 若い女性。深夜から明け方。内臓の損壊。刃物ではない傷。人目を避けた搬入口。悲鳴の証言なし。金属を引きずるような音。季節外れの冷気。白灰色の粉。そして今回は、国立灰月大学。


 普通の連続殺人として処理するには、足りないものが多すぎる。


 逆に、余計なものも多すぎる。


「清瀬さん」


 若い刑事の声が、わずかに低くなった。


 搬入口の入口に、黒い車が二台止まった。


 ナンバーは一般車両。だが降りてきた人間たちの動きは、ただの刑事ではない。現場の警官に身分証を見せ、立入禁止のテープを当然のように越えてくる。


 清瀬はその集団を見て、奥歯を噛んだ。


 まただ。


 黒いコートの男が一人、先頭に立っている。年齢は清瀬より若く見えた。軽薄そうな笑みを浮かべている。だが、その笑みの奥に何があるのかは読めなかった。


「お疲れさまです」


 男は場違いなくらい明るい声で言った。


「ここから先は、特殊凶悪事件捜査課が引き継ぎます」


 若い刑事が困惑して清瀬を見た。


 清瀬は男を睨み返す。


「まだ検証中だ」


「はい。なので、検証ごと引き継ぎます」


「ふざけるな。こっちは三人殺されてる」


「知ってます。だから来たんです」


 男は笑みを崩さなかった。


 清瀬の胸の奥で、冷えた怒りが沈んでいく。


 特殊凶悪事件捜査課。


 異常な事件の現場に、いつも遅れて現れ、すべてを持っていく連中。


 清瀬は、血の臭いと冷気が残る搬入口で、三人目の被害者から視線を外さなかった。


 そして短く吐き捨てた。


「……またか」



## 1-2


 清瀬が吐き捨てると、黒いコートの男は小さく肩をすくめた。


「その反応、傷つきますね。俺たちも仕事なんで、そこは勘弁してくださいよ」


「仕事なら、もう少しまともな入り方をしろ」


「努力はします。できる範囲で」


 男は悪びれもせず笑った。


 冗談めかした口調だった。


 だが、どこまでが冗談なのか分からない。


 改めて見ても、現場に立つには派手すぎる男だった。黒いコート。黒い手袋。首元には、赤い裏地がちらついている。だが、動きには隙がない。清瀬より若く見える顔に、軽い笑みを貼りつけている。その笑みの奥に何があるのかは、清瀬にも読めなかった。


 男の後ろから、同じように黒い外套を着た数人が現場に入ってくる。


 一人は警官に書類を見せ、一人は鑑識のそばへ向かい、一人は搬入口の周囲を黙って確認していた。


 手際がよすぎる。


 現場に来る前から、自分たちがここを引き継ぐと決まっていたような動きだった。


「特殊凶悪事件捜査課、赤羽透真です」


 黒いコートの男が、胸元から身分証を取り出した。


 清瀬はそれを一瞥する。


 特殊凶悪事件捜査課。


 その名前は、ここ数年で何度も聞かされてきた。


 猟奇性が高い事件。説明のつかない事件。上が妙に口を閉ざす事件。


 そういう現場に限って、この部署が現れる。


 そして、捜査資料も、証拠品も、遺体も、目撃者も、当然のように持っていく。


「清瀬蓮司。灰月市警、捜査一課」


「存じてます。いつも現場に早い方ですよね」


「こっちは仕事で来てる」


「俺もです。仲良くしましょうよ」


 赤羽はにこにこと笑う。


 その笑顔が、余計に癇に障った。


 清瀬は搬入口の奥を顎で示した。


「被害者は三人目だ。まだ現場検証は終わっていない。第一発見者の証言も、周辺の聞き込みも途中だ。引き継ぐにしても、最低限こちらの報告を受けてからにしろ」


「それはもちろん。報告書はあとで全部見ます」


「あとで?」


「はい。こちらに回してもらうことになっているので」


 赤羽の声は軽い。


 だが、言っていることはまったく軽くなかった。


 若い刑事が、清瀬の横で口を挟む。


「あの、まだ証拠品の採取が終わっていません。現場保存の都合もありますし、急に引き継ぎと言われても」


「助かります。では、そのまま続けてください」


 赤羽は若い刑事へ笑いかけた。


「ただし、ここから先の指揮はこちらで取ります。採取物の管理番号も、移送先も、こちらの指定に合わせてください」


「そんな勝手な」


「勝手ではないですよ」


 赤羽が指を鳴らすように軽く手を上げると、後方にいた女の捜査員が一枚の書類を差し出した。


 清瀬は受け取らない。


 赤羽は困ったように眉を下げ、代わりに若い刑事へ差し出した。


 若い刑事が戸惑いながら受け取り、目を通す。すぐに表情が固まった。


「……本部命令、です」


 清瀬は舌打ちした。


「読まなくても分かる」


「でしたら話が早いですね」


 赤羽は書類を戻すように手を伸ばした。


 若い刑事が書類を返す。


 その紙は、すぐに黒いコートの内側へ消えた。


 現場の警官たちが、気まずそうに視線を逸らしている。鑑識も手を止めていた。誰も清瀬を見ない。


 命令が通っている。


 つまり、ここで清瀬がどれだけ声を荒らげても、現場の人間は動けない。


「清瀬さん」


 若い刑事が、小さな声で言った。


 止めようとしている。


 分かっている。


 だが、分かっていても引けない時がある。


「三人殺されてる」


 清瀬は赤羽を見据えた。


「白瀬真帆、三枝梨奈、水野亜衣。全員、深夜から明け方にかけて襲われている。内臓が損壊されていて、凶器は不明。現場は人目につきにくい場所ばかりだ。今回の現場では季節外れの冷気まで出ている。普通の殺しじゃない」


