第10話 誰にでもつらい過去がある
僕が例のお客様との関係性でおかしくなってしまっていたことは、その居酒屋に入るなり根掘り葉掘り聞き出されてしまった。
先輩には少し前から、僕の雰囲気でおおよそバレてしまっていたようだが。
「スバル、その人と付き合っちゃえばいいじゃない。何も悩むことなんてないよ」
「そうだよスバルちゃん。ここだけの話わたしも、いい感じだったイケメンのお客さんと少しだけそういう関係になってたことあるし。……まあ、あんまり長くは続かなかったけどね」
運転手のおじさんが僕ら三人を下ろしてくれたのは、駅前から少し離れた、雰囲気のある居酒屋さんだった。
入店するとき店員さんが、僕の若すぎる見た目にぎょっとした顔になっていたが、身分証を見せるとひきつった表情で席まで案内してくれた。
まあそれは予想済みのパターンで。
だけど先輩が古き良き日本の上下関係で、ビールで乾杯するなりすぐに僕にガブガブ飲ませてきたのはちょっと予想外のことだった。
この体がアルコールに強くないのは知っていた。成人の身分証は非合法な形で手に入れたものの、体はどうみてもまだ未成年の女の子になってしまっているのだから、普段自分では積極的に飲まないようにしている。
頭がふわふわしてしまうものは、きっと良くないものだ。
アルコールも、かつて僕が使われていた危ないお薬も。
あのお客様とのえっちもきっと同じだ。
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第10話 誰にでもつらい過去がある
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「でも、僕はダメなんでしゅ……なんじぇす……なんですよぅ」
「あはっ! スバルちゃんふにゃふにゃだあ、やっぱりかわいいねぇ」
さっきから僕はもう呂律も回らず、横に座っている大学生の同僚から頭を撫でられっぱなしだ。
よく使いこまれた居酒屋の木製のテーブルに突っ伏したまま、髪を撫でられる気持ちよさに、頭の中がずっとふわふわしている。
これもきっと良くないものだ。ふわふわするものは、きっと悪いものだ。
「スバルがこの店に来てすぐのころさ、本指名が全然とれなくて落ち込んでたみたいで。そのときも一回こうやって飲みに連れてきてみたんだよね。まあこんな感じですぐ潰れちゃってたけどさ」
すでに濃いお酒に切り替えた先輩の手元から、グラスに氷がぶつかるきれいな音がする。
店員さんが何か食べものを運んできてくれた声がして、僕はだらしなくテーブルによりかかったまま、体をずらしてお皿を置いてもらうスペースを作った。
「えっ、なんですかそれ。わたしが入ったときは、そういう飲み会とか無かったじゃないですか」
「あんたはバイトみたいなもんでしょ? ……まあ、そりゃあんたにも色々あるんでしょうけど」
二人の声がゆったりと続いて、耳が気持ちよくなっていく。
やっぱり僕は男なんだな。
こうして耳に届くのは、おじさんたちの汚いあえぎ声なんかじゃなく、かわいい女の子たちの声がいい。
「わたしは実家が貧乏で。大学に通うお金なんて本当はなかったから、こうやって割りのいいアルバイトするしかないんですよ。スバ……じゃなくて、先輩は?」
二人の話は、今のようなえっちなお仕事に従事するようになった経緯にうつったようだった。
普段お店の女の子たちは、そういうことをペラペラと話す子は少ないが、誰しもが何かしらの事情があって、こういうお仕事についている。
大学生の同僚も、やっぱり僕の事情が気になるみたいだが、気を使ってかまずは先輩のほうへ話を振ってくれたようだ。
「あたしは昔から勉強が苦手でさ。就職先なんていいとこなくて、暮らしていくのも精一杯で。でもこういうお店なら、しばらくはサラリーマン以上に稼げるしね。……もちろん、将来を考えると不安もあるけどさ」
先輩の話も、この業界ではよくある話だ。
ホスト狂いだとか借金まみれだとか、そういう子の方が案外少ないくらいで。
今のご時世、学もコネもない女性には、なかなか良いお仕事なんてないのだという。
必死に働いても手取りのお給料は生活保護と同程度、なんて話はもう聞き飽きるほど。
だからこういうお仕事も、きっと世の中には必要なんだ。
スケベな男性を喜ばせるためじゃなく、厳しい現実の中で生きるしかない女性たちのためにこそ、こういうお仕事が必要なんだと思っている。
「はーい! 僕も! 僕も言わしぇてくらさい!」
だから普段からそれなりに仲良しのこの二人には、自分の事情を隠す必要もない。
元は男だったなんてTSの話だけは、冗談みたいにしかならないからわざわざ言わないけれど。
