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混沌よりいづるもの1

 大陸南端の、今は魔の領地と呼ばれる未開の地からそれは来たと伝えられている。

 まだルナティア大陸という呼称が無かった頃の話だ。当時大陸は魔神と、大陸西部から東進してくる蛮族と、そして勇者王カリスト率いる神聖王国によって三つ巴の戦乱の最中にあった。

 当時の戦況としては、女神の加護を受けた精強な兵の詰める王国勢力が散発的に現れては侵略行為を行う他二勢力に対し応じ大陸中央を防衛、もとい死守しかろうじて勢力を保っている状態だった。

 どこともしれぬ所から現れては強大な力を振るい災禍を撒き散らしていく魔神と、倒しても倒しても西部森林地帯から無尽蔵に現れ押しては引く波のように嫌がらせじみた侵略行為を繰り返す蛮族と。最大勢力であるゆえの単純な兵力差とカリストという最大戦力によって王国は優勢にあったが、次々と現れる敵対者に対し少なからず疲弊し、そう遠くない未来に破綻が見えていた。

 魔王と呼ばれる存在が現れたのはその頃だ。

 魔王の性質に関しては、あまり多くは知られていない。ただ、確かなことはその姿形すら判然としないこの魔王と呼ばれる存在によって、魔人勢力はこの大陸から姿を消し、王国西部に広がっていた広大な森林地帯はそこに潜む蛮族ごと消滅したということだ。勇者王と相討つ形で魔王は倒れたが、王国もまた偉大な王を失い、後の王国分裂を招くこととなる。

 遭遇したもののことごとくが命を落とすという性質からか、この魔王の正体に関する情報は殆ど残っていないが、ただこの時代から頻繁にその姿を見られるようになった魔物と関連付け、魔の領地の混沌が形をなした魔物の一種なのではないかと考えられている。

 

 

 ♥♥

 

 

 それにとっての自我の芽生えは唐突だった。

 真っ暗な水の中にプカプカと浮かんでいた所をいきなり捕まえられ、ありったけの思考と知識を無理矢理に頭の中に流し込まれ眩しい光の中にポイと放り投げられた、そのような状態だった。

 頭の中でくるくるとまわる情報の奔流に喘ぐように口を開き音にならない悲鳴を上げる。

 風の鳴る音を聞けば耳が痛み、緑の香るのを嗅げば鼻が痛み、空の青さを見れば目が痛み、痛みに身を震わせれば一面に生えた柔らかな低草の感触に全身が痛んだ。虚無から何の準備もなく情報の海に放り出されたそれにとって世界全てが敵だった。

 思考という手段を与えられたそれが一番初めにその頭の中に浮かべた言葉は「なぜ?」という疑問だった。

 何故自分はここにいるのだろうか、ここはどこなのだろうか、自分は何者なのだろうか、温かい場所にいたのに何故自分をこんな酷い場所に引きずり出されたのだろうか、どうすればいいのだろうか、どうなるのだろうか。

 泡沫の思考が浮かんでは消えていく、それを何度か繰り返すうちに痛みはやがてひき、それはごろりと野原に転がった。

 暖かな日差しを浴びながら、それは周囲から感じる匂いの中に緑とは違うものを知覚した。

 寝返りをうち視線を向けると、それが転がっている位置から少し離れた場所に頭の潰れた狼の死体が転がっていた。

 それは暫くその亡骸をぼうと眺めていたが、やがて小さく息を吐いて身を起こすとそのそばまでずりずりと身を引いて移動した。

 強い血の香りと腐臭がそれの鼻を突いた。地に伏す死体はそれにとって見上げるような威容だった。

 それは、思考の部分で刺激臭に近いその臭気に顔をしかめながらその死体に手を伸ばし血漿でドロドロに汚れた毛皮に触れた。

 ごぽり、か、あるいはごくりか、音にすればそんな感触。瞬き一つの間に幻狼の死骸はそれの目の前から消え、それもまたそこで力尽きたように崩れ落ちた。

 

 

 ♥

 

 

 閉じた目蓋の外でふわりと瞬いた温かな光に、ダミーは意識を取り戻した。

 目を開くと、ほっそりとした白い手が目の前を横切りその軌跡を追うように白い燐光が流れていった。

 光の残滓が消えると、その向こうからダミーの顔を見つめる青い瞳と目があった。

「目が覚めたようですわね」

 若い女の声だった。額を撫で髪をかきあげてくる柔らかな掌の感触を感じながら、ダミーは考えていた。

 ―――なんだこれ、と。

 自分に何があったかは覚えている。ミラージュウルフと対峙し幻狼の見せる幻覚に対応するために自分の太ももに矢尻を突きたて痛みによって幻覚を振り払いその頭を斧でかち割ったのだ。しかし、矢を刺した場所に太い血管でもあったのか激しい出血によってダミーは急速に意識を失った、ここまではダミーも覚えていた。

 ならば、自分は誰かに助けられたのだろう。ポーリーか、でなければ今目の前でにこにこと微笑んでいる女性かのどちらかに。そこまでも、まあわかる。

 しかし、しかし、だ。

「……ここは、あれかい? SMクラブか何かかい」

 ―――だが、ベットにギチギチに縛り付けられているのはどういうことだろうか。

 分厚い布団にくるまれた状態で縄で縛り付ける、いわゆる簀巻きというものだろうか。身動きの出来ない身からかろうじて首だけを上げて女性に顔を向ける。

「えすえむクラブというのが何なのかは寡聞にして存じませんが、あなたがそうと望むならここはえすえむクラブとやらにも治療院にも宿屋にも食堂にも娼館にもなりますわ。さあ、あなた様の望みは如何?」