「ええ。普通じゃない」


 赤羽はあっさり認めた。


 清瀬は一瞬、言葉を失った。


 否定されると思っていた。


 いつものように、こちらでは判断できない、上の方針だ、捜査上の都合だと、意味のない言葉で押し切られると思っていた。


 だが、赤羽は違った。


 分かっている顔だった。


 この現場に残る異常さを、最初から知っている顔だった。


「なら、どうして俺たちを外す」


「危ないからです」


「刑事は危ない現場に行く仕事だ」


「そういう意味じゃないんですよ」


 赤羽は笑ったまま、搬入口の奥へ視線を向けた。


 青いシートの下に、三人目の被害者がいる。


 その周囲だけ、空気が一段低い。


 赤羽はそこで、ほんのわずかに笑みを薄くした。


「この事件、追い方を間違えると増えます」


「何が」


 赤羽は笑ったまま、人差し指を軽く持ち上げた。


 銃口でも向けるように、その指先が清瀬の胸元で止まる。


「被害者が」


 言葉は現場全体に向けたもののようでいて、指先だけは清瀬を選んでいた。


 短い沈黙が落ちた。


 若い刑事が息を呑む。


 赤羽は清瀬へ向き直った。


「なので、ここからは専門の部署に任せてください。清瀬さんたちには通常業務に戻っていただきます」


「通常業務?」


「はい」


「三人目の死体を見た直後に、通常業務に戻れと?」


「戻れますよ。戻るしかないですから」


 赤羽の声は、相変わらず明るい。


 だが、その奥にあるものだけは掴めなかった。


 この男にとって、現場から人を外すことは、机の上の書類を移動させるのと同じなのだろう。


 必要だから動かす。


 邪魔なら退ける。


 そこに感情は挟まない。


「被害者の遺族にはなんて説明する」


「説明は担当部署が行います」


「どうせまともな説明じゃない」


 赤羽は答えなかった。


 それが答えだった。


 清瀬の拳に力が入る。


 殴れば終わる。


 公務執行妨害。処分。停職。下手をすれば懲戒。


 そして、この現場から永久に遠ざけられる。


 それでも一瞬、清瀬は本気で殴ることを考えた。


「清瀬さん」


 若い刑事が、今度ははっきりと声を出した。


 清瀬は目だけで若い刑事を見る。


 青ざめた顔で、首を横に振っていた。


 分かっている。


 ここで暴れても、何も取れない。


 むしろ、こいつらに都合のいい理由を与えるだけだ。


 清瀬は息を吸い、吐いた。


「……資料はこっちにも残せ」


「必要なものは共有します」


「残せと言ってる」


「必要なものは、です」


 赤羽は同じ笑顔で言った。


 清瀬は低く笑った。


「便利な言葉だな」


「よく言われます」


「褒めてない」


「分かってます」


 赤羽は楽しそうに目を細めた。


 その態度が挑発なのか、素なのか、清瀬には判断がつかなかった。


 ただ一つ分かるのは、この男がこちらの怒りを恐れていないということだ。


 清瀬は青いシートへ視線を戻した。


 水野亜衣。


 二十歳。


 国立灰月大学の学生。


 昨日まで生きていた若い女が、今は冷たいシートの下にいる。


 その死を前にして、誰かが勝手に線を引く。


 ここから先は知るな。


 ここから先は見るな。


 ここから先は忘れろ。


 清瀬は、そういう線が昔から嫌いだった。


「行くぞ」


 清瀬は若い刑事に言った。


「え、でも」


「命令だ」


 若い刑事は一瞬だけ赤羽を見たあと、慌てて清瀬の後を追った。


 搬入口を出る直前、赤羽の声が背中に飛んでくる。


「清瀬さん」


 清瀬は振り返らない。


「この事件、あまり深入りしない方がいいですよ」


 足が止まった。


 若い刑事が、不安そうに清瀬を見る。


 清瀬はゆっくり振り返った。


「脅しか」


「忠告です」


 赤羽は笑っていた。


 明るく、気さくで、どこか人懐こい笑顔。


 だが、その笑みが本心なのか、警告なのか、清瀬には最後まで読めなかった。


「たまにいるんです。自分だけは大丈夫だと思って、線の向こう側を覗く人」


「覗かれて困るものでもあるのか」


「ありますよ。たくさん」


 赤羽はあっけらかんと言った。


「でも、見たら戻れなくなるものもあります」


 冷たい風が、搬入口の奥から流れてきた。


 血の臭いと、雨に濡れたコンクリートの臭い。


 その中に、古い冷蔵庫を開けた時のような、乾いた冷気が混じっている。


 清瀬は赤羽を睨んだ。


「俺は刑事だ。見たものを、見なかったことにはしない」


「いいですね」


 赤羽は心底楽しそうに笑った。


「そういう人、嫌いじゃないです」


「俺はお前が嫌いだ」


「ひどいなあ。そんなこと言わずに、今度ランチでもどうですか。食後のコーヒーがうまいカフェ、知ってるんで」


 清瀬はそれ以上答えず、現場を出た。


 外は雨が上がりかけていた。


 薄い朝日が雲の向こうから滲んでいる。搬入口の奥に残っていた冷気が嘘のように、外の空気は湿って生ぬるい。


 数歩進んだところで、若い刑事が我慢できなくなったように口を開いた。


「清瀬さん、どうするんですか」


「車に戻る」


「いえ、そうじゃなくて」


「戻って、署に戻る」


 若い刑事は明らかにほっとした顔をした。


 清瀬はその顔を横目で見て、何も言わなかった。


 署に戻る。


 それは本当だ。


 だが、戻って終わるとは言っていない。


 清瀬はポケットの中で、手帳の角を指でなぞった。


 そこには、三人の被害者の名前と、現場の位置が書いてある。


 白瀬真帆。


 三枝梨奈。


 水野亜衣。


 国立灰月大学。


 深夜。


 人目のない場所。


 内臓の損壊。


 悲鳴なし。


 冷気。


 金属を引きずる音。


 そして、特殊凶悪事件捜査課。


 清瀬は振り返らずに、黒い車の方を一瞥した。


 赤羽透真は、搬入口の前で部下に何かを指示している。


 その横顔は、もう笑っていなかった。


 まるで、事件の向こう側にいる何かを見ているようだった。


 清瀬は奥歯を噛む。


 やはり、あいつは何かを知っている。


 そして、自分たちにはそれを知らせる気がない。


 だったら、こちらで調べるしかない。


 清瀬は車のドアを開けた。


 若い刑事が助手席に乗り込む。


 エンジンをかける前に、清瀬はもう一度だけ現場を見た。


 青いシートは、黒いコートの集団に囲まれて見えなくなっている。


 水野亜衣の死が、どこか知らない場所へ運ばれていく。


 事件そのものが、誰かの都合のいい形に塗り替えられていく。


 そんな予感がした。


 清瀬はハンドルを握る。


「忘れろ、か」


 小さく呟く。


 若い刑事が聞き返した。


「何か言いました?」


「いや」


 清瀬は車を出した。


 バックミラーの中で、特殊凶悪事件捜査課の黒い車が小さくなっていく。


 その黒さだけが、朝の湿った光の中で妙に浮いて見えた。


 清瀬は視線を前に戻す。


 この事件から手を引け。


 深入りするな。


 見たら戻れない。


 赤羽透真の言葉が、頭の奥で妙に引っかかっている。


 だからこそ、清瀬は決めた。


 この事件だけは、絶対に最後まで追う、と。



## 1-3


 車内に、雨上がりの湿った空気が入り込んでいた。


 ワイパーが一度だけフロントガラスを拭う。薄く残った水滴が左右に払われ、灰月市の朝がぼんやりと広がった。


 通勤前の道路は、まだ空いている。


 信号待ちで止まるたび、助手席の若い刑事が落ち着かない様子で膝の上の手帳を握り直した。


「清瀬さん」


「なんだ」


「本当に、署に戻るんですよね」


「戻ると言った」


「その言い方、戻るだけじゃない時の言い方です」


 清瀬は答えなかった。


 若い刑事は、困ったように息を吐く。


「さっきの人たち、何なんですか」


「特殊凶悪事件捜査課だろ」


「名前は分かります。でも、あんな部署、警察学校でも聞いたことありません。異動の話でも、組織図でも見たことがない。なのに、本部命令は本物でした」


「本物に見えるように作ってあるんだろうな」


「作ってあるって」


「少なくとも、俺たちが逆らえない程度には」


 清瀬は前を見たまま言った。


 若い刑事が押し黙る。


 信号が青に変わった。


 車を出す。濡れた路面をタイヤが踏み、低い音が車内に響いた。


「前にも、ああいうことがあったんですか」


 若い刑事の声は、さっきよりも慎重だった。


「何度かな」


「何度も?」


「全部が同じじゃない。だが、似ている」


 清瀬は片手でハンドルを握り、もう片方の手でポケットの中の手帳に触れた。


 手帳の端は湿っている。


 三件分の現場。被害者の名前。時間帯。白灰色の粉。悲鳴の証言なし。冷気。


 紙に残したものだけが、今の清瀬に残っているものだった。


「説明のつかない事件ほど、急に上が黙る。現場に知らない部署が来る。資料は持っていかれる。報道には、こっちが見た現場とは違う言葉が並ぶ」


「違う言葉って」


「獣害。薬物中毒。事故。精神的な混乱による自傷。何でもいい。納得できる形に押し込められる」


「でも、今回のは連続殺人ですよ」


「だから、犯人を用意するんだろう」


 言ってから、清瀬は自分の声が低くなっていることに気づいた。


 若い刑事がこちらを見る。


「犯人を用意って、まさか」


「仮にだ」


「仮でも、刑事がそんなこと言うのはまずいです」


「分かってる」


「なら」


「だが、あの連中が事件を解決するところを見たことがない」


 若い刑事は言葉を失った。


「事件が終わったことにされるだけだ」


 車内が静かになった。


 エンジン音と、タイヤが水を踏む音だけが続く。


 清瀬はバックミラーを見る。


 黒い車は、もう見えない。


 それでも、背後に何かがいるような感覚だけは消えなかった。


「赤羽透真」


 若い刑事が、名前を確かめるように言った。


「あの人、清瀬さんのことを知ってましたよね」


「らしいな」


「いつも現場に早い方だって」


「皮肉だろ」


「それだけじゃない気がします」


 清瀬は横目で若い刑事を見る。


 若い刑事は視線を落とし、手帳の角を指で撫でていた。


「あの人、こっちをからかってるみたいでした。でも、全部冗談って感じでもなかった。清瀬さんが怒るのを分かっていて、わざと怒らせてるようにも見えました」


「よく見てるじゃないか」


「褒めてます?」


「少しだけな」


 若い刑事は複雑そうな顔をした。


「被害者が増えるって言ってましたよね」


「言ったな」


「あれ、清瀬さんに言ってました」


「指まで差されたからな」


「冗談じゃないですよ」


「分かってる」


「分かってない顔してます」


 清瀬は答えず、交差点を右折した。


 署へ戻る道だ。


 朝の光が、ビルの窓に鈍く反射している。灰月市はもう日常を始めようとしていた。通学する学生、開店準備をする店員、歩道を急ぐ会社員。


 その中で、水野亜衣の死だけが置き去りにされていく。


 あの青いシートの下にあったものは、誰かの娘で、友人で、同級生だった。


 なのに、次に報道される時には、ただの「二十歳女性」になる。


 その次には、事件番号になる。


 最後には、処理済みの書類になる。


 清瀬はそれが嫌だった。


「……一件目の現場、覚えてるか」


「白瀬真帆のですか」


「ああ」


「繁華街裏の解体予定区域にある、旧店舗兼住宅ですよね。若い連中が勝手にたまり場にしていて、そこで白瀬真帆の遺体を見つけた場所です」


「通報した連中か」


「はい。現場保存はもう解除されています。事件前から人の出入りがあった場所なので、足跡も指紋もかなり混ざっていました」


「解除されたから、もう見なくていいとは限らない」


「清瀬さん」


 若い刑事の声が硬くなる。


「行くつもりですか」


「確認するだけだ」


「それを独断捜査って言うんです」


「確認するだけだ」


「同じことを二回言っても、合法にはなりません」


 清瀬は少しだけ口元を歪めた。


 笑ったつもりはなかったが、若い刑事にはそう見えたらしい。


「笑い事じゃないです。特殊凶悪事件捜査課に知られたらどうするんですか」


「報告書を書く前に、見落としがないか確認する。刑事として普通の仕事だ」


「今、現場から外されたばかりです」


「だから一件目に行く」


「そういう問題じゃありません」


 若い刑事は頭を抱えた。


「俺も行きます」


「駄目だ」


「なんでですか」


「お前は署に戻って、三件分の資料を洗い直せ」


「それ、清瀬さんが一人で行くための言い訳ですよね」


「そうだ」


 あまりにもあっさり認めたせいで、若い刑事は一瞬黙った。


 清瀬は車線を変える。


 灰月市警察本部の建物が見えてきた。


「お前まで巻き込む理由がない」


「もう巻き込まれてます」


「まだ戻れる」


 その言葉に、若い刑事が眉を寄せた。


「さっきの赤羽って人みたいなこと言わないでください」


 清瀬は何も言わなかった。


 自分でも、同じ言葉を使ったことに気づいていた。


 見たら戻れなくなる。


 赤羽透真はそう言った。


 腹立たしいことに、その忠告だけは間違っていない気がした。


 だからこそ、若い刑事まで連れていくわけにはいかなかった。


 署の裏口近くに車を寄せる。


「降りろ」


「清瀬さん」


「三件分の被害者の交友関係、大学関係者、通話履歴、目撃証言。全部もう一度見ろ。特に国立灰月大学につながるものがないか確認しろ」


「清瀬さんは」


「コーヒーを買う」


「嘘が雑です」


「なら、雑な嘘に付き合え」


 若い刑事は納得していない顔で、しばらく清瀬を見ていた。


 だが、最後には諦めたようにシートベルトを外す。


「一時間です」


「何が」


「一時間経って戻らなかったら、課長に言います」


「好きにしろ」


「本当に言いますよ」


「好きにしろと言った」


 若い刑事はドアを開け、車から降りた。


 雨上がりの湿った空気が車内に流れ込む。


 ドアを閉める直前、若い刑事が言った。


「清瀬さん」


「まだ何かあるのか」


「死なないでくださいよ」


 軽い言葉にしようとして、失敗した声だった。


 清瀬は少しだけ間を置いてから答える。


「刑事が簡単に死ぬか」


「それ、死亡フラグってやつです」


「仕事しろ」


 若い刑事は苦い顔をして、ドアを閉めた。


 清瀬はすぐに車を出さなかった。


 サイドミラーの中で、若い刑事が署の裏口へ向かうのを確認する。


 その背中が建物の中へ消えてから、清瀬はウインカーを出した。


 署の駐車場には入らない。


 車はそのまま通りへ戻る。


 目的地は、白瀬真帆が見つかった一件目の現場。


 繁華街裏の解体予定区域にある、旧店舗兼住宅。


 無断でたまり場にしていた若者たちが、そこで白瀬真帆を見つけた。


 発見者が複数いたうえ、通報前に逃げた者もいた。現場には事件前からの足跡や指紋も多く、最初から綺麗な現場ではなかった。


 現場保存は解除済み。


 鑑識も、警官も、特殊凶悪事件捜査課もいない。


 だからこそ、何かが残っているかもしれない。


 清瀬はハンドルを握り直した。


 三件目の現場で見た、白灰色の粉。


 一件目の写真に写っていた、似たような汚れ。


 悲鳴が聞こえないほど人目から外れた場所。


 金属を引きずるような音。


 冷気。


 そして、赤羽透真の言葉。


 追い方を間違えると、被害者が増える。


 清瀬は自分の胸元を指された感触を思い出し、無意識に舌打ちした。


「増やさせるかよ」


 低く呟く。


 朝の灰月市を、車が滑るように走っていく。


 表通りを外れ、繁華街の裏手へ入るにつれて、街の音は少しずつ薄くなっていった。


 清瀬はアクセルを踏む。


 一人目の事件現場へ向かって。



## 1-4


 繁華街は、朝になると顔を変える。


 夜の間だけ灯っていた看板は沈黙し、シャッターの下りた店先には、雨に濡れた吸い殻と潰れた空き缶が残っていた。生ごみの臭いと、洗剤の臭いと、まだ抜けきらない酒の臭いが、細い路地の底に沈んでいる。


 清瀬は車を表通りから一本外れたコインパーキングに入れた。


 そこから先は徒歩だ。


 解体予定区域に近づくにつれて、街の音が薄くなっていく。営業中の店はない。古い雑居ビルの壁には、再開発計画の告知と、立入禁止の紙が何枚も貼られている。どれも雨で端がめくれ、文字の一部が滲んでいた。


 白瀬真帆が見つかった旧店舗兼住宅は、その奥にあった。


 一階は、昔は小さな居酒屋だったらしい。


 色褪せた看板は半分外れ、何の店だったのかも読めない。二階部分には住居用の窓があるが、ガラスの一枚は割れていて、内側から板で塞がれている。建物の周囲には簡易フェンスが立っていたが、一部が歪んで、人ひとりが通れるだけの隙間ができていた。


 若者たちが勝手に出入りしていたという話も、これなら頷ける。


 清瀬は周囲を確認した。


 人影はない。


 それでも、気配がまったくないわけではなかった。


 事件現場だった場所には、独特の沈み方がある。人が死んだという事実を建物が覚えているわけではない。だが、一度でも現場を見た刑事は、そこに残る空気の重さを忘れられない。


 清瀬はフェンスの隙間を抜けた。


 玄関代わりの勝手口には、警察の封鎖テープを剥がした跡が残っている。鍵は壊れていた。もともと壊れていたのか、発見者の若者たちが壊したのか、今となっては分からない。


 扉を押すと、湿った木材の臭いが流れ出した。


 中は薄暗い。


 割れた窓から朝の光が斜めに差し込み、床に散らばったガラス片と古いチラシを白く浮かび上がらせている。


 清瀬はハンカチ越しに扉を押さえ、足を踏み入れた。


 一階の店舗部分には、壊れた椅子、空き瓶、コンビニ袋、吸い殻、スプレーの落書きが残っていた。たまり場というより、誰も責任を持たない避難所の成れの果てだ。


 鑑識が一度入った場所だ。


 もう重要なものは残っていない。


 頭では分かっている。


 それでも、清瀬は床を見る。


 古い埃。


 靴跡。


 乾いた泥。


 椅子を引きずったような傷。


 そして、その奥。


 店舗部分と住居部分をつなぐ廊下の入口に、細い擦過痕が残っていた。


 清瀬はしゃがみ込んだ。


 床板に、浅く長い傷が何本も走っている。


 若者が家具を動かした跡にも見える。だが、三件目の現場で聞いた証言が頭に残っていた。


 金属を引きずるような音。


 清瀬は指先で床の傷に触れようとして、やめた。


 代わりに、スマートフォンで写真を撮る。


 フラッシュが短く光った。


 その瞬間、床の隅に白っぽいものが見えた。


 白灰色の粉。


 一件目の現場写真に写っていた汚れと似ている。


 鑑定では古いカビか建材の粉。


 だが、三件目にもあった。


 清瀬はポケットから小さな証拠袋を取り出しかけて、苦く笑った。


 現場から外された刑事が、解除済みの現場で勝手に採取。


 処分理由としては十分すぎる。


 それでも、見なかったことにする気はなかった。


 清瀬が証拠袋を広げようとした時だった。


 奥の住居部分で、床板が小さく鳴った。


 清瀬は動きを止める。


 右手が自然に腰へ動いた。


 拳銃には触れない。


 まだ、その段階ではない。


 だが、いつでも抜ける位置に手を置く。


「誰だ」


 声は建物の奥へ吸い込まれた。


 返事はない。


 清瀬はゆっくり立ち上がる。


 足音を殺し、廊下へ進んだ。


 住居部分は、さらに暗かった。


 台所だった場所には、割れた皿と錆びた流し台が残っている。奥の畳部屋は半分腐り、床が沈んでいた。


 その部屋の中央に、人影があった。


 女だった。


 黒を基調にした、探偵じみたコート。派手な装飾のついたベスト。細身のパンツ。膝下のブーツ。場違いなくらい整った服装なのに、薄暗い建物の中で妙に馴染んでいる。


 紫に赤が混じった長い髪を、横で一つにまとめていた。


 女は清瀬に背を向けてしゃがみ込み、壁際の床を見ていた。


 こちらに気づいていない、わけがない。


 清瀬は一歩踏み込む。


「両手を見えるところに出せ」


 女はようやく振り返った。


 年は二十代前半に見える。整った顔立ち。紫がかった瞳。口元には、場違いなほど薄い笑みがあった。


「あれ」


 女は楽しそうに目を細めた。


「警察はもう帰ったと思ってたんだけど。……いや、刑事さんかな?」


「質問しているのはこっちだ」


「お、当たりか」


 女は清瀬の手元と足元をちらりと見た。


「鑑識にしては手つきが荒いし、制服でもない。現場の中で足を置く場所だけは妙に慎重。そういう人、だいたい刑事さんでしょ」


「質問はまだされてないよ。命令はされたけど」


「両手を出せ」


「怖い怖い」


 女は素直に両手を上げた。


 右手には黒い手袋。左手の指には、古びた指輪が光っている。


 武器は見えない。


 だが、清瀬は警戒を解かなかった。


「名前は」


「初対面の女性にいきなり名前? 刑事さん、距離の詰め方が強いね」


「住居侵入で現行犯にしてもいい」


「住居ねえ」


 女は周囲を見回した。


 腐った畳。割れた窓。落書きだらけの壁。剥がれた天井板。


「ここを住居扱いするのは、さすがに無理がない?」


「解体予定区域への不法侵入だ」


「じゃあ刑事さんも同罪じゃない?」


 清瀬は黙った。


 女が笑う。


「ああ、違うか。刑事さんには正義の理由がある。私にはない。そういうノリ?」


「お前は誰だ」


「探偵。いちおうね」


「探偵?」


「そう。怪しい事件専門。こういう変なやつ担当」


 清瀬は眉をひそめた。


「ふざけているのか」


「まあ、半分くらいは」


「残りの半分は」


「空腹」


 清瀬は一瞬、言葉を失った。


 女は本気で腹を押さえ、深刻そうな顔をしている。


「朝から何も食べてない。正確には昨日の夜から。人間の体って不便だよね、燃費が悪い」


「人間の体?」


「比喩だよ」


 女は平然と言った。


 清瀬は距離を詰める。


「事件現場で何をしていた」


「見れば分かるでしょ。調べてた」


「何を」


 女はしゃがんでいた床を指さした。


「そこ。床の傷と、壁の下。警察は採ったのかな。白い粉の方は、二件目と三件目にもあったんでしょ?」


 清瀬の目が細くなった。


 女の口調は軽かった。


 だが、断言ではない。


 清瀬の反応を見ている。


 そう気づいた時には、もう遅かった。


 それは、まだ報道されていない。


 三件目の現場で見つけた白灰色の粉。


 二件目は雨で流れていた。だが、痕跡があった可能性までは否定できない。


 知っているのは、現場にいた警察関係者と、特殊凶悪事件捜査課の連中だけだ。


「なぜ知っている」


「今の顔で分かった」


「三件目の現場にもいたのか」


「さあね」


「答えろ」


「刑事さん、答えを急ぎすぎ」


 女は立ち上がった。


 清瀬は反射的に一歩近づき、女の腕を取ろうとした。


 だが、指先が空を掴んだ。


 女は一歩分だけ横にずれていた。


 大きな動きではない。


 ただ、清瀬の手が届く範囲から、当然のように外れていた。


 清瀬は眉を寄せる。


「動くな」


「動かなかったら捕まえるつもりだったでしょ?」


「当たり前だ」


「当たり前を当たり前に言える人、嫌いじゃないよ」


「俺はお前が嫌いになりそうだ」


「早いなあ。まだ会って三分も経ってないのに」


 女は笑う。


 その笑い方が、清瀬の神経に触れた。


 赤羽透真とは違う。


 赤羽の軽さは、どこか作り物じみていた。人当たりのよさを道具として使っているような軽さだ。


 この女の軽さは、もっと質が悪い。


 こちらの怒りも、警戒も、疑いも、全部まとめて面白がっている。


「三人殺されている」


 清瀬は低く言った。


「分かっているのか」


「分かってるよ」


 女の笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。


「三つの腹が裂かれて、三つの命が食われた。でも、腹を空かせてるのは犯人だけじゃない」


「何?」


「この場所も飢えてる」


 女は床を見下ろした。


 腐った畳の縁に、白灰色の粉が薄く残っている。


 清瀬は理解できない言葉を無視することにした。


「お前は被害者の損壊状況を知っている。現場の痕跡も知っている。二件目と三件目にも同じものがあったと、俺の反応で確かめた」


「うん。今のでかなり確信した」


「事件関係者として署まで来てもらう」


「それは困る」


「拒否できる立場だと思うな」


「拒否はしないよ。ただ、署に連れていったら困るのは刑事さんの方だと思うよ」


「何?」


「刑事が一人で、検証済みの現場に朝から来るのは変でしょ。しかも証拠袋まで持ってる。もしかして、捜査から外されたとか?」


 清瀬の表情が、わずかに固まった。


 女はそれを見て、ぱっと笑う。


「やっぱり外されたんだ」


「黙れ」


「はいはい、落ち着いて。図星だからって怖い顔しない」


「お前を署に連れていくのに、俺の事情は関係ない」


「あるよ。私を署に連れていけば、報告が上がる。報告が上がれば、私の身柄は上か別の部署に渡る。そうなったら、私が持ってる話も、刑事さんの手元には残らない。何の利益にもならないでしょ」


