第1章:朝もやの街で
私の名前はアメノメ。
右目は普通の黄色だけど、左目は青いの。
珍しい三毛猫だってよく言われる。
でも、それがどうしたっていうのさ?
私は街で暮らす、ただの野良猫。
誰にも縛られず、誰の所有物でもない、自由な存在なのさ。
今日から私は、新宿のゴールデン街で暮らすことにした。下町や港町とはまた違う、不思議な空気が漂う場所。二階建ての小さな建物が迷路のように立ち並び、昼と夜で全く異なる表情を見せる。そんな街に、私は魅かれたの。
(朝のゴールデン街も、なかなか面白いにゃ~)
まだ朝もやの残る通りを、私はゆっくりと歩いていく。早朝の掃除に追われる人々。仕込みを始める店の人たち。そして、夜の仕事を終えてようやく帰路につく人々。
私の目に最初に飛び込んできたのは、路地を丁寧に掃く女性の姿。花房みのりという名前らしい。
「はぁ……今日も疲れたわ」
彼女は箒を持ったまま、小さなため息をつく。その姿は、どこか儚げ。でも、その目には強い意志が宿っている。
「花房さん、お疲れ様」
声をかけたのは、近くの建物で大工仕事をしている男性。錆井巧という名の、腕の立つ職人らしい。
「あら、錆井さん。今日も早いのね」
「ああ、夜の仕事の前に、ちょっとした修理を頼まれててね」
二人の会話には、どこか温かみがある。きっと長年、この街で顔を合わせてきたんでしょうね。
(人間って、こうやって少しずつ関係を築いていくんだにゃ~)
私が二人の会話に聞き入っていると、突然、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「ちょっと、待ってよ! 原稿、忘れてるわよ!」
追いかけているのは、小柄な女性。月宮千紗、29歳。小説家として売り出し中らしい。
「千紗ちゃん、また徹夜?」
みのりが心配そうに声をかける。千紗は走る足を止め、苦笑いを浮かべた。
「編集さんとの打ち合わせまでに、なんとか形にしないと……でも、なかなか思うように書けなくて」
彼女の目の下には、クマが浮かんでいる。どうやら、スランプに陥っているみたい。
「そんな時は、気分転換も大事だよ」
巧が、作業の手を止めて声をかけた。
「うちのバー、今度覗いてみない? たまにはジャズなんか聴きながら、のんびりするのも……」
そうなのよ。この錆井巧という男性、夜は『バー・ラストノート』というジャズバーのマスターなの。昼と夜で、全く違う顔を持つ人。この街には、そんな人が多いのよね。
千紗は少し考え、小さく頷いた。
「ありがとうございます。今度、伺わせていただきます」
その時、また新しい人物が通りに現れた。
「おはようございます」
凛とした声の持ち主は、白鳥玲奈。外資系企業の役員という肩書を持つ、知的な雰囲気の女性。でも、この人にも秘密があるの。夜になると、この街のどこかに消えてしまうのよ。
(人間って、みんな何かを隠して生きているにゃ~)
私は興味深く、玲奈の後ろ姿を見送る。彼女は颯爽と歩きながら、スマートフォンで何やら予定を確認している。そこに、また新しい声が。
「あ、白鳥さん! お疲れ様です!」
声をかけたのは、笠原陽斗。彼は役者志望で、昼は便利屋として働いている青年。
「笠原くん、おはよう。今日もお仕事?」
「はい。この街の案内を頼まれてまして。外国人観光客の方々を、朝のゴールデン街に」
玲奈は微笑んで頷く。
「そう。この街の朝も、とても魅力的だものね」
その言葉には、どこか深い意味が込められているような気がした。
(この街の朝は、秘密がいっぱいにゃ~)
私は軒先に腰を下ろし、朝もやの中の人々を見つめる。みのりは掃除を終え、どこかへ消えていく。巧は黙々と作業を続ける。千紗は原稿を抱えたまま、出版社に向かう。玲奈は、高層ビルの方角へと歩いていく。陽斗は、外国人観光客を待つ場所へ。
朝日が少しずつ建物の間から差し込んでくる。光と影の境界線が、通りに不思議な模様を描いていく。今日もまた、新しい物語が始まろうとしているのね。