「ふへへ、僕はね、最初は友達だと思ってたやつのおうちにお世話になってたんでしゅよ」
最初とは、つまりTSして僕が全てを失い、住む場所もなくなったあの頃のことだ。
僕が目の前に残っていたレモンサワーをぐいっと飲み干すと、その体を横から同僚が支えてくれる。
柔らかいその手の感触に、なんだかんだこういう部分だけはTSしてラッキーだったな、なんて思えてくる。
こういう部分、だけ、は。
「でもそのうち、住ませてやってるんだからヤらせろってぇ。痛かったしぃ、気持ち悪かったけどぉ、でもみゃあ、そこまでは良かったんでしゅよ。自分の居場所みたいにゃものが、見つかったと思っちぇましたし」
僕が自分のことをずっと「僕」と呼び続けているのもその頃の名残だ。
「オレ」と名乗り続けているのが気持ち悪いと言われ、だけど「私」と呼べるほど自分が女になったことを認めたくなくて。
いまだにそんな中途半端に自分を、「僕」と呼び続けてしまっている。
呂律はうまく回らないけれど、先輩たちの何故か真剣な顔を見る限りは、たぶんちゃんと言っていることは伝わっているのだろう。
できれば、かわいい笑顔で聞いてくれたら、僕ももっと嬉しいんだけどな。
「そいつお金遣いが荒くて、僕の持ってたお金も結構使わりぇ……使われちゃって。なんでかなーって思ってたら、お薬ですよお薬。あの危ない、わるーいおくすり」
「ちょっ、ちょっとスバル、声が大きいって」
先輩が中腰で立ち上がり、困ったような、でも気遣うような優しげな表情で僕の肩を押さえてくる。
二人に自分のことを話していると、だんだん酔いが覚めていくような感覚があった。
僕の前のテーブルには、あまり食欲は沸かないけれど、見ているぶんには満足できるような、美味しそうなおつまみがいつの間にか並んでいる。
「ふへへ……それね、最初は無理やりだったけど、使われたらすっごく気持ち良くって。相手のことまで大好きになったみたいに勘違いしちゃうんです」
それは男だったはずの自分がバラバラに壊れて、嫌だったはずの男が愛しく思えてしまうくらいに、強い快楽だったのだ。
「頭の先っぽまでゾクッとして、世界中キラキラして、嫌いだったえっちもめちゃめちゃ凄くて……ダメだってわかってるのに、やめられなくなって……それで僕は……」
そう、これが僕がこの業界に足を踏み入れた理由。
昔ながらの分かりやすい、馬鹿な女がこの業界に堕ちるまでの典型的なルート。
僕の声がだんだん小さくなってきたのに気づいて、となりにいた同僚が、痛いくらい強く僕を抱きしめてくれている。
いつの間にか僕の腕は少し震えていて。同僚の体に自分の体を預けるようにして、その震えをごまかした。
「それで、お金もなくなったら、今度はその友達……いや、彼氏だと思ってたやつに売られたんです。違法なお店に。……そこだとえっちなこと頑張ったら、お薬がもらえて。怖い男の人が、ついでに抱いて気持ちよくしてくれるんですよ。……へへ、最低ですよね僕って」
男に喜んで腰を振っていたあの頃の自分自身の姿が、今でもときどき夢に出る。
最低な自分が、最低な夢の中でみすぼらしくあえぎ声をあげる。
お薬がなくなると、最初は辛くて辛くて仕方がなかった。
周りを歩く知らない人たちが、みんな僕の罪を知っていて、自分を監視しているなんて幻想にも怯え続けていた。
だけど幸か不幸か景気の悪い話で、僕が与えられていたのはあまり高価で強いお薬というわけでもなかったらしく。
お店が潰れてしまい手に入るルートが無くなれば、泣いたり吐いたりしながらだけど、なんとかそれを断つことはできたのだった。
その後僕は、飛び込みでお風呂的なお店に雇ってもらい、なんとか生活の基盤を整えて。
そしてそのお風呂的なところからのツテで、たぶん違法だがどこかの誰かの戸籍を自分のものにし、今のお店に所属することができたのだった。
「だから今は幸せです。もうお店で失敗しても殴られませんし。働いた分はちゃんとお金ももらえて。お薬もなんとか辞めることができてます。これだけでも奇跡みたいなことなのに、先輩たちもこんなに優しくしてくれて」
「スバルちゃん……」
同僚の女の子があまりにも強く抱きしめてくるから、少しだけ押すようにして離れて、そしてすぐにびっくりした。
その子は自分の話でもないというのに、僕を抱きしめながら泣いてくれていたのだった。
僕なんてこの子にとっては、大勢いる仕事仲間の一人でしかないだろうに。
テーブル越しに先輩とも目があって、その優しい瞳に僕も涙が出そうになってしまう。
「スバルは強いね。あたしなら、たぶん耐えられなかったと思うよそれ。……なんであんたみたいないい子が、そんな思いしなきゃいけないのかねぇ」
先輩はもちろん、こんなことでいちいち涙を見せるような人ではない。