 清瀬は言い返せなかった。


 女は軽く肩をすくめる。


「だから、取引しよう」


「取引だと?」


 女は真顔で頷いた。


「私は空腹を満たしたい。刑事さんは情報が欲しい。お互い必要なものがある。なら、協力しようじゃないか」


 そこで女は、ひどく楽しそうに笑った。


「私たち、いいバディになると思うよ。ホームズとワトソンみたいに」


「誰がワトソンだ」


「そこ気にするんだ」


「全部気に入らない」


「細かい男は嫌われるよ」


「お前に好かれる予定はない」


 女は肩をすくめた。


「じゃあ、まずは先に食事だ」


 清瀬は数秒、女を見つめた。


 見つめても、冗談なのか本気なのか分からない。


「……今、何と言った」


「食事。できれば甘いものがいい。チョコパフェが最高だけど、朝から出してる店は少ないか。じゃあホットケーキでもいい。いや、ざるそばでもいいな」


「お前、自分の状況が分かっているのか」


「分かってるよ。だからこうして、ちゃんと交渉してる」


 女は清瀬をまっすぐ見た。


「君が奢る。私が話す。分かりやすいでしょ」


「ふざけるな」


「ふざけてる余裕はないよ。空腹だから」


「署でカツ丼なら出るかもしれないぞ」


「それ、取り調べで容疑者に出すやつでしょ? 実際には出ないって聞いたけど」


「詳しいな」


「探偵なので」


「怪しい事件専門の、か」


「覚えがいいね」


 清瀬は女を睨んだ。


 ここで強引に連れて行くことはできる。


 だが、女は清瀬の知らない情報を持っている。


 白灰色の粉。


 二件目と三件目にも残っていた可能性。


 被害者の損壊状況。


 そして、この場所に残る何か。


 署に連れて行けば、上へ報告が上がる。特殊凶悪事件捜査課に知られる可能性もある。そうなれば、この女も、情報も、また自分の手元から消える。


 清瀬は奥歯を噛んだ。


「妙な真似をしたら、その場で逮捕する」


「今も十分妙な真似してるけど?」


「冗談のつもりなら、笑えない」


「私はちょっと笑える」


「俺は笑えないと言ってる」


 女は肩をすくめた。


「めんどくさいなあ」


「名前」


「ん?」


「食わせる前に、名前くらい名乗れ」


 女は少し考えるように首を傾げた。


 そして、芝居がかった仕草で片手を胸に当てる。


「天月ヨミ」


「本名か」


「少なくとも、この体の名前はそうだね」


 清瀬はその言い方を聞き逃さなかった。


「この体?」


「比喩だよ」


「さっきもそれを聞いた」


「便利な言葉でしょ?」


 天月ヨミと名乗った女は、楽しそうに笑った。


 清瀬は手帳を開き、その名前を書き留める。


 天月ヨミ。


 事件現場に不法侵入していた、自称探偵。


 警察発表にない情報を知っている。


 動きが妙に速い。


 話し方がふざけている。


 そして、何より。


 この女は、死体のあった場所を怖がっていない。


 清瀬は手帳を閉じた。


「行くぞ」


「どこへ?」


「お前が食える店だ」


「話が早い。そういうとこは好きだよ」


「俺はまだ、お前を人間扱いするか決めていない」


 天月ヨミは一瞬だけ目を丸くした。


 それから、ひどく愉快そうに笑った。


「いいねえ、そういう返し」


「何がだ」


「いや、こちらの話だ」


 清瀬は返事をせず、出口へ向かった。


 背後から、天月ヨミの足音が軽く続く。


 旧店舗兼住宅を出る直前、清瀬は一度だけ振り返った。


 薄暗い畳部屋。


 床の傷。


 白灰色の粉。


 そこに立っていた女の笑み。


 どれも、普通の事件には似合わない。


 だが、今はそれを追うしかない。


 清瀬は朝の光の中へ出た。


 背後で、天月ヨミがのんびりと言う。


「できれば、チョコパフェのある店がいい」


「黙って歩け」


「暴君だな」


「逮捕されたいのか」


「奢ってくれた後なら考えよう」


 清瀬は答えなかった。


 この女は、間違いなく何かを知っている。


 そして、その何かは、特殊凶悪事件捜査課が隠そうとしているものに近い。


 清瀬はそう確信しながら、天月ヨミを連れて繁華街の表通りへ向かった。



## 1-5


 表通りに出ると、灰月市はすっかり朝の顔をしていた。


 さっきまで歩いていた裏路地とは違い、開店準備をする店員や、通勤途中の会社員が行き交っている。コンビニの前では配送トラックが荷物を下ろし、横断歩道の向こうでは学生服の集団が信号待ちをしていた。


 そのどれもが、つい数十分前まで清瀬がいた旧店舗兼住宅とは別の世界に見えた。


 天月ヨミは、そんな朝の通りをまるで散歩でもするように歩いている。


「で、どこに行くの?」


「黙ってついてこい」


「それ、誘拐犯の台詞みたいだね」


「不法侵入者を任意同行しているだけだ」


「任意なのに行き先を教えてくれないのか。警察って怖いなあ」


 清瀬は答えなかった。


 相手にすればするほど、調子に乗る。


 それはもう十分に分かった。


 清瀬が入ったのは、繁華街の外れにある古い喫茶店だった。


 表の看板には、色褪せた文字で「朝七時から営業」と書かれている。窓際には観葉植物が並び、店内には焙煎した豆の香りと、焼いたパンの匂いが漂っていた。


 派手さはないが、朝の店らしい落ち着きがある。


 コーヒーの香りも悪くない。


 清瀬は以前、張り込み明けに何度かこの店を使ったことがあった。


 店員は清瀬を見ると、軽く会釈した。


「お二人ですか」


「奥の席を」


「はい」


 奥の二人席へ案内される。


 清瀬は入口と窓が見える位置に座った。ヨミは向かいに腰を下ろすと、メニューを開くなり目を輝かせた。


「チョコパフェ、あるじゃないか」


「朝から食う気か」


「当然」


 店員が水を置く。


 ヨミは迷いなく顔を上げた。


「チョコパフェを一つ」


「申し訳ありません。パフェ類は十一時からでして」


 ヨミは本気で世界が終わったような顔をした。


「……刑事さん」


「俺を見るな」


「国家権力で何とかならない?」


「ならない」


「役に立たない権力だなあ」


 清瀬は眉間を押さえた。


 店員は困ったように笑っている。


「モーニングセットと、ホットケーキならすぐご用意できます」


「じゃあホットケーキ。チョコソース追加で。あとバニラアイスは?」


「アイスはございます」


「乗せて」


「かしこまりました」


「それと、モーニングセットも」


 清瀬は顔を上げた。


「食いすぎだ」


「昨日の夜から何も食べてないと言ったよ」


「俺はコーヒー」


「刑事さん、朝食は大事だよ」


「黙れ」


 注文を終え、店員が離れる。


 その直後、清瀬のスマートフォンが震えた。


 画面には、さっき署の裏口で降ろした若い刑事の名前が出ている。


 清瀬は舌打ちを飲み込み、通話に出た。


「清瀬だ」


『一時間です』


 開口一番、それだった。


 ヨミが向かいで楽しそうに眉を上げる。


 清瀬はそれを無視した。


「悪い。今日は署に戻らない」


『は?』


「体調が悪い。帰って休むと課長に伝えろ」


『……それ、本気で言ってます?』


「本気だ」


『清瀬さん』


 電話の向こうで、若い刑事が小さく息を吸った。


『まだ事件を追ってますよね』


「体調が悪いと言った」


『嘘が雑です』


「雑な嘘に付き合え」


 数秒、沈黙があった。


『課長には、体調不良で早退したと伝えます』


「助かる」


『ただし、今日中に一度連絡してください。連絡がなかったら、本当に課長に言います』


「好きにしろ」


『本当に言いますからね』


「分かった」


 清瀬は通話を切った。


 ヨミが水の入ったグラスを持ったまま、にやにやしている。


「いい部下だね」


「うるさい」


「雑な嘘に付き合ってくれる人間は貴重だよ。大事にした方がいい」


「お前に言われる筋合いはない」


 清瀬はテーブルの上に手帳を置いた。


「話せ」


「せっかちだなあ。料理が来てからでも」


「今だ」


「空腹の探偵は性能が落ちるんだけど」


「俺の忍耐も落ちている」


 ヨミは水を一口飲み、肩をすくめた。


「じゃあ、さわりだけ」


 その口調は軽い。


 だが、目だけは旧店舗兼住宅にいた時と同じだった。


 清瀬をからかっているようで、同時に観察している。


「今回の事件、普通の連続殺人じゃない」


「根拠は」


「損壊の仕方。現場の寒さ。白灰色の粉。床の傷。それと、一件目の現場そのもの」


「旧店舗兼住宅か」


「あそこは、ただ人が殺された場所じゃない」


 ヨミは指先で水滴のついたグラスを軽く弾いた。


「何かが出た場所だよ」


「何か?」


「アーティファクト」


 清瀬は無言でヨミを見た。


「……なんだ、それは」


 ヨミは楽しそうに笑う。


「うん、その顔。信じてないね」


「信じる要素がない」


「じゃあ、ものすごく簡単に説明しよう」


 ヨミは立てた人差し指を、グラスの縁で軽く揺らした。


「アーティファクトは、不思議な力が宿った古い遺物。人の欲望とか願望とか、そういう面倒なものに引き寄せられて、こっちへ流れ着く物と言えばいいかな。まあ、例外もあるけど」


「それが、人間をあんなふうに殺すのか」


「物によってはね。アーティファクトは力を与えるだけじゃない。持ち主の身体や心を、宿している性質に合わせて変えていくことがある」


 ヨミは自分の犬歯を指先で示した。


「映画や怪談に出てくる吸血鬼とか人狼とか、そういう話があるでしょ。あれは別の世界から来た生き物じゃない。アーティファクトに侵食されて、人間ではない姿や本能を得た人間の記録が膨らんだものだよ」


「人間が、怪物になると?」


「見た目も中身もね。けれど、始まりはあくまで人間とアーティファクトだ」


「本気で言っているのか」


「半分くらいは優しく説明している」


「残り半分は」


「慣れれば分かる」


「慣れるつもりはない」


「そう言う人ほど、だいたい慣れる」


 清瀬は舌打ちした。


 ヨミは気にせず続ける。


「今回も、誰かがアーティファクトを拾い、その力に侵食されている可能性が高い」


「理由は」


「あの建物とその近辺に残っていたのは、アーティファクトが漂着した僅かな跡と、それを誰かが拾った気配だけだったから」


「そんな物が、現実にあると?」


「あるよ。刑事さんも薄々感じているでしょ」


「何を」


「説明できない現場。普通じゃない死体。変な粉。変な冷気。あと、普通の警察なら触らせてもらえない別部署」


 清瀬の目が細くなる。


「お前、あいつらを知っているのか」


「知らない。ただ、刑事さんの反応で分かる。そいつらは君たちの仲間じゃない。少なくとも、今の君の味方じゃない」


 清瀬は答えなかった。


 ヨミは続ける。


「アーティファクトは、人の願いや未練に寄ってくる。弱っている人間、何かを欲しがっている人間、戻りたいと思っている人間。そういう相手を見つけるのがうまい」


「道具が人を選ぶと?」


「人を、というより、餌や贄を選ぶ」


「物騒な言い方だな」


「物騒なものだからね」


 店員がコーヒーを運んできた。


 清瀬の前に黒いコーヒーが置かれる。


 ヨミの前には、モーニングセットのトーストとサラダ、そして後から来るらしいホットケーキ用の小皿が置かれた。


 ヨミはトーストを見て、少しだけ機嫌を直した。


「いただきます」


「話の途中だ」


「食べながら話す。探偵は口も頭も同時に動かせる」


「行儀が悪い」


「刑事さんは口も態度も悪いよ」


 清瀬はコーヒーを口に運んだ。


 苦味が舌に乗る。


 確かに、ここのコーヒーはうまい。


 こんな状況でそれを認めてしまう自分が、余計に腹立たしかった。


「犯人は最初から怪物だったわけじゃない」


 ヨミはトーストを小さくかじりながら言った。


「最初は人間。今も、たぶん半分くらいは人間。ただ、拾ったものに食われかけている」


「拾ったもの」


「何かだよ」


 清瀬はカップを持つ手を止めた。


「何か?」


「あくまで私の見立てだけどね。旧店舗兼住宅には、アーティファクトがあった痕跡が僅かにあった。床の隙間、白灰色の粉、そこだけ不自然に残った気配。現物はもうない。誰かが拾って、持ち出した」


「それが凶器だと?」


「凶器というより、原因。所有者の身体に何らかの影響を及ぼしている。私の見立てでは、手に持てるくらい小さな物だと思う」


 清瀬は手帳を開いた。


 信じてはいない。


 だが、記録はする。


 ヨミはその様子を見て、にやりと笑った。


「いいね。信じてないのに書くんだ」


「信じるかどうかと、記録するかどうかは別だ」


「そういうところ、本当に刑事さんだ」


「続けろ」


「犯人は、あの場所で何かを拾った。たぶん、本人は偶然だと思っている。でも違う。その何かの方が呼んだ」


「人を呼ぶ物か」


「正確には、願いに反応する。今回なら、もう一度強くなりたい、とか。弱い自分に戻りたくない、とか」


 清瀬は眉を動かした。


 ヨミはそれを見逃さなかった。


「今の、引っかかった?」


「犯人像としては、あり得ると思っただけだ」


「信じてない割に、ちゃんと考えてる」


「信じてはいない」


 ヨミは嬉しそうに笑う。


「それじゃ、今回の事件の犯人を教えてあげようか?」


 清瀬の手が止まった。


「……犯人だと?」


「うん」


「誰だ」


「青山拓斗。国立灰月大学のサッカー部。三年」


 清瀬はその名前を知らなかった。


 少なくとも、事件関係者としてはまだ上がっていない。


「青山拓斗……なぜそいつが犯人だと」


「一件目の事件の後、君たち警察がいなくなった頃に、私はあの旧店舗兼住宅へ入った」


「不法侵入の自白か」


「今さらそこを気にする?」


「気にするに決まってるだろ」


 ヨミは悪びれもせず、トーストを小さくかじった。


「そこで、こことは違う層からアーティファクトが流れ着いた痕跡を感じた。現物はもうなかったから、誰かが拾ったと考えた」


 ヨミはトーストの欠片を口に運び、満足そうに目を細めた。


「となれば、誰がそれを拾ったか。あんな廃屋に出入りする人間なんて、たまり場にする若者か、寝床にする人間くらいでしょ」


「聞き込みをしたのか」


「したよ。探偵だからね。周辺で寝泊まりしている人に話を聞いたら、一か月くらい前、見慣れない若い男が旧店舗兼住宅の周りをうろついていたと教えてくれた」


「それだけで青山にたどり着いたと?」


「若い男。大学の近く。事件現場の生活圏。そこで、若い子が多い国立灰月大学を調べた。すると、私の考える条件に合う人物がいた」


「それが、青山ってことか」


「半年前に怪我をして、数か月前に部活へ戻った。でも、レギュラーには戻れていなかった。それが一か月ほど前から急に成績を上げて、またレギュラーに入っている」


「復調しただけかもしれない」


「一人目の事件の後から、バイトにも行っていない」


 清瀬は黙った。


 ヨミは指を折るように続ける。


「周りからは、最近怒りっぽい、余裕がない、と言われている。夜の行動範囲は大学と繁華街を結ぶ生活圏に収まる。旧店舗兼住宅の近くにいた可能性もある。それに」


「それに?」


「余裕のない人間の顔をしていたよ」


 清瀬の目が鋭くなった。


「青山に接触したのか。いつ」


「まあまあ、落ち着いて。それより、アーティファクトの面白い話をしよう」


「面白い話?」


「青山は人を殺して、ばれる不安に怯えている。なのに大学へ行って、サッカーはしている。バイトは休んでいるのにね」


「大学やサッカーが、心の拠り所なんだろう」


「そう。そこなんだよ、アーティファクトの面白いところは」


「面白いところ?」


「刑事さんは、呪われた百円玉を拾ったらどうする?」


「何を言っている」


「いいから答えて」


「お祓いに出すか、すぐ手元から離す」


「そう。普通は手放したくなる。でも、アーティファクトはそれをさせない。所有者の心の隙間に入り込むのがうまいから」


「心の隙間。それが、青山にとってはサッカーか」


「うん。青山は、サッカーを取り戻した。怪我で一度奪われたものを、アーティファクトのおかげで取り戻した。そうなったら、もう手放したくないと思わない? たとえ人が死んでも」