 たおやかに、しかしどこか胡散臭い調子でそう紡ぎ、女は身動きのとれないダミーの瞳を息のかかる様な距離から覗き込んできた。

「魅力的なお誘いは嬉しいが俺はご覧のありさまでね、そういう話はお互いそこらの椅子にでも座ってゆっくり聞かせてくれないものかね」

「あらあら、コレがお気に召しませんの? でもまだダメですわ。だって私もあなた様もまだ互いのことをよく知りませんもの。ためになりませんわ」

「だったらためになるお話でもするかい」

 簀巻きの様でなければ肩の一つでもすくめていただろう。だが女はダミーのそんな様子には頓着する様子もなくダミーの髪を手ですきはじめた。

「そうですわね、まずはお名前から聞かせていただきましょうか」

「ダミーだ」

「家名は?」

「俺がそんな高貴な身分に見えたってんならそりゃ恐れ多いことだな」

「では、お仕事は何を?」

「なんでもやるよ、金になるならね」

「後暗いことも?」

「……どうして簀巻きにされてるのか分かったよ」

 女は、表情こそいまだ笑みを浮かべていたがその内で隠す様子もなくダミーを探るような気配を発しはじめていた。その手もいつの間にかダミーの髪から首にあてがわれている、威圧しているのだろうか。

 ダミーは口の端を引きつらせながら、自分とポーリーがあの平原に倒れている姿を想起した。

 おおよそ一週間分の物資の積載された竜車、その御者台に転がる豚頭の怪人、少し離れた場所で狼の死体と一緒に転がっている全身血まみれの男、なるほどこれだけなら旅の最中で幻狼に襲われ力尽きた図という事実に近い事態も想像できるだろう。だが、この目の前の女性はまた違った予想をもしたのではないだろうか。ポーリーのような面相の人間がどういう風に見られるかは、ダミーは知らなかったが、対して自分のような人間がどのような印象で見られているかについては身にしみて知っていた。そして、先の応答から、その印象を補強するような物言いをしていたかもしれないという考えも今更ながらついた。

 つまり、この女性はダミーを竜車を襲った強盗か何かと疑っているのではないだろうか、と。

「もしかしたらあんたは俺に対して大きな勘違いをしているんじゃないだろうか」

「そうかもしれませんわね、でもそうではないかもしれません。それを私はどうやって判断すればいいのでしょうね?」

 いわれ、ダミーは口ごもった。口ごもって、しまった。

 あの牢獄で目覚めて今に至るまで状況に流され続けてきたダミー自身が自分の立ち位置というものを明確には把握できていないのだ。まして、寄る辺もないこの異世界で身の証など立てられるはずもない。

 その気まずい沈黙を女性がどうとらえたのかは、ダミーには窺い知れない。相変わらずの一見にして人の良さそうな笑顔を崩さず、女性は首にかけた手からダミーの顎を掴み、その顔を上げさせた。

 青い瞳が、ダミーを正面から見つめてくる。

「あなた様も察しはついているようですから単刀直入に言わせていただきますけれど、私、あなたが盗賊や強盗の類ではないかと疑っていますの」

「だと思ったよ」

「おかしいですわよね? 死にかけのあなたをあの原っぱで見つけた時、私その可能性を一番に考えつきましたのよ。それでも私はあなたに治癒魔術を施し、こうやって安全な場所まで運びました。何故かおわかりになって?」

「さてね、血まみれ泥まみれの俺があんたにとってそんなに魅力的に見えるとは思えんが」

 ダミーの自嘲の言葉に、女性ははくつくつと喉を鳴らしその目尻を下げた。

「そう自分を卑下するものではありませんわ。あなた様の正体如何はともかくとして、私はある一点からあなたをとても評価していますのよ」

「口の悪さかい」

「勿論、違いますわ」

 女性の顔が離れ、今度は目の前で何か赤黒い液体の詰められた小瓶が振られた。

 その行動の意図は幾つか頭に浮かんだが、あえてそれを表に出すことなくダミーは沈黙を女性に投げる。

 ダミーの様子を探るように見つめていた女性は、ダミーからのアクションがないとわかると、やや間を置いて口を開いた。

「これが何か分かりますか?」

「血か何かかね」

 ダミーの言葉に満足げに頷き、女性は小瓶の蓋を抜きその中身を一滴自身の手のひらの上に垂らした。

「混沌の魔王の一欠片、ですわ。混沌の落し子と呼ばれる一部の魔物の体から採取される、私達魔道に関わる者にとっては最高の魔術的触媒ですわ」

 そう言うと手のひらの雫に顔を近づけぺろりと舐めとる。途端、女性はびくりと身を震わせ肩を抱えた。腰を折り何かをこらえるように身を震わせる様子はどう見ても尋常な状態とは見えない。身動きのできない身でその様子を観察していたダミーは突然伸びてきた女の腕に首を掴まれ顔色を白くした。

 みしりと、ダミーの首から破滅の音が耳に抜けた。女の細腕とは思えない異常な握力で締め上げられ、ダミーの口から蛙を潰したような間の抜けた声がもれる。

 ―――殺される……!

 急速に暗くなっていく視界に、酩酊したような赤面を寄せる女の瞳が映る。とろりと下がった目尻に熱い息を吐くある意味蠱惑的な唇、明らかに異常な様だ。

 身動きも取れず、意識の糸が切れる寸前、ふとダミーの首を圧迫する手の力が緩んだ。

 咳き込むように酸素を取り込むダミーの首から女の手が離れ、そのまま女は横倒しにどさりと崩れ落ちた。

「……どうなってんだ、くそ」


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