第2章:陽だまりの片隅で
真昼のゴールデン街は、また違った表情を見せる。
(人間って、時間によって顔付が変わるにゃ~)
私は日陰を選びながら、通りを歩いている。夜の喧騒が嘘のように、静かな時間が流れている。
「はい、承知しました。必ず期限までに……」
千紗が携帯電話で話している声が聞こえてきた。彼女は『キャッツアイ文庫』という小さな古書店の前のベンチに座り、疲れた様子で空を見上げる。
「もう、どうしよう……」
その呟きには、深い悩みが滲んでいる。デビュー作は好評だったのに、次作が思うように進まないらしい。
「ああ、朝の猫ちゃん」
千紗は私に気づき、優しく微笑みかける。
「ちょっと私の小説、読んでくれる? どこが悪いのかわかれば……って、猫に読ませようなんて、何考えてるんだろ……」
彼女は苦笑いを浮かべる。でも私には分かる。誰かに、何かに、すがりたい気持ち。
その時、古書店から誰か出てきた。
「いらっしゃい……あら、千紗ちゃん」
店主の老婆が、温かな眼差しを向ける。倉田志乃、通称・志乃ばあちゃん。この街で40年以上、古書店を営んでいるの。
「志乃さん、こんにちは」
「また行き詰まってるの?」
志乃ばあちゃんは千紗の隣に座る。その仕草には、長年の経験が滲む。
「昔はね、よく作家さんが私の店に来てたのよ。みんな、本に囲まれた空間で考えを整理してたんだろうね」
千紗は黙って聞いている。
「特に夏目漱石先生の本なんか、よく手に取られてた。『私の個人主義』ってね、まさに作家の生き方そのものが書かれてる」
「漱石先生の……」
千紗の目が、少し輝きを取り戻す。
(人間って、先人の言葉に救われることがあるんだにゃ~)
私は二人の会話に聞き入りながら、通りの様子も観察している。すると、新しい人影が。
「ごめんください。笠原です」
陽斗が、工具箱を持って現れた。
「ああ、配管の修理ね。奥へどうぞ」
志乃ばあちゃんは店の中へ。陽斗は千紗に会釈をして、作業を始める。
「笠原さんって、役者志望なんですよね?」
千紗が声をかける。陽斗は少し驚いた様子で振り返る。
「え? はい……でも、なかなか芽が出なくて」
「私も、作家として行き詰まってて」
二人の会話が始まる。同じように夢を追いかける者同士、通じ合うものがあるのかもしれない。
「でも、この街にいると不思議と元気が出るんです」
陽斗の言葉に、千紗は興味深そうに耳を傾ける。
「みんな、それぞれの夢を持って生きてる。それを間近で見てると、自分も頑張れるって」
その言葉は、千紗の心に響いたみたい。
昼下がり、街にはまた新しい人々が現れる。
「いらっしゃいませ」
みのりの声が聞こえる。彼女は昼間、小さなカフェで働いているの。『カフェ・モーニンググローリー』という、古い建物を改装した素敵な店。
「ああ、いつもの」
注文したのは巧。作業の合間の休憩らしい。
「錆井さん、今夜はライブですよね?」
「ああ。良かったら、聴きに来てよ」
みのりは少し照れたように微笑む。
「私、夜は……」
そう。彼女には夜の顔がある。スナック『月光』のママ。この街では、そんな二重生活を送る人も珍しくないの。
(人間って、いろんな顔を持ってるにゃ~)
私は日向ぼっこをしながら、そんなことを考える。すると、また新しい声が。
「お昼ご飯、ご一緒できますか?」
玲奈が千紗に声をかけている。どうやら二人は知り合いらしい。
「白鳥さん、こんな所まで」
「たまには息抜きも必要でしょう?」
玲奈の表情は、普段のクールな印象とは違う。優しさに満ちている。
「実は私も、作家志望だったの」
その告白に、千紗は目を丸くする。
「でも、様々な事情があって……今は違う道を歩いています」
玲奈の言葉には、何か深い意味が隠されているような気がした。
昼の光が、少しずつ傾きはじめる。この街の夜の顔が、もうすぐ始まろうとしているわ。
(次はどんな物語が始まるのかにゃ~)
私は陽だまりの中で、静かに目を閉じる。