「何が面白い話だ。気色の悪いことを言いやがって」


「ここからが面白いところだよ」


 ヨミはそう言って、ほんの少し楽しそうに目を細めた。


「アーティファクトには、もう一つ厄介な習性がある。殺す順番だ」


「殺す順番だと。被害者同士には接点がなかったはずだ」


「逆だよ。接点がないところから始まっている」


 ヨミは指を一本立てた。


「一人目は、多分、青山と会ったことがない。あっても、お互い認識していないくらいの関係」


 次に、二本目の指を立てる。


「二人目は、知り合いではないけど、行動範囲が被っていて、見かけたことくらいはある相手」


 三本目。


「そして、今日三人目が出た。私の見立てでは、そろそろ段階を飛ばして、同じ大学の人間じゃないかと思っているんだけど」


 清瀬は答えなかった。


 その沈黙だけで十分だった。


「やっぱり、大学生だった」


 ヨミは嬉しそうに言った。


「アーティファクトは、全く無関係な人間から、徐々に所有者の身近な人間へ標的を変えていく。そして、それを所有者に気づかせる」


「何のために」


「心を壊すため。今ごろ青山は、次は友人か、チームメイトか、恋人を殺してしまうかもしれない恐怖と、アーティファクトを捨てたら大事なサッカーを失う恐怖の間で、かなり面白いことになっていると思うよ」


 理解したくない理屈だった。


 だが、旧店舗兼住宅で見たヨミの目が、今も同じ色をしている。


 ふざけた口調のまま、核心だけを外していない。


 清瀬はコーヒーを飲み、カップを置いた。


 ホットケーキが運ばれてきた。


 チョコソースとバニラアイスが乗っている。


 ヨミの目が一気に輝いた。


「実は昨日の夜、青山を尾行していたんだよね」


 清瀬の顔色が変わった。


「まさか、犯行現場を見たのか」


「残念ながら」


 ヨミはホットケーキを見つめたまま、少しも残念そうではない声で言った。


「その時の私は空腹でね。青山を尾行している途中で、いい匂いがして、少しだけ気を取られている隙に」


「見失ったと」


 清瀬は呆れた。


「怪しい事件専門の探偵じゃなかったのか」


「探偵もお腹は空く」


「威張るな」


「仕方ないから、ワンチャン、一件目の現場に現れないかと思って待っていた。そこに刑事さんが来た」


 ヨミはホットケーキにナイフを入れ、満足そうに一口食べた。


 それから、先ほどまでより少しだけ真面目な声で言う。


「だから、青山拓斗を見張るといい」


「何を押さえればいい」


「一件目の前後で旧店舗兼住宅周辺にいた可能性がある。防犯カメラが生きているなら、映っているかもしれない。あの場所で拾ったものが、今回の事件の始まりだから」


「拾ったものが、事件の原因だと?」


「たぶんね」


「たぶんで人を尾行しろと?」


「刑事さんは、たぶんでここまで来たんじゃないの?」


 清瀬は黙った。


 その通りだった。


 証拠はまだ薄い。


 だが、違和感だけで旧店舗兼住宅まで戻ったのは自分だ。


「青山拓斗は、今日も大学へ行くと思うか?」


「行くと思う。授業か、練習か、どちらかには顔を出すはず」


「なぜ分かる」


「さっき話したよね。青山にとって、大学とサッカーはもう日常じゃない。失った自分をつなぎ止める命綱だ。アーティファクトは、そこにしがみつかせる。大事なものほど、奪われる想像だけで人は壊れるからね」


 清瀬は手帳に青山拓斗の名前を書き込む。


「情報の裏を取る」


「うん」


「お前も来い」


「もちろん。バディだからね」


「違う。お前を一人にすると逃げるからだ」


「ひどい信用だ」


「信用していない」


 清瀬は手帳を閉じた。


「妙な真似をしたら即逮捕する」


「さっきも聞いた」


「何度でも言う」


 ヨミはチョコソースのついたフォークを持ったまま、楽しそうに笑った。


「了解、刑事さん」


 清瀬は冷めかけたコーヒーを見下ろした。


 最悪の朝だ。


 そう思いながら、カップを持ち上げる。


 その時、店のドアベルが軽く鳴った。


「おはようございます」


 場違いなくらい明るい声がした。


「あれ、清瀬さん。奇遇ですね」


 清瀬は盛大にコーヒーを吹き出しかけた。


 寸前で紙ナプキンを口に押し当てる。だが、少しだけテーブルに黒い滴が飛んだ。


 ヨミが目を丸くする。


「うわ、汚い」


「誰のせいだと思ってる」


「私は何もしてないよ」


 清瀬は咳き込みながら入口を睨んだ。


 黒いコートの男が、そこに立っていた。


 赤羽透真。


 朝の喫茶店に似合わない黒いコートを着て、片手を軽く上げている。現場で見た時と同じ、人懐こい笑みを浮かべていた。


「いやあ、すみません。そんなに驚いてもらえるとは」


「尾けていたのか」


「まさか。偶然ですよ」


 赤羽は店員に向かって、慣れた様子で言った。


「ブレンドを四つと、カフェラッテを一つ、オレンジジュースを一つお願いします」


「はい」


 店員が自然に応じる。


 常連らしい。


 清瀬は余計に嫌な顔をした。


「今朝話した、コーヒーがうまい店。ここなんですよ」


 清瀬は、現場で赤羽が言った言葉を思い出した。


 今度ランチでもどうですか。

 食後のコーヒーがうまいカフェ、知ってるんで。


 あの時の店が、ここか。


 清瀬はさらに嫌な顔をした。


「もしかして清瀬さんも常連ですか? 俺たち、気が合いますね」


「お前が言ったせいで、今この店まで嫌いになりそうだ」


「それは店に悪いですよ」


 赤羽は笑いながら、清瀬の向かいにいるヨミへ視線を向けた。


「そちらの方は、もしかして清瀬さんの彼女さんですか?」


 ヨミはチョコソースのついたフォークを片手に、にこりと笑った。


「そうです。清瀬の彼女です」


「違う」


 清瀬は即座に否定した。


 赤羽は楽しそうに目を細める。


「清瀬さん、隠さなくても大丈夫ですよ。清瀬さんほどの男性に彼女がいない方がおかしいですから」


「そうよ、ダーリン」


 ヨミが悪びれもなく乗った。


 清瀬は深く息を吐いた。


 今日は本当に最悪の日だ。


 不可解な事件。

 あり得ない情報。

 苦手な人種に二人も会い、その二人が同じ場にいる。


 いっそ夢であってほしい。


 ヨミは笑ったまま、赤羽を見ている。


 清瀬はその二人の間に、見えない糸のようなものが張るのを感じた。


「初めまして。赤羽透真です」


「天月ヨミです」


「ヨミさん。もしかして、探偵をしてますか?」


「お前が何で知っている」


 清瀬が低く言った。


「天月って聞いて、思い出しただけですよ。綺麗な女性がやっている探偵事務所があるって聞いたことがありまして。その名前が、天月探偵事務所だったもので」


「私も聞きたいのですが、赤羽さんも刑事さんですか?」


「はい。刑事ですよ。清瀬さんとは現場を共にした仲です」


「嘘をつけ。お前と会って話したのは今日が初めてだ」


「もう一ついいですか?」


「はい。いいですよ」


「ダーリンから事件を奪ったのは、赤羽さんですか?」


 赤羽はすぐには答えなかった。


 笑みだけは崩さないまま、紙袋の持ち手を指先で軽く直す。


「事件を奪うって何ですか? 刑事はみんなで協力して事件を解決するチームなんですからね、清瀬さん」


「ああ。刑事はな」


 一瞬だけ、テーブルの上の空気が変わった。


 赤羽は笑っている。

 ヨミも笑っている。


 だが、清瀬にはどちらの笑みも、少しも柔らかく見えなかった。


「すみません。私が変なことを言ったせいで、変な感じになってしまって」


「いえいえ、とんでもない。よかったら、クトゥの連絡先を交換しませんか」


「いいですね。ぜひ交換しましょう」


 あっさりと連絡先を交換する二人を見ても、清瀬には少しも和やかに見えなかった。


「清瀬さんも交換しましょう」


「俺はいい」


 赤羽は受け取った紙袋とカップを手に取った。


 本当に長居するつもりはないらしい。


 だが、去り際に清瀬の横で足を止めた。


「清瀬さん」


「なんだ」


「朝からコーヒーを吹くくらいには、落ち着いていないようなので」


 赤羽はにこやかに言った。


「深呼吸してから動いた方がいいですよ。焦ると、見えるものも見えなくなります」


「忠告か」


「世間話です」


 赤羽はヨミを見る。


「天月さんも、朝食はゆっくりどうぞ」


「ありがとうございます。赤羽さん。またどこかで会いましたら、よろしくお願いします」


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 赤羽は軽く手を振り、店を出ていった。


 ドアベルが鳴る。


 黒いコートが朝の通りへ消えていく。


 清瀬はしばらく入口を睨んでいた。


 ヨミはホットケーキをもう一口食べる。


「今の人、やっぱり普通の刑事じゃないね」


「知らないなら首を突っ込むな」


「知らないから首を突っ込むんだよ」


「面倒な女だな」


「彼女に対してひどい」


「彼女じゃない」


 ヨミは笑い、コーヒーの染みがついた紙ナプキンを見た。


「でも、嘘をつき慣れている感じがして、面白い人だったね。赤羽って人」


「お前も同類だろ」


「私が嘘つきと言いたいのかい?」


 清瀬はコーヒーを見下ろした。


 赤羽に吹き出しかけたせいで、量が少し減っている。


 最悪の朝だ。


 それでも、事件は少しだけ動き始めている。


 そのことだけは、認めるしかなかった。



## 1-6


 国立灰月大学は、市の中心部から電車で三十分ほど離れた場所にある。


 広い敷地の中央には近代的な講義棟が並び、その外側を図書館や学生会館、運動施設が囲んでいる。正門を行き交う学生たちに、今朝方、同じ大学の学生が遺体で発見されたことを知っている様子はなかった。


 大学側がまだ公表していないのか、それとも学生たちが知らないだけなのか。


 清瀬は正門から少し離れた時間貸し駐車場に車を停め、運転席から行き交う学生を眺めていた。


「それで、青山拓斗はどれだ」


「あそこ。紺色のジャージを着ている青年」


 助手席のヨミが、フロントガラスの向こうを指した。


 正門をくぐった学生の一人が、友人らしき男たちと並んで歩いている。


 短く整えた黒髪。日に焼けた肌。スポーツバッグを肩に掛けた、体格のいい青年だった。


 笑っている。


 少なくとも、三人を殺した直後の人間には見えなかった。


「写真と一致する」


 清瀬はスマートフォンに表示した大学サッカー部の選手紹介と、青年の横顔を見比べた。


「本当に、あれが犯人か」


「私の見立てではね」


「外れていたら」


「コーヒーを奢ってあげる」


「金を持っているようには見えないが」


「ああ。持ってないよ」


 清瀬は無言でヨミを見た。


「でも安心して。外れないから」


 ヨミは答えず、青山を見た。


 軽い笑みは残っている。


 だが、喫茶店で甘味を前にしていた時とは目が違う。


 清瀬が死体や現場を見る時と同じ目だった。


 人の動きから、言葉にならない何かを拾おうとしている。


 青山たちは講義棟へ入った。


「追わないの?」


「学内には入らない。目立つからな。特にお前は」


「失礼だな。私はどこにでもいる普通の探偵だよ」


「その格好で普通は無理がある。嫌でも目につく」


「個性的と言ってほしいね」


「尾行する側に個性はいらない」


 清瀬は講義棟へ視線を戻した。


「それに、お前の考えが正しければ、青山は三人も殺して、犯行がばれることに怯えている。そんな時に見覚えのない目立つ人間が周りをうろつけば、警戒して逃げる可能性がある」


 ヨミは返事の代わりに、青山の消えた講義棟を見た。


「なるほど。刑事さん、意外と慎重なんだね」


「張り込みは、気づかれずに待つのが仕事だ」


「青山が出てくるまで?」


「必要なら夜まで待つ」


「それじゃ、食べ物と飲み物が必要だね。買ってきてもいいかい?」


「お前、さっき金は持ってないと言ってなかったか」


「そう。だから、ほら」


 ヨミは清瀬へ向けて、当然のように片手を差し出した。


「なぜ俺が出す」


「捜査協力に必要な経費だよ」


 清瀬は深く息を吐き、講義棟へ消えた青山が戻ってくるのを待った。


 青山が次に姿を見せたのは、午後の講義が終わった後だった。


 サッカー部の練習場へ向かい、他の部員と同じように着替え、準備運動を始める。


 清瀬とヨミは、道路を挟んでグラウンドを見渡せる小さな公園にいた。


 並んで座ったベンチで、ヨミは結局清瀬から金を借り、近くの店で買ってきた菓子パンを膝の上に並べていた。


「よく食うな」


「刑事さんも食べない? いろんな味のパンがあるよ」


「俺はいい」


 清瀬は缶コーヒーのプルタブを起こし、一口飲んだ。


「そう。なら、全部私がもらってもいいってことだね」


 ヨミは嬉しそうに笑い、菓子パンの一つを手に取った。


 袋を開けてかじると、味を確かめるようにゆっくりと噛み、幸せそうに目を細める。


「そんなに食べるのが好きなのか」


「ああ、好きだよ。いろんな味を楽しめるのは、人間に与えられた最高の特権だと、私は思うからね」


 妙な言い方だった。


 まるで、自分はその特権を後から知ったとでもいうような。


 ホイッスルが鳴った。


 練習が始まる。


 青山の動きは、遠目にも目立っていた。


 相手が蹴り出したボールへ誰より早く追いつき、鋭く方向を変える。接触しても体勢を崩さず、そのまま二人を抜いた。


 ゴール前で右足を振り抜く。


 乾いた音と同時に、ボールがネットへ突き刺さった。


 周囲から歓声が上がる。


 青山は拳を握り、チームメイトと肩をぶつけ合った。


「怪我をしたのは、どこだ」


「右膝。半年前に靱帯を痛めている」


 清瀬はグラウンドへ目を戻した。


 青山は右足一本で急停止し、すぐに逆方向へ切り返している。


 庇う様子はない。


 それどころか、怪我をしていない部員たちより踏み込みが深かった。


「治っただけには見えないね」


「医者でもないお前に分かるのか」


「医者じゃなくても、人間離れしていることくらいは分かる」


「人間離れ、か」


 清瀬は、その言葉を否定しなかった。


 練習は二時間近く続いた。


 終盤になると、多くの部員が肩で息をしていた。それでも青山の動きは落ちない。


 ただ一度だけ、様子が変わった。


 練習場の照明が点いた瞬間、青山は顔を背け、両手で目元を覆った。


 隣にいた部員が声を掛ける。


 青山はすぐに手を振り、何でもないように練習へ戻った。


「今の、見た?」


「ああ」


「光を嫌がった」


「目に入っただけかもしれない」


「そうかもね」


 ヨミは否定しなかった。


 その曖昧な返事が、清瀬にはかえって引っかかった。


 練習後、青山は部員たちと大学近くの定食屋へ入った。


 二人も少し間を空けて店へ入り、青山たちから離れた奥の席に座った。背の高い観葉植物が間にあり、こちらから青山の横顔は見えるが、向こうからは気づかれにくい位置だった。


