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第三話:『重心の理を継ぐ少年』

江東に吹き始めた秋の風は、日ごとにその冷たさを増していた。


連日降り続く秋雨に晒された揚州廬江郡の市場の片隅は、行き交う人々の足に踏み荒らされ、深く黒い泥濘と化している。


「おいおい子山、昨日はあれほどきらびやかな名士様方を相手に、言葉の刃で大立ち回り演じたってのにさ。今日はまた揃って泥にまみれて瓜売りかい。俺の自慢の顔が泥の化粧で台無しだよ」


衛旌(えいせい)はわざとらしく大袈裟に肩をすくめ、いびつな形の瓜を泥のついた手ぬぐいで拭いながら、くるくると表情を変えてぼやいた。その百面相は、沈宗との息詰まる政治闘争を終えたばかりの場を、からっとした陽気さで和ませていく。


「見栄や虚飾の言葉では、腹は膨らまないよ、子旗(しき)」


二十四歳の歩隲(ほしつ)は、泥まみれの粗末な麻衣を纏いながらも、穏やかな笑みを崩さない。だが、その静かな瞳の奥には、かつて故郷・徐州で地獄の如き戦火を目撃した者だけが持つ、鋭い眼光が隠されていた。


名士たちの実体のない権力闘争に嫌気がさしていた歩隲にとって、泥に塗れながら一銭を稼ぐ市場の営みこそが、確かな「現実」だった。


その時、市場の喧騒を断ち切るように、濃密な獣の血の匂いと、肌を刺すような圧倒的な覇気が流れ込んできた。


どさりと重い音を立てて泥濘に投げ下ろされたのは、山から手製の罠で仕留められたであろう、巨大な大猪と数羽の野鳥である。


それらを担いできたのは、二人組の猟師だった。


一人は、三十代とおぼしき女猟師。戦火を潜り抜けたことを物語る凄絶な傷跡が片目に走っているが、その佇まいには歴戦の武人が持つ特有の静けさがある。


背には古びた弓を背負い、周囲を鋭く見据えながらも、隣に立つ少年を見つめる瞳には深い慈愛が宿っていた。――彼女の名は曹性(そうせい)。


そしてもう一人は、ボロボロの猟衣から盛り上がるような背筋を覗かせた、十代後半の少年だった。


野生の狼そのものの眼光を放つその少年こそ、曹性が我が子のように育て上げた丁奉(ていほう)であった。


丁奉は、市場の生暖かい人間の視線を極度に警戒し、眉根を険しく吊り上げながら、胸元にある麻布の包みを、まるで何よりも大切な宝物のように固く抱きしめていた。


◇


「おい、よそ者が勝手に山の手物を売るんじゃねえ。この市場の掟を知らねえのか」


張り詰めた空気を破ったのは、昨日の名士・沈宗の残党か、あるいは市場を不当に牛耳る仲買人の兵卒たちだった。


粗暴な大男たちが武器である棍棒や小刀をちらつかせ、曹性と丁奉の獲物を安値で叩き買おうと包囲する。


一触即発の緊迫感が市場を支配した、その瞬間だった。


少年・丁奉が動いた。


彼は吼えることも、無駄に身構えることもない。


ただ深