だけど彼女もまた、僕のために優しく、行き場のない悲しみを共有してくれている。
二人がこんなに優しいように、世界にはたくさんの優しさが溢れているはずなのに、僕らの現実は何一つ変わらない。
こんな仕事を喜んでやっている人なんてほとんどいなくて、だけどそうしなければ生きていけない重苦しい現実だけが、ずっと僕たちの前に続いている。
「……だから僕は、男の人とは付き合えません。相手に申し訳ないですから。僕が普通の女の子じゃないから、僕がこんなだから、全部僕が悪いんです」
「スバル、無理して話さなくていいよ。大丈夫。大丈夫だから」
先輩からテーブル越しに肩を押さえられ、僕はなるべくゆっくりと深呼吸をした。
いつの間にか流れはじめていた涙で、もう僕の頬はぐちゃぐちゃになってしまっている。
お化粧もきっと、なかなかひどい状態だろう。
我ながら、酒癖が悪いにもほどがある。
TSしてしまった以上は、自分が生きていくこの世界が厳しくて辛いことなんて、もうとっくに理解できていたはずなのに。
今さらぴーぴー本物の女の子みたいに泣いて、情けないったらありはしない。
「スバルちゃん、そんなことないよ。きっといつかスバルちゃんにも、素敵な相手が見つかるに決まってるじゃん」
となりの席から同僚も優しくそう諭してくれる。
だけど、それは自分自身が一番求めていないものだ。
僕は元は男性で、薬物中毒という犯罪者で、これまでにも大勢のおじさんたちに汚されてきた。
これじゃあ相手に申し訳がなさすぎる。
素敵な王子様がいるというのなら、その人は僕なんかじゃなく、素敵な本物の女の子と幸せになるべきなんだ。
「スバル、あんたきっとこのままじゃ後悔するよ。それにさ、そんなに相性のいい男なんて、もう二度と他には現れないかもね」
先輩はたぶん僕の表情から、そんな僕の考えを見抜いてしまったのだろう。
彼女のその言葉は僕自身きっとそうだろうと思ってはいたのに、あえて言葉にされてしまうと、何かの病気みたいに心臓のあたりが苦しくなってしまう。
「でも! ……あの人は僕なんかじゃない、別の誰かと幸せになって欲しいんです。僕なんかじゃ、あの人にはふさわしくないんです」
そう。僕ではなく他の誰かが、あの人の寂しさを救ってくれることを。
今となっては僕は、そう祈ってあげることしかできない。
先輩とまた目があう。
彼女の手のひらが僕のほうに向けられて、一瞬、ぶたれるのかと身をこわばらせてしまった。
「バカたれ」
先輩の手のひらが、優しく僕の頬に触れる。
ぶっきらぼうだけどそのお怒りの言葉は、たぶんこの世界で一番暖かいものだった。
「スバルさあ、今日はあたしに迷惑かけたよね? もうさっきのお客さん、あたしのことも呼んでくれなくなっちゃうかも」
「先輩、ちょっと……」
だから同僚はちょっと動揺したみたいだけど、先輩が今から酷いことなんて言うわけないことは、僕にはすぐに理解できていた。
「だからあたしが今から言うこと、従ってくれるよね?」
ためらいつつも僕はうなずくしかなくて、そして先輩の細長い指先と手のひらが、優しく僕の頭を撫でていく。
「スバル、その人とまた連絡とってみな。男女の関係なんて今は気にしなくていい。もう会わなくたっていい。メッセージのやりとりだけ、その人と続けてみたらいいよ」
それはきっと、いけないことだ。
考えただけで頭がふわふわしてくる。
だからきっと、悪いことだ。
だけど僕はずっとこんなふうに誰かが、また彼に向かい合うきっかけを作ってくれることを、きっと本当は望んでしまっていた。
たぶんこれは、一度ハマったら抜け出せない、悪いお薬みたいなものだ。
僕はきっと、彼無しでは生きていけないくらいには、彼の存在をもう心から望んでしまっている。
だから僕にはもう、先輩から与えられたその甘い誘惑に、流されるままに飛び付くしかないのだろう。
「あは、それいいかもねスバルちゃん。それじゃあ、今これからメッセージ打ってみなよ。大丈夫、わたしたちがついてるからね」
同僚の優しい言葉も重なって、どんどん自分の気持ちが暖かくなっていく。
ほんの少しでいいから、彼とまたつながりが欲しい。
あんなふうに自分から離れておいて、不快な気分にさせてしまうかも知れないけれど、もうためらってはいられない。
僕に会えなくなって、あなたは寂しかったですか?
僕はとても寂しくて、最近はもうずっとおかしくなっていました。
だから僕は、いけないことだとわかっていても、こうしてあなたを求めてしまう。
僕は最低の人間で、元々は男で、汚れて、弱くて、泣き虫で。
だけどそれでも、あなたとほんの少しだけ、スマホ越しにでもこの世界で繋がっていることが許されるのなら。
それは僕にとって、きっとこの上なく幸せなことなのだと思うのです。