 青山の前に運ばれたのは、生姜焼き定食だった。


 偶然にも、ヨミが注文したものと同じだった。


 だが、青山はほとんど箸をつけなかった。


 生姜焼きを一切れ口へ運び、何度か噛んだところで動きを止める。水で無理に流し込むと、残りの肉から顔を背けた。


 向かいに座る部員が何か尋ねる。青山は笑って腹を押さえ、調子が悪いとでも答えたようだった。


「あれだけ動いた後に、ほとんど食べないのか」


「そうだね。こんなにおいしいのに」


 ヨミは青山と同じ生姜焼きを頬張り、満足そうに目を細めた。


「何が言いたい」


「お腹は空いている。でも、あの料理を食べ物として受け付けなくなってる」


「見ただけで分かるのか」


「生姜焼きを一口食べた時の表情を見ただろう? こんなにおいしいのに、よほど口に合わなかったみたいだね」


「なら、何なら食える」


「火の通っていない肉。今の青山が欲しがっているのは、たぶんそっちだ」


 青山は仲間の話に合わせて笑っていたが、箸はほとんど動かない。時折、空腹を堪えるように腹へ手を当てている。


 爪の先が、照明の下で黒く見えた。


 食事を終えると、青山は仲間と別れて下宿へ戻った。


 途中、青山はスーパーへ入った。


 向かったのは生鮮食品売り場だった。青山は精肉棚の前に立つと、牛肉や鶏肉のパックを一つずつ手に取り、品定めするように中身を見つめた。


 結局、籠へ入れたのは数種類の生肉と水だけだった。


「今夜の晩御飯かもね」


「焼いて食うなら普通だろ」


「焼けばね」


 ヨミは、生肉の入った袋を提げて店を出る青山を楽しそうに見送った。


 それ以外に不審な行動はなく、青山はそのまま下宿へ戻った。


 午後十一時。


 下宿の一室に明かりが点いたまま、カーテンの向こうで人影が動いている。


 日付が変わっても、青山が外へ出てくることはなかった。


「今日は動かないよ」


 ヨミが助手席を倒しながら言った。


「なぜ分かる」


「三人目を食べたばかりだから、今夜はまだ欲求が抑えられているんだと思う。スーパーで買った肉もあるしね」


 ヨミは青山の部屋を見上げた。


「ただ、欲求そのものは前より強くなっている。次に我慢できなくなるまでの期間は、前より短いだろうね」


 清瀬はヨミを見た。


 ヨミはもう助手席へ身体を預け、何事もなかったように目を閉じていた。


「言い方を考えろ」


「事実は言い換えても変わらないよ」


「まだ青山が犯人だと決まったわけじゃない」


「じゃあ刑事さんは、怪我から不自然に復調して、殺人が始まってからバイトを休み、空腹なのにまともな食事を受け付けない青年を、偶然ここまで尾行しているの?」


「状況証拠にもならない」


「警察は大変だね」


「探偵が雑なんだ」


 ヨミは小さく笑った。


「このまま朝まで見る」


「体調不良なのに熱心だね」


 清瀬は答えなかった。


 そのまま、二人は朝まで張り込みを続けた。


 空が白み始めても、青山が下宿から出てくることはなかった。


「今日は一度解散しよう」


 助手席を起こしながら、ヨミが言った。


「お前から言い出すとはな」


「これまでの犯行は、どれも夜から朝方に起きている。昼間の青山は大学へ行って、普通の学生として過ごすはずだ。次に見張るなら、夕方からでいい」


「見ていない間に動く可能性は」


「低いと思う。それに、刑事さんはこれ以上仕事を休めないでしょ。私も眠い」


「お前は途中で寝てただろ」


「十分な睡眠は大切なんだよ」


「車で寝ていた奴が言うな」


 ヨミは楽しそうに笑った。


「今日の午後五時、同じ駐車場でまた会おう」


「勝手に決めるな」


「来ないの?」


 清瀬は答えなかった。


 その沈黙を、ヨミは了承として受け取ったらしい。


 清瀬は一度帰宅してシャワーだけ浴びると、いつも通り署へ出た。


 若い刑事は清瀬の顔を見るなり、呆れたように眉を寄せた。


「一日で治ったんですか」


「寝たら治った」


「どこで寝たんです?」


「家だ」


「以前、朝方まで一緒に張り込んだ時と、同じ顔してますよ」


「仕事をしろ」


 清瀬はそれ以上の追及を許さず、自分の席へ向かった。


 臓器欠損連続殺人事件の資料は、すでに特殊凶悪事件捜査課へ移されている。


 共有フォルダに残っていた現場写真の一部も、閲覧権限が外されていた。


 清瀬に割り振られたのは、事件とは何の関係もない窃盗事件の資料だった。


 清瀬は窃盗事件の資料へ目を通した。


 文字を追っていても、頭に浮かぶのは青山の黒ずんだ爪と、生肉の入った袋だった。


 夕方、勤務を終えた清瀬は、大学近くの立体駐車場でヨミと合流した。


 助手席へ乗り込んできたヨミは、コンビニの袋を膝に置いている。


「お疲れさま、刑事さん。はい、差し入れ」


 差し出された缶コーヒーを見て、清瀬は少しだけ眉を上げた。


「珍しいな」


「代金は後で請求するよ」


「返せ」


「冗談だって」


 ヨミは自分の分のチョコレートを開けた。


「青山は」


「まだ出てきてない。もうすぐ練習が終わる頃だよ」


 清瀬は大学の正門へ目を向けた。


 ほどなくして、青山が姿を見せた。


 一人だった。


 前日とは違い、歩幅が不揃いになっている。時折立ち止まり、腹を押さえて深く息を吐く。


 右手はポケットへ入れたまま、何度も何かを握り直すように動いていた。


「たぶん、例の物を持ってる」


 ヨミが小声で言った。


 通り過ぎた救急車のサイレンに、青山は大きく肩を震わせた。


 青山は周囲を見回した。


 清瀬は反射的に身を低くする。


 ヨミは動かない。


 視線がこちらを通り過ぎた後、青山は再び歩き出した。


「気づかれたか」


「違う。誰かに見られていないか、ずっと怯えてる」


 青山はコンビニへ入った。


 弁当や揚げ物の棚の前を通り過ぎ、買ったのは水だけだった。店を出た後も腹を押さえたまま、苦しそうに唾を飲み込んでいる。


 そのまま下宿へ戻る。


 夜九時。


 カーテンの隙間から見える室内の明かりが、何度も点いたり消えたりした。


 十一時。


 青山は出てこない。


 日付が変わる。


 それでも、下宿の入口に動きはなかった。


「二日だ」


 清瀬はハンドルへ指を打ちつけた。


「二晩見張って、大学と店を往復しただけだ。三人を殺した人間が、こんな生活を続けると思うか」


「続けるよ」


 ヨミは窓の外を見たまま答えた。


「人は自分が壊れた時ほど、昨日までと同じことをしたがる。起きて、大学へ行って、サッカーをして、帰る。そうしている間だけは、まだ自分が普通だと思えるから」


「随分と分かったように言うな」


「分かるさ。人間を見るのは好きだからね」


 薄暗い車内で、ヨミだけが笑っていた。


 その横顔に、清瀬は一瞬だけ言葉を失った。


 人間を見るのが好き。


 人間が好き、ではない。


 言葉のわずかな違いが、妙に耳に残った。


「もういい」


 清瀬はエンジンをかけようとした。


「明日の朝から、青山の周辺を洗い直す。大学にも聞き込みをかける。お前の話が正しいかどうかは、それからだ」


「明日の朝では遅いよ」


 清瀬の手が止まる。


 ヨミは下宿の二階を見上げていた。


「今夜、動く」


「根拠は」


「右手の爪が、昨日より伸びていた。呼吸も浅い。空腹なのに食べ物を受け付けず、水しか飲めなくなっている。腹を押さえる回数も増えた」


「それだけで断言するのか」


「それだけじゃない」


 ヨミは自分の足元へ視線を落とした。


 街灯に照らされ、車内へ二人分の影が伸びている。


 そのうち、ヨミの影だけが微かに揺れていた。


 風はない。


「あの部屋から、飢えたものの気配がする。昨日より、ずっと強い」


 清瀬は下宿を見上げた。


 カーテンの隙間から、青白い光が漏れている。


 その窓が、ほんの一瞬だけ白く曇った。


 まるで、部屋の内側だけが凍りついたように。


「何時だ」


「そこまでは分からない」


「なら、このままここにいる」


「明日も仕事じゃないの?」


「事件が起きると言ったのはお前だ」


「信じてないんじゃなかった?」


「信じてはいない」


 清瀬はエンジンから手を離し、シートへ深く座り直した。


「確かめるだけだ」


 ヨミは楽しそうに笑った。


「そういうことにしておこうか」


 窓の外を歩いていた通行人が、不意に白い息を吐いた。自分の口元を確かめるように触れ、怪訝そうに首を傾げる。


 青山の部屋の明かりが消えた。


 それから十分ほど、下宿に動きはなかった。


 午前二時を回ろうとした頃、建物の入口で小さな音がした。


 扉が、ゆっくりと開く。


 青山が姿を現した。


 背中を丸め、右手をポケットへ入れたまま、誰かに呼ばれているような足取りで歩き始める。


 ヨミが倒していた助手席を起こした。


 その途中で一度だけ腹を押さえ、わずかに顔をしかめる。


「刑事さん」


「ああ」


 清瀬は青山から目を離さず、ドアへ手を掛けた。


 青山拓斗が、動いた。



## 1-7


 その三十分前。


 青山拓斗は、台所の床に座り込んでいた。


 足元には、スーパーで買った肉の空き容器が散らばっている。牛肉も、鶏肉も、火を通さずに食べた。


 以前なら、口に入れることさえ考えられなかったはずだ。


 今は違う。


 生肉だけは喉を通った。


 だが、腹の奥に巣くう飢えは消えなかった。


「違う」


 誰もいない部屋で、青山は呟いた。


「俺じゃない」


 頭の中に、知らない女の顔が浮かぶ。


 暗い路地。

 逃げようとする足。

 喉の奥で潰れた悲鳴。


 指先に残る、柔らかいものを引き裂いた感触。


 青山は両手で頭を抱えた。


「俺が殺したんじゃない」


 あれは夢だ。


 怪我をしてから、何度も悪い夢を見た。試合に出られない夢。誰にも必要とされなくなる夢。サッカーを奪われ、一人だけ置いていかれる夢。


 今回も同じだ。


 目が覚めれば終わる。


 明日になれば大学へ行き、練習に出る。監督は次の試合でも自分を使うと言っていた。チームメイトも、以前の動きが戻ったと喜んでいる。


 全部、元に戻ったのだ。


 だから、あれが現実のはずはない。


 青山は右手を開いた。


 掌には、古びた外国硬貨のようなコインが載っていた。


 拾った時より黒ずんで見える。表面に刻まれた模様は、角度を変えるたび、痩せた人間の顔にも、枝分かれした獣の角にも見えた。


 これを拾ってから、身体は変わった。


 痛めた右膝は、もう痛まない。


 誰より速く走れる。


 当たり負けもしない。


 奪われたものを、すべて取り戻せた。


 代わりに、知らない女や、どこかで見た覚えのある女たちが夢に出るようになった。


「お前のせいだ」


 コインは何も答えない。


 ただ、握った掌から冷たさが染み込み、腕を通って身体の奥へ広がっていく。


 青山は立ち上がり、窓を開けた。


 夜の空気が部屋へ流れ込む。


 ここから投げ捨てればいい。


 これさえなくなれば、悪い夢は終わる。


 青山は腕を振り上げた。


 だが、指が開かなかった。


「離せよ」


 右手へ力を込める。


 爪が掌へ食い込み、血が滲んでも、コインを握った指は動かなかった。


 このコインが身体を操っているのか。


 それとも、自分が手放したくないだけなのか。


 分からない。


 捨てれば、また以前の自分へ戻る。


 走れず、試合にも出られず、誰からも忘れられていく自分に。


「嫌だ」


 青山は窓を閉めた。


 投げ捨てるために上げたはずの腕を胸元へ引き寄せ、コインを両手で包み込む。


「もう、戻りたくない」


 声にした途端、腹の奥が鳴った。


 獣の唸り声にも似た、低く長い音だった。


 青山は腹を押さえ、床へ膝をついた。


 脳裏に、チームメイトたちの顔が浮かぶ。


 肩を組んで笑った友人。

 復帰を喜んでくれた後輩。

 怪我をしていた間も、何度も励ましてくれた恋人。


 顔を思い浮かべるたび、口の中に唾液が溢れた。


「やめろ」


 青山は自分の頬を殴った。


「違う。あいつらは違う」


 誰にも会わなければいい。


 部屋から出ず、朝まで耐える。明日も大学へ行き、いつも通りに振る舞う。


 そうすれば、何も起きない。


 スマートフォンが震えた。


 青山は肩を跳ねさせた。


 画面には、恋人の林敦子から届いていたメッセージが表示されている。


『今日も連絡ないけど、大丈夫?』


『バイト終わったよ。今から帰るね』


 時刻は午前一時四十分。


 遅番の日だったことを、青山は忘れていた。


 今からなら、まだ会える。


 恋人なら、話を聞いてくれる。


 そばにいてくれれば、自分を止められるかもしれない。


 そう考えた瞬間、腹の奥の飢えが静かになった。


 代わりに、甘い期待のようなものが胸へ広がる。


 青山は通話ボタンを押した。


 数回の呼び出し音の後、聞き慣れた声が耳へ届く。


『拓斗? どうしたの?』


 その声を聞いた瞬間、青山の腹が大きく鳴った。


 息が止まる。


『拓斗?』


「今から、会えないか」


『え? 今から?』


「少しだけでいい。話したいことがある」


 電話の向こうで、短い沈黙が落ちる。


『……分かった。どこに行けばいい?』


 青山の頭に、繁華街裏の小さな公園が浮かんだ。


 解体予定区域の手前にあり、深夜にはほとんど人が通らない場所だった。


 なぜ、そこを思い浮かべたのかは分からない。


「解体予定区域の手前に、小さな公園があるだろ。そこで会おう」


『あの公園? でも、夜は人がいないよ』


「人に聞かれたくない話なんだ」


『……分かった。今、駅を出たところだから、これから向かうね』


 通話が切れた。


 助けてもらうだけだ。


 彼女に話を聞いてもらう。


 一人でなければ、朝まで耐えられるかもしれない。


 そうすれば、全部終わる。


 青山は何度も自分へ言い聞かせた。


 それなのに、恋人の姿を思い浮かべるだけで、口の中にはまた唾液が溢れた。


 青山はコインを右のポケットへ入れた。


 部屋の明かりを消し、玄関を出る。


 助けを求めるためなのか。


 飢えを満たすためなのか。


 青山自身にも、もう分からなかった。


          *


 清瀬が車を降りると、ヨミも助手席から出ようとした。


 だが、片足を地面につけたところで動きを止め、腹を押さえる。


「……まずい」


「どうした」


「人間の胃を、少し甘く見ていたみたいだ」


 ヨミの顔から、いつもの余裕が消えている。


 清瀬は、張り込みの間、ヨミが次々と口にしていた大量の菓子パンとお菓子を思い出した。


「食い過ぎだ」


「今は反省してる」


 ヨミは腹を押さえたまま、近くのコンビニへ目を向けた。


「悪いけど、少し離れる。刑事さんは先に行って」


「この状況でか」


「私も好きでこうなったわけじゃない。それと、刑事さん」


 歩き出しかけた清瀬を、ヨミが呼び止めた。


「青山を見失ったら、最初の現場を思い出して」


「一件目の現場か。どういう意味だ」


「始まりの場所は、逃げ場所にもなる。それだけ覚えておいて」


「説明になってないぞ」


「今はこれが精いっぱいなんだよ」


 ヨミはそれだけ言い残し、コンビニへ急いだ。


 清瀬は舌打ちし、すでに通りの先へ進んでいる青山を追った。


 青山から距離を取り、一人で後をつける。


 青山の歩き方は、昼間よりも明らかにおかしい。


 歩幅は一定せず、時折ふらつく。腹を押さえたかと思えば、何かに急かされたように足を速める。


 右手は一度もポケットから出さない。


 青山は繁華街へ向かっていた。


 清瀬も角を一つ空けて追う。


 深夜営業の店が並ぶ表通りを抜け、再開発区域へ近づくにつれて人通りが減っていく。


 営業中の店はなくなり、古い雑居ビルと、解体を知らせる仮囲いが目立ち始めた。


 清瀬は見覚えのある街並みに眉を寄せる。


 一件目の事件現場が近い。


 冷えた風が路地を抜けた。


 清瀬は足を止めず周囲へ視線を走らせ、何かあればすぐ動ける距離だけを保った。


 青山が角を曲がった。


 清瀬は足を速める。


 角の先には、古い建物に挟まれた小さな公園があった。


 色褪せたベンチと自動販売機が一台あるだけで、遊具はない。公園の奥から細い道を一本抜ければ、白瀬真帆が殺された解体予定区域へ入る。


 青山は公園の入口で立ち止まり、塀へ片手をついている。


「来るな」


 掠れた声が聞こえた。


「来るな……来るな」


 青山は腹を押さえ、苦しそうに身体を折り曲げた。


「腹が、減った」


 清瀬は建物の陰に身を寄せたまま、青山の様子をうかがった。


 体調を崩しているだけなのか、誰かを待っているのか。


 今の段階では判断できない。


 ただ、何かあればすぐに飛び出せるよう、わずかに腰を落とした。


 その時、反対側の通りから足音が近づいてきた。


「拓斗?」


 若い女性の声だった。


 青山の肩が跳ねる。


 街灯の下に、一人の若い女性が姿を現した。


 青山はゆっくりと顔を上げた。


 その口元が、笑っているように歪んだ。



## 1-8


 林敦子は、公園の入口で足を止めた。


 青山の様子が、電話で想像していたよりも明らかにおかしい。


 背中を丸め、片手で腹を押さえている。顔色は街灯の下でも分かるほど青白く、荒い呼吸を繰り返していた。


「どうしたの。具合悪いの?」


 敦子が一歩近づく。


 青山は答えない。


 街灯の下で、歪んだ口元が小さく震えた。


 その目は敦子だけを追っている。だが、恋人へ向けるものではなかった。


「拓斗?」


「来るな」


 青山の唇が震えた。


「え?」


「来るな。帰れ」


 声だけを聞けば、拒絶しているようだった。


 だが、身体は敦子へ向かって一歩踏み出している。


 ポケットから抜かれた右手には、古びたコインが握られていた。


 指先の爪は黒ずみ、獣のように鋭く伸びている。掌には、爪が食い込んだ傷から血が滲んでいた。


 敦子の表情が強張る。


「その手……どうしたの」


 青山の鼻が、微かに動いた。


 敦子の匂いを確かめるように、ゆっくりと息を吸う。


 喉が鳴った。


「逃げろ!」


 清瀬が物陰から飛び出した。


 敦子が振り向く。


 同時に、青山が地面を蹴った。


 一瞬だった。


 数メートルあった距離を詰め、敦子へ右手を伸ばす。


 清瀬は二人の間へ身体を滑り込ませた。


 青山の腕を外側へ払い、胸元へ肩をぶつける。そのまま腰を入れ、勢いを利用して投げようとした。


 動かない。


 人間一人を相手にしているとは思えない重さだった。


 青山の左手が、清瀬のコートを掴む。


 次の瞬間、清瀬の身体が宙へ浮いた。


「っ!」


 背中から地面へ叩きつけられる。


 肺から空気が押し出された。


 青山は清瀬を見ようともせず、敦子へ向き直った。


 敦子は動けない。


 目の前で起きたことを理解できず、青山を見つめたまま立ち尽くしている。


「走れ!」


 清瀬は身体を起こし、青山の脇腹へ踏み込んだ。


 右の拳を叩き込む。


 手応えはあった。


 だが、青山はわずかによろめいただけだった。


 振り向きざまに腕を薙ぐ。


 清瀬は両腕で受けたが、衝撃を殺しきれない。靴底が地面を滑り、ベンチへ肩をぶつけた。


 常人の力ではない。


 薬物か。


 それとも、ヨミが言っていたアーティファクトとやらの力なのか。


 馬鹿げている。


 そう切り捨てたいのに、目の前の現実が許さなかった。


 青山が再び敦子へ向かう。


 清瀬は背後から腰へ組みつき、全体重をかけて引き倒した。


 二人の身体が地面へ転がる。


 青山は獣のような声を上げ、清瀬の肩へ爪を立てた。


 コートの布が裂ける。


 鋭い痛みが走った。


 それでも清瀬は離さない。


「そこから逃げろ!」


 清瀬の叫びに、敦子がようやく我に返った。


「拓斗、やめて!」


 敦子の叫びが、公園に響いた。


 青山の動きが止まる。


 清瀬の肩へ食い込んでいた指から、力が抜けた。


「……敦子?」


 濁っていた目に、一瞬だけ人間らしい光が戻る。


 青山は、自分の爪が裂いた清瀬のコートを見た。


 次に、怯え切った敦子の顔を見る。


「違う」


 青山の顔が恐怖に歪んだ。


「俺じゃない。俺は、こんなこと……」


 清瀬の拘束を振りほどき、立ち上がる。


「待て!」


 青山は公園の奥へ走り出した。


 清瀬も追おうとしたが、背後から小さな声が聞こえた。


「拓斗……」


 敦子がその場に座り込んでいる。


 両腕で自分の身体を抱き、震えていた。


 青山を追うか。


 敦子を守るか。


 迷ったのは一瞬だった。


 清瀬は青山の消えた方向へ視線を向け、すぐに敦子のもとへ戻った。


「怪我は」


 敦子は首を横へ振った。


「あなたは、誰なんですか」


「警察だ」


 清瀬は身分証を見せた。


 敦子は写真と清瀬の顔を何度も見比べる。


「名前は」


「林……敦子です」


「拓斗が、何を……」


「話は後だ。ここから離れる」


 清瀬は敦子を立たせ、公園から表通りへ連れ出した。


 少し戻った場所に、深夜営業の飲食店が一軒だけ残っていた。


 店内には店員と数人の客がいる。


 清瀬は敦子を奥の席へ座らせると、若い店員へ警察手帳を見せた。


「この女性を一人にしないでください。迎えの警察官が来ます」


 店員は戸惑いながらも頷いた。


 清瀬は店の外へ出て、スマートフォンを取り出した。


 連絡したのは、同じ捜査班の若い刑事だった。


『清瀬さん? こんな時間にどうしたんですか』


「保護してほしい女性がいる。場所を送る」


『保護って、何があったんです』


「説明は後だ。林敦子。臓器欠損事件の参考人になる可能性がある」


 電話の向こうで息を呑む気配がした。


『まさか、まだあの事件を追ってるんですか』


「今は彼女の安全が先だ。できるだけ早く来い」


『清瀬さんはどうするんです』


「青山拓斗を追う」


 返事を待たず、通話を切った。


 店内を見る。


 敦子は店員から渡された水にも手をつけず、青ざめた顔で俯いている。


 ここなら、一人で公園に残すよりは安全だ。


 清瀬は青山が逃げた方向へ走った。


 公園へ戻り、その奥の細い道へ入る。


 しかし、青山の姿はどこにもなかった。


 足音も聞こえない。


 再開発区域には細い路地と、立入禁止の建物が複雑に入り組んでいる。


「くそっ」


 清瀬は周囲を見回した。


 どこへ逃げた。


 闇雲に探せば、さらに差が開く。


 その時、ヨミが残した言葉が蘇った。


 青山を見失ったら、最初の現場を思い出して。


 始まりの場所は、逃げ場所にもなる。


 清瀬は顔を上げた。


 一件目の事件現場。


 白瀬真帆が殺された、旧店舗兼住宅。


 ここから遠くない。


「当たってなかったら、今度こそ逮捕するからな」


 ここにいないヨミへ吐き捨てる。


 清瀬は進路を変え、解体予定区域の奥へ走り出した。



## 1-9


 解体予定区域の奥へ進むにつれ、街の音が遠ざかっていった。


 清瀬の足音だけが、古い建物の間に響いている。


 肩の傷が走るたびに痛んだ。裂けたコートの下では、シャツに血が滲んでいる。


 それでも足は緩めない。


 白瀬真帆が発見された旧店舗兼住宅が見えてきた。


 立入禁止のテープは、前に来た時と同じように入口を塞いでいる。


 ただし、その一部だけが引きちぎられ、地面へ垂れていた。


 清瀬は足を止める。


 建物の中から、荒い呼吸が聞こえた。


「当たりかよ」


 ヨミの得意そうな顔が浮かび、腹立たしさと安堵が同時に込み上げる。


 清瀬は呼吸を整え、入口をくぐった。


 中は暗い。


 割れた窓から差し込む街灯の光が、床に細長く伸びている。


 以前よりも空気が冷たかった。


 一歩進むたび、靴底の下で乾いたものが砕ける。


 白灰色の粉だった。


 部屋の奥に、人影がある。


 青山は床へ膝をつき、右手を胸元へ抱え込んでいた。


 肩を大きく上下させ、何かから身を守るように身体を丸めている。


 その場所を見て、清瀬は眉を寄せた。


 そこは、ヨミと初めて会った時、彼女が白灰色の粉を調べていた場所だった。


 この事件が始まった場所。


「青山拓斗」


 清瀬が名前を呼ぶ。


 青山の肩が跳ねた。


「来るな」


「林敦子は無事だ」


 青山が顔を上げる。


 灰色に濁りかけていた目に、わずかな光が戻った。


「敦子は……」


「怪我はない。安全な場所にいる」


 青山の口から、詰めていた息が漏れた。


 安堵したようにも、泣いているようにも聞こえた。


「俺は、また……」


「まだ誰も死んでいない」


 清瀬は青山から目を離さず、ゆっくりと距離を詰める。


「右手に持っている物を、床へ置け」


 青山は胸元へ抱えた手を見下ろした。


 青山が清瀬を睨んだ。


「これを奪うつもりか」


「俺をまた、何もできなかった頃に戻すつもりなんだろ」


「違う。これ以上、誰も傷つけないために置けと言っている」


「嘘だ!」


 青山の叫びが、空の建物へ反響した。


「みんなそうだ。怪我をしたら、俺から全部取り上げた。試合も、居場所も……今度は、あんたがこれを持っていくのか」


 清瀬はそれ以上近づかず、両手を青山から見える位置に置いた。


「奪うために来たんじゃない。お前を止めるために来た」


 青山の表情が歪んだ。


 怒りに見開かれていた目から、涙が溢れる。


「だったら……どうすればいいんだよ」


 先ほどまでの怒鳴り声が、子供のように弱い声へ変わった。


「助けてくれ。俺じゃ、もうどうにもできない」


 清瀬が半歩近づく。


「来るな!」


 青山は怯えたように後ずさり、コインを抱え込んだ。


 清瀬はすぐに足を止めた。


「分かった。ここから動かない」


 青山は泣きながら頭を振った。


「でも、行かないでくれ」


 清瀬は答えず、その場に立ち続けた。


 握り締めた拳から血が滴り、床の粉へ赤い染みを作る。


「捨てようとした。でも、手が開かなかった。こいつが離れないのか、俺が離したくないのかも、もう分からない」


 清瀬は黙って話を聞いた。


「それを持ってから、身体が動くようになったんだな」


 青山は答えない。


 沈黙が、何よりも雄弁だった。


「手放したら、また戻る」


 やがて、青山が掠れた声で言った。


「走れなかった頃に。誰にも必要とされなかった頃に」


「だから持ち続けるのか」


「違う。もう嫌なんだ。腹が減るのも、夢を見るのも、人を傷つけるのも」


 青山は頭を振った。


「でも、これがなくなったら、俺には何も残らない」


 清瀬は、青山の右膝へ目を向けた。


 怪我をする前の力を取り戻し、レギュラーへ返り咲いた。


 その代償として三人が死んだのだと、ヨミは言っていた。


「他の三人も、俺がやったのか」


 青山が尋ねた。


 清瀬はすぐには答えなかった。


「覚えていないのか」


「夢だと思ってた。夢じゃないと分かってた。でも、そう思わないと……」


 声が震え、続きは言葉にならなかった。


 清瀬は短く息を吐いた。


「分かってる。少なくとも、お前が望んでやったんじゃない。お前にそうさせたのは、右手にあるそれなんだろ。だから、まず手放せ」


 青山が清瀬を見る。


「今なら、まだ止まれる」


 しばらく、どちらも動かなかった。


 やがて青山が、左手を右の拳へ添えた。


 一本ずつ、無理やり指を開こうとする。


 爪が皮膚を裂き、血が流れる。


 それでも、固く閉じた指が少しずつ動いた。


 古びたコインの縁が、指の隙間から覗く。


「そのままだ」


 清瀬は声を落とした。


「ゆっくりでいい」


 あと一本。


 最後の指がコインから離れようとした、その時だった。


 床に散った白灰色の粉が、微かに震えた。


 青山の指の隙間から、白い冷気が細く漏れ出す。


「刑事さん。そこから離れて」


 背後から声がした。


 清瀬が振り返る。


 入口にヨミが立っていた。


 いつもの笑みを浮かべているが、わずかに顔色が悪い。


「遅い」


「これでも急いだんだよ」


「何が起きてる」


 ヨミは答えず、青山の拳から覗くコインを見た。


 笑みが消える。


「そのコインは、青山君を逃がすつもりがない」


 青山がヨミを見る。


「誰だ、お前」


「ただの美人過ぎる名探偵さ」


 誰も反応しなかった。


 冷えた室内に、短い沈黙が落ちる。


 ヨミの笑みがわずかに引きつった。


「……今のは忘れて」


 ヨミは床に散った白灰色の粉へ視線を落とした。


「ここは、そのコインがこちら側へ流れ着いた場所だ。そして、初めて飢えを満たした場所でもある」


「だから戻ってきたのか」


 清瀬が尋ねる。


「青山君が選んだというより、コインに連れ戻されたんだろうね。ここなら、コインに残った力が一番強く働く」


 白灰色の粉が床の上で跳ね、指の隙間から漏れていた冷気が一気に膨れ上がった。


 室内の温度が急激に下がる。


 清瀬が吐いた息は白く染まり、割れた窓に残っていたガラスが端から曇り始めた。露出した肌を刺すような冷気が、建物の奥から押し寄せてくる。


「っ、あ……」


 青山の身体が大きく痙攣した。


 開きかけていた指が、再びコインを握り締める。


「離れろ!」


 ヨミが叫んだ。


 清瀬は反射的に後ろへ跳ぶ。


 直後、青山の足元から白い霜が一気に広がった。


 床板が音を立てて軋む。


 青山は両腕で身体を抱き、喉が裂けそうな悲鳴を上げた。


 背中が不自然に反る。


 腕の筋肉が膨れ、黒ずんだ爪がさらに伸びていく。


 口元が、内側から引き裂かれるように歪んだ。


「助け……」


 青山の声に、獣の唸りが重なる。


「助けて、くれ……」


 清瀬が一歩踏み出そうとする。


 ヨミが片腕を伸ばし、その前を塞いだ。


「もう、話をして止められる段階じゃない」


「だから見捨てるのか」


「逆だよ」


「止めるために、まず叩き伏せる」


 青山が顔を上げた。


 両目は、氷を思わせる灰白色へ濁っている。


 裂けた口元から白い息を吐き、青山ではない声で呟いた。


「ハラガ、ヘッタ」



## 1-10


 青山の頭が、不意に清瀬の方を向いた。


 灰白色に濁った目が、裂けたコートの肩口へ吸い寄せられる。


 清瀬の傷から滲んだ血を見ていた。


「青山」


 呼びかけに反応はない。


 青山は床を蹴った。


 一歩で間合いを潰し、黒ずんだ爪を清瀬の胸元へ振り下ろす。


 清瀬は身体を捻ってかわした。


 爪が裂けたコートをさらに切り開く。清瀬は青山の手首を掴み、その勢いを利用して床へ投げようとした。


 動かない。


 公園で組み合った時より、さらに力が増している。


 青山が腕を振る。


 清瀬の身体は軽々と持ち上がり、崩れた壁へ投げつけられた。


「っ……青山、止まれ!」


 清瀬は床を転がりながら拳銃を抜いた。


 青山は四つん這いになり、獣のような呼吸を繰り返している。


 次の瞬間、再び清瀬へ飛びかかった。


 狙いを下げ、引き金を絞る。


 銃声が、旧店舗兼住宅の中を揺らした。


 弾丸が青山の右脚を撃ち抜く。


 青山は勢いを失い、床へ倒れ込んだ。


 清瀬は拳銃を構えたまま立ち上がる。


「動くな」


 青山の右脚から血が流れている。


 だが、傷口の周囲に白い霜が生まれた。肉が泡立つように蠢き、開いていた穴が内側から塞がっていく。


 流れていた血が止まった。


「再生した……?」


 青山が立ち上がる。


 撃たれた右脚で床を踏み締め、何事もなかったかのように清瀬へ顔を向けた。


 清瀬は両手で拳銃を構え直す。


 次はどこを撃つ。


 脚で止まらないなら、腕か。それでも止まらなければ。


 青山が床を蹴った。


 清瀬は照準を上げ、迫る青山を迎え撃とうとした。


 その時、コートの背中を強く引かれた。


「なっ――」


 視界が反転する。


 清瀬の身体は後方へ投げ飛ばされ、床を滑った。


 先ほどまで清瀬がいた場所に、ヨミが立っている。


 華奢な背中へ、青山が爪を振り上げる。


 ヨミは振り返りざまに、青山の腹へ蹴りを叩き込んだ。


 鈍い音が響く。


 青山の身体が床から浮き、そのまま部屋の奥まで吹き飛んだ。積み上がっていた廃材へ背中から突っ込み、木片と埃が舞い上がる。


 清瀬は言葉を失った。


 変貌する前の青山にさえ、自分は力で押し負けた。


 その青山を、自分よりはるかに小柄な女が蹴り飛ばした。


 ヨミは清瀬の拳銃へ目を向けた。


「それを使うなら、頭を狙わないと駄目だよ」


「青山を殺す気か」


「その方が簡単だと言ってるだけさ」


 廃材が弾け飛ぶ。


 青山が瓦礫の中から起き上がった。口元から白い息を吐き、ヨミを睨んでいる。


 先ほどまで清瀬だけへ向けられていた飢えに、明確な警戒が混じっていた。


 ヨミは楽しそうに笑った。


「せっかくだ。アーティファクトに呑まれた人間への対処法を見せてあげよう」


 右手を持ち上げる。


 人差し指にはめられた指輪が、赤紫色の怪しい光を放った。


「狂わせ――混沌の影」


 ヨミの足元から、影が音もなく広がった。


 床を這い、壁を登り、割れた窓から差し込む街灯の光まで塗り潰していく。


 部屋が暗くなったのではない。


 別の何かに呑み込まれている。


 清瀬には、そう感じられた。


 広がった影の中で、五つの目が開いた。


 形も大きさも違う目が、ぎょろぎょろと動きながら青山を見つめる。


 冷気とは違う悪寒が、清瀬の背筋を這い上がった。


 本能が告げている。


 目の前にいる女は、人間の側に立っているだけで、人間と同じものではない。


 青山も危険を察したらしい。


 ヨミへ向かうのをやめ、入口へ身体を向けた。


 逃げようと床を蹴る。


 しかし、足は動かなかった。


 影が両足首へ絡みついている。


「グ、ゥ……!」


 青山は無理やり脚を持ち上げようとした。


 影は剥がれない。


 黒い蔦のように脛から膝へ、膝から腰へと這い上がり、青山の身体を締め上げていく。


 両腕が胴へ縛りつけられた。


 首まで登った影が、口元と頬を覆う。


 それでも止まらず、灰白色に濁った目の周囲へ到達した。


 ヨミは、拘束された青山の前まで歩いていく。


「青山君、君は運がいい」


 青山の顔を覗き込み、笑った。


「刑事さんに感謝しないとね」


 影に浮かんでいた五つの目のうち、二つが閉じる。


 次の瞬間、閉じた目が黒い影から浮かび上がった。


 形を失い、二筋の黒い液体となって青山の両目へ入り込む。


 青山の身体が大きく跳ねた。


「ア、アア……」


 喉の奥から、掠れた声が漏れる。


「アアアアアアアッ!」


 絶叫が建物を揺らした。


 青山は影の中でもがき、目を閉じようとする。しかし、瞼の内側から黒い目が開き、何かを見せ続けているようだった。


「やめろ! 見たくない! 来るな、来るな!」


 獣の声が消え、青山自身の悲鳴へ変わっていく。


 伸びていた爪が割れ、黒い欠片となって床へ落ちた。


 裂けていた口元が元の形へ戻り、膨れ上がっていた筋肉もしぼんでいく。


 やがて青山は力を失い、影に拘束されたままぐったりと項垂れた。


 ヨミが右手を下ろす。


 指輪の光が消えた。


 床と壁を覆っていた影が、一斉にヨミの足元へ戻っていく。青山を支えていた影も消え、その身体が床へ倒れた。


 力の抜けた右手が開く。


 古びたコインが掌からこぼれ、乾いた音を立てて床を転がった。


 ヨミはそれを拾い上げた。


 指先で表裏を確かめ、眉を寄せる。


「やっぱり、ゴミか」


 小さく舌打ちして、コインをポケットへ入れた。


「これは今回の解決報酬として貰っておくね」


「待て。それは証拠品だ。こっちへ渡せ」


 清瀬は拳銃を収めながら、ヨミへ近づいた。


「それと、一つ聞く。今のもアーティファクトなのか」


「そうだよ。私が持っているアーティファクトの能力さ」


「その指輪か」


「ご名答」


 ヨミは右手を持ち上げ、指輪を清瀬へ見せた。


 能力の正体は分かった。だが、それとは別に、清瀬の中にはヨミ自身への疑問が芽生えていた。


 アーティファクトと、それが人間を変異させる危険性を知り、その力を自在に使いこなしている。


 警察より早く青山へたどり着き、三件の殺人とのつながりまで見抜いていた。


 それほどの人間が、食べ物の匂いに気を取られて尾行相手を見失う。


 張り込みでは加減も考えず菓子や菓子パンを食べ続け、肝心な場面で腹痛を起こして離脱した。


 ただの間抜けで片づけるには、出来すぎている。


「もう一つだ」


 清瀬はヨミの目を見た。


「腹痛は本当だったのか」


 ヨミは呆れたように目を細めた。


「女性に腹痛のことを詳しく聞くのは、セクハラじゃない?」


「話を逸らすな」


「分かった、分かったよ。腹痛は本当だよ」


 ヨミは腹部を軽く押さえてみせる。


「そもそも、あそこで嘘をつくメリットが私にあるかい?」


 ある。


 俺を一人で青山のもとへ向かわせれば、青山がどう動くかを安全な場所から観察できる。


 あるいは、異常を前にした俺がどんな行動を取るのか試すこともできる。


 それ以外にも、青山をすぐには止めず、さらに何かが起きるのを待つ理由があったのかもしれない。


 ヨミが何を待っていたのか。そもそも、本当に何かを待っていたのか。今の清瀬には判断できなかった。


 腹痛そのものが本当でも、それを理由に離れたことまで偶然とは限らない。


 だが、証拠はなかった。


「……分かった。今はそれでいい」


 清瀬はヨミのポケットを指した。


「とりあえず、青山が持っていた物を渡せ」


「嫌だよ。事件を解決した報酬だって言ったでしょ」


「殺人事件の証拠品を勝手に報酬にするな」


「先に拾ったのは私だよ」


「子供みたいな理屈を言うな」


「それじゃ、半分にする?」


「できるわけがないだろ」


 床に倒れていた青山が、微かに身じろぎした。


「……う」


 清瀬が振り返る。


 青山の目が開いた。


 焦点の合わない瞳が宙をさまよい、次の瞬間、大きく見開かれる。


「う、うわああああっ!」


 青山は頭を抱え、床の上で身体を丸めた。


「青山!」


 清瀬は駆け寄り、その肩を押さえる。


「何が見える。俺の声が聞こえるか」


「目が、目が……まだ、見てる……!」


 清瀬がヨミを振り返った時には、彼女は入口まで移動していた。


「待て、天月!」


 ヨミは足を止めず、肩越しに振り返る。


「青山君のそれは一時的なものだから、すぐ収まると思うよ。安心して」


「どこへ行く。コインを置いていけ!」


「念のため、落ち着いたらカウンセリングを受けさせてあげて。それじゃあ、刑事さん。後はよろしく」


「おい!」


 ヨミはひらひらと手を振り、建物の外へ消えた。


 追いかけることはできなかった。


 清瀬の腕の中では、青山が存在しない何かに怯え、悲鳴を上げ続けている。


 事件の容疑者は確保した。


 だが、事件を引き起こした証拠は、得体の知れない探偵に持ち去られた。


 その探偵が何者なのかも、清瀬にはまだ何一つ分からなかった。



## 1-11


 昼時を少し過ぎた古い定食屋は、油と味噌汁の匂いが染みついていた。


 色褪せた品書きが壁に並び、カウンターの端に置かれた小型テレビから、昼のニュースが流れている。


 清瀬は焼き魚定食の前で箸を止めていた。


 向かいに座る若い刑事は、注文した生姜焼きにほとんど手をつけていない。


「すみません」


 今日に入って、三度目だった。


「もう謝るな」


「でも、俺があの人たちに話したから」


「お前のせいじゃない」


 清瀬は冷めかけた味噌汁を口へ運んだ。


「連絡したのは俺だ。お前は命令に従った。それだけだ」


「それでも……」


 若い刑事の声を、テレビのアナウンサーが遮った。


『灰月市内で若い女性三人が相次いで殺害された事件で、警察は国立灰月大学三年の青山拓斗容疑者を逮捕しました』


 画面が切り替わり、国立灰月大学の正門と、ブルーシートで覆われた一件目の現場が映る。


『青山容疑者の関係先から違法薬物が押収されており、警察は薬物の常用による幻覚や興奮状態が犯行に影響した可能性があるとみて、入手経路についても調べています』


 違法薬物。


 そんなものは、青山の部屋にも、あの旧店舗兼住宅にもなかった。


 清瀬が見たのは、古びた一枚のコインだった。


 人間を怪物へ変え、銃で撃ち抜いた傷さえ塞いだ物。


 そして、それを持ち去った探偵。


『青山容疑者は現在、治療を受けており――』


 清瀬はテレビから目を逸らした。


 昨夜、青山を確保した後のことが脳裏に蘇る。


          *


 ヨミが旧店舗兼住宅から姿を消してしばらくすると、青山の悲鳴は少しずつ弱くなった。


 清瀬は青山を仰向けに寝かせ、両手に手錠を掛けた。


 呼吸と脈を確かめる。


 どちらも乱れているが、命に関わる状態には見えない。撃ち抜いたはずの右脚には、傷痕すら残っていなかった。


 自分の肩の傷だけが、現実に起きたことを証明するように痛んでいた。


 清瀬はスマートフォンを取り出し、若い刑事へ電話をかけた。


 数回の呼び出し音の後、相手が出る。


『清瀬さん』


 声が硬い。


「林敦子は」


『無事です。店へ迎えに行って、今は署で保護しています。怪我もありません』


 清瀬は短く息を吐いた。


「こっちも青山拓斗を確保した。事件の重要参考人だ。意識が混濁している。車と、できれば救急の人間を連れて迎えに来い」


『……分かりました』


 返事までに、妙な間があった。


「どうした」


『いえ、何でもありません。すぐに向かいます』


 背後で、誰かが話す気配がした。


「お前、今どこにいる」


『署です。それじゃ、切ります』


 通話が途切れた。


 清瀬は画面を見つめた。


 何かを隠している。


 それから十五分ほどして、建物の外から複数の車が近づく音が聞こえてきた。


 一人の刑事が迎えに来るにしては、車の数が多い。


 清瀬は立ち上がり、入口へ向かった。


 最初に姿を見せたのは、若い刑事だった。


「清瀬さん」


 安堵したように駆け寄ろうとする。


 その後ろから、黒いコートの男が現れた。


「こんばんは。清瀬さん」


 赤羽透真は、三件目の現場で会った時と変わらない軽い調子で片手を上げた。


 さらに二人、黒い外套を着た人間が続く。


 一人は、三件目の現場で本部命令の書類を差し出した女だった。黒髪を後ろで束ね、薄い書類鞄を抱えている。


 もう一人は、入口を塞ぎかねないほど大柄な男だった。厚い肩幅に黒い外套が張りつき、無言のまま室内へ視線を走らせている。


 救急隊員の姿はない。


 代わりに、黒い車が二台、建物の前へ停まっていた。


 清瀬は若い刑事を見る。


「どういうことだ」


「すみません。林敦子さんを保護しに署を出ようとした時、赤羽さんに呼び止められたんです」


 若い刑事は、悔しそうに拳を握った。


「こんな時間にどこへ行くのかって聞かれて……何でもないと言ったんですけど、通してもらえませんでした」


「それで、林敦子のことを話したのか」


「はい。ただ、先に保護させてほしいと言ったら、それは認められました。林さんを署へ連れて戻ったところで、清瀬さんから二度目の電話が来て……」


 その時には、赤羽たちがそばにいた。


 電話口で歯切れが悪かった理由を、清瀬はようやく理解した。


「謝らなくていいですよ」


 赤羽が穏やかに口を挟んだ。


「命令に従っただけですから」


 清瀬は赤羽を睨んだ。


「盗み聞きの間違いだろ」


「人聞きが悪いなあ。情報共有ですよ」


 女が書類鞄から一枚の紙を取り出し、清瀬へ差し出した。


「本件は、これより特殊凶悪事件捜査課が引き継ぎます。青山拓斗の身柄をこちらへ移送してください」


「怪我人だ。先に病院へ運ぶ」


「必要な処置はこちらで行います」


 女の声に感情はない。


 大柄な男が青山のそばへ膝をついた。首筋へ指を当て、瞼を開き、手際よく状態を確認していく。


 見た目に反して、動作は慎重だった。


「生命に問題はない」


 低い声で、それだけ告げる。


 赤羽は床を見回した。


 白灰色の粉。砕けた床板。青山の黒い爪が崩れた欠片。


 そして、何かを探すように目を細めた。


「青山さんが持っていた物は、どこです?」


「何のことだ?」


「質問しているのは俺なんですけどね」


 赤羽は笑っている。


 その笑みの真意は、やはり読めなかった。


「心当たりがないなら、今はそれで構いません」


 赤羽はあっさりと引いた。


 清瀬のとぼけた言葉を信じたようには見えなかった。


 大柄な男が青山を抱え上げる。


「待て。まだ話は終わってない」


「続きは場所を変えましょう」


 赤羽が女へ目配せした。


 新しい書類が清瀬の前へ差し出される。


「拳銃使用を含む本件の状況確認のため、同行をお願いします」


「断ったら」


「上司から、同じ命令が届きます」


 赤羽は申し訳なさそうに眉を下げた。


「手間が増えるだけなので、できれば仲良く来てください」


 清瀬は若い刑事を見た。


 何かを言おうとしている。


「林敦子のそばにいろ」


「でも、清瀬さん」


「命令だ」


 若い刑事は唇を噛み、赤羽たちへ道を空けた。


 清瀬は特殊凶悪事件捜査課の黒い車へ乗せられた。


          *


「それで」


 若い刑事の声で、清瀬は定食屋へ意識を戻した。


 テレビでは、青山の大学時代の成績や、怪我による長期離脱について解説している。


「連れていかれた後、何があったんですか」


「事情を聞かれた」


「どんな」


 清瀬は焼き魚の骨を箸で外した。


「特に何もなかった」


「そんなわけないでしょう」


「飯が冷めるぞ」


「もう冷めてますよ」


 若い刑事は納得していない。


 それでも清瀬が答えないと分かると、渋々箸を持った。


 特に何もなかった。


 口にした言葉とは反対に、清瀬の脳裏には、赤羽と向かい合った部屋の光景が鮮明に残っていた。


          *


 連れていかれた先は、灰月市警察本部の中にあるはずなのに、清瀬が一度も見たことのない部屋だった。


 窓はない。


 机と椅子が二脚ずつ。壁際には記録用のカメラがあるが、作動を示すランプは消えている。


 清瀬の拳銃は、一時確認という名目で女に預けさせられた。


 向かいに座る赤羽は、紙のカップに入ったコーヒーを清瀬の前へ置いた。


「どうぞ。長い夜でしたから」


「お前から貰ったものを口にする気はない」


「信用ないなあ」


「あると思ってたのか」


「少しくらいは」


 赤羽は自分の分のコーヒーを一口飲んだ。


「では、お話をしましょう。まず、清瀬さんはどうして青山拓斗さんが今回の事件に関わっていると知ったんですか?」


「情報提供者がいた」


「なるほど。私たち警察も知らない情報を持っている方がいたんですね。ぜひ紹介してほしいです」


 何が、私たち警察だ。


 捜査を奪い、現場の刑事へ何一つ明かさない連中が、都合のいい時だけ同じ側のような顔をする。


 清瀬は赤羽を睨んだ。


「断る」


「残念です」


「それでは、起こったことを聞かせてください」


 清瀬は、情報提供者やアーティファクトについて伏せたまま、公園で青山と接触するまでの経緯を話した。


 赤羽は聞き終えると、確認するように内容をまとめた。


「青山を二日間見張り、昨夜、下宿を出たから後を追った。青山は公園で林敦子さんに襲いかかり、清瀬さんが止めると逃走した」


「逃走先が、旧店舗兼住宅だった」


「ああ。追いついた俺にも襲いかかってきた。制止して取り押さえた。それだけだ」


「林さんにも話を聞いたのですが、青山さんの姿が変わったという趣旨の話をしているんです。何か心当たりはあります?」


「さあな。周りは暗かったし、急に襲われて、パニックでそう見えたのかもな」


「そうですか」


 赤羽は手元の書類を閉じ、清瀬をまっすぐ見た。


「清瀬さん。もう、お互いに隠し事はなしにしませんか?」


 清瀬は机へ手を置いた。


「どういう意味だ」


「言葉どおりです。清瀬さん、本当は知っているでしょう? アーティファクトと、それに侵食された人間のこと」


「何の話だ」


「青山さんはアーティファクトを持っていた。その力の影響で、青山さんの身体は怪物に近づいていた」


「そして、清瀬さんに情報を提供した人物もアーティファクトを持っており、その力で青山さんを倒し、青山さんのアーティファクトを持ち去った」


 赤羽は清瀬の反応を確かめるように、わずかに首を傾けた。


「大体、こんなところですか?」


 清瀬は表情を変えなかった。


 だが、内心では驚いていた。


 赤羽たちが現場へ到着した時には、すでにあの探偵は姿を消していた。それなのに赤羽は、そこで起きたことを見ていたかのように言い当てている。


「最初から知ってるなら、俺を呼ぶ必要はないだろ」


「清瀬さんの口から確認する必要があります」


 赤羽は閉じた書類の上に手を置いた。


「清瀬さん。私たちに協力しませんか?」


「協力だと?」


「はい。実は、私たち、すごく忙しいんですよ」


 赤羽は世間話でもするような調子で続けた。


「今回のような軽い事件にまで、手を回す余裕がないことがありまして。そこで、清瀬さんに協力してほしいんです」


「軽い事件だと?」


 清瀬の拳が机を叩いた。


 紙のカップが跳ね、手つかずのコーヒーが縁からこぼれる。


「三人殺されてる。林敦子も殺されかけた。青山だって、あのままなら人間に戻れなかった。それを軽い事件で片づけるのか」


 赤羽は笑みを消さなかった。


「被害者の命が軽いと言ったわけではありません。俺たちの基準では、対処の難度が低いという意味です」


「同じに聞こえる」


「言い方が悪かったことは謝ります。ですが、清瀬さんも見ましたよね? アーティファクトを自在に操る人間を」


 赤羽は机の上で両手を組んだ。


「清瀬さん。知性のない獣と、強力な武器を持った人間。どちらが恐ろしいと思いますか?」


 清瀬は答えなかった。


 青山から感じたのは、初めて未知の怪物と遭遇した恐怖だった。常識外れの力を持っていても、その行動は飢えに従う獣と変わらない。


 だが、あの探偵は違う。


 普段は笑いながら人間の隣に立ち、底の見えない力と目的を隠している。青山を生かしたのも、清瀬が望んだからにすぎない。


 青山に感じたものが未知への恐怖なら、あの探偵から感じたものは、正体も限界も分からない底知れない恐怖だった。


 答えは、考えるまでもなかった。


 だが、清瀬はそれを赤羽へ教えるつもりはなかった。


「捜査を奪って、何も説明しない連中を信用しろと?」


「信用しなくても大丈夫です。警察の中にも、アーティファクトについて知っている人がいます」


 赤羽は、清瀬をなだめるように両手を軽く広げた。


「清瀬さんにお願いするのは、その人のもとで、今回のような事件を捜査して解決してもらうことだけです」


「それと、回収したアーティファクトはこちらへ渡してください」


「俺を監視下に置きたいだけだろ」


「それもあります」


 赤羽は悪びれもせず認めた。


「返事は?」


「断る」


「そうですか。それでは、少し話を変えて、青山さんの話をしましょう」


「青山に何かしたのか」


「いいえ。今からします」


 清瀬は椅子を蹴るように立ち上がり、机越しに赤羽の胸倉を掴んだ。


「青山に何をするつもりだ」


 赤羽は清瀬の手首へ片手を添えた。


 次の瞬間、胸倉を掴んでいた指が外され、清瀬の腕は机の上へ押し戻されていた。


 力を込め直す暇さえなかった。


 赤羽は清瀬より細身で、体格も劣っている。それなのに、清瀬は抵抗らしい抵抗すらできず振りほどかれた。


 あの探偵に続いて、まただ。


 こいつもアーティファクトの力を使っているのか。


「落ち着いてください、清瀬さん。ちゃんと説明しますので」


 赤羽は乱れた襟元を直し、何事もなかったように椅子へ座り直した。


「アーティファクトの影響があったとはいえ、青山さんが三人を殺した事実は消えません。そこは変えられないし、変えるつもりもありません」


「それなら、何をする」


「青山さんは、アーティファクトの存在を知ってしまった。失った力を求め、また別のアーティファクトへ手を伸ばす危険があります」


 赤羽は淡々と続ける。


「そこで、青山さんの記憶を改変します。アーティファクトによって起きた異常を、違法薬物の影響で起きたものへ置き換える」


「そんなことができるのか?」


「はい、できます」


「ふざけるな。他人の記憶を勝手に書き換えるつもりか」


「では、すべて残しますか?」


 赤羽の声から、わずかに軽さが消えた。


「青山さんには、アーティファクトを捨てる機会が何度もあった。それでも力を失うことを恐れ、持ち続けた。その結果、三人が死んだ」


「だからといって、記憶を弄っていい理由にはならない」


「人間の身体を引き裂き、内臓を食べた感触まで、一生抱えて生きる方が正しいと?」


 清瀬は言葉に詰まった。


「罪は消しません。青山さんは裁かれます。ただ、本人に残す記憶は、怪物になって人を食べた記憶より、薬物に溺れて人を殺した記憶の方がまだましです」


「それを、お前たちが決めるのか」


「誰かが決めなければなりません」


 赤羽は再び、普段の軽い笑みを浮かべた。


「アーティファクトについて深く知った人は、再発防止のために記憶を整える場合があります。ただし、こちらへ協力していただける方には、記憶を残したまま働いてもらっています」


 清瀬は赤羽を睨んだ。


 協力を断れば、自分も青山と同じ処置を受ける。


 赤羽は一言もそう明言していない。だが、他に受け取りようのない説明だった。


「脅しか」


「制度の説明です」


 赤羽は涼しい顔で答えた。


「公表される内容は、青山拓斗が違法薬物の影響下で三件の殺人を行った、というものになります。清瀬さんは独自捜査の末に青山さんを発見し、抵抗を受けて拳銃を使用した」


「薬物なんてなかった」


「見つかりますよ」


 あまりに軽い口調だった。


「用意するのか」


「必要な説明を用意します」


 清瀬は紙のカップへ視線を落とした。


 協力を断れば、今夜見たものを奪われるかもしれない。


 受け入れれば、少なくとも警察官として、同じような事件を追い続けられる。


 選択肢があるように見せかけて、最初から答えは一つしか用意されていなかった。


「協力すれば、今回のような事件を警察として捜査できるんだな」


「はい。そのための体制はこちらで整えます」


 清瀬はしばらく黙った後、低い声で答えた。


「……分かった。協力する」


「ありがとうございます」


 赤羽は嬉しそうに笑った。


「ところで、部下の方も一緒にどうですか? あの方はきっと、清瀬さんの助けになりますよ」


 清瀬は、若い刑事の顔を思い浮かべた。


 現場をよく見て、清瀬が無茶をすれば止めようとする。それでも最後には、危険を承知でついてこようとする男だ。


 確かに助けにはなる。


 だからこそ、巻き込むわけにはいかなかった。


「あいつは巻き込まない」


「そうですか。残念です」


 赤羽はあっさりと引き下がった。


「それと、今回の事件で使われたアーティファクトですが、できれば回収したいので、よろしくお願いします」


「協力を引き受けた途端に仕事か」


「早い方がいいでしょう?」


「見つけたら連絡する」


「それで十分です」


「それと、協力していただく清瀬さんには、後でプレゼントを送ります」


「いらん」


「遠慮しなくて大丈夫ですよ。今回のような事件では、きっと役に立ちますから」


 清瀬には、赤羽が何を送りつけるつもりなのか見当もつかなかった。


 コーヒーには、最後まで手をつけなかった。


          *


 テレビから流れていた事件報道が終わり、昼の情報番組へ切り替わった。


 清瀬は現実へ意識を戻した。


 焼き魚はすっかり冷めている。


 向かいでは、若い刑事がまだ何か言いたそうな顔をしていた。


「清瀬さん。本当に、何もなかったんですか」


「何度も言わせるな」


 清瀬は残っていた飯を口へ運び、箸を置いた。


「行くぞ」


 二人は会計を済ませ、定食屋を出た。


 昼過ぎの通りには、会社員や買い物客が行き交っている。テレビで三人の死と犯人逮捕が報じられていても、街は何事もなかったように動いていた。


 清瀬は今朝付で、捜査一課から特別捜査課へ異動していた。


 若い刑事は、これまでどおり捜査一課に残っている。昼食を終えれば、それぞれ別の部署へ戻ることになっていた。


 店の前で、清瀬は若い刑事へ振り返る。


「お前は捜査一課へ戻れ」


「清瀬さんは?」


「特別捜査課へ行く前に、寄るところがある」


「また一人で何かするつもりですか」


 若い刑事の目が険しくなる。


「今回は事件現場じゃない。心配するな」


「その言葉、信用できないんですけど」


「仕事へ戻れ。命令だ」


 若い刑事は納得していない顔をしていたが、やがて諦めたように息を吐いた。


「必ず署に戻ってきてくださいよ」


「分かった」


「本当に分かってます?」


「早く行け」


 若い刑事は何度も振り返りながら、署の方角へ歩いていった。


 その姿が人混みへ消えるまで見届けてから、清瀬は駐車場へ向かった。


 天月探偵事務所の所在地は、調べればすぐに見つかった。


 ヨミが持ち去ったアーティファクトを回収する。


 それだけではない。


 彼女が何者で、何を目的に事件を追っているのか。聞かなければならないことがいくつもある。


 清瀬は車へ乗り込み、端末の地図に表示された住所を目的地へ設定した。


 表示された名称は、天月探偵事務所。


 エンジンをかけ、清瀬は車を発進させた。




読んでくださり、ありがとうございます。クオリティーを上げていけるように頑張っていきます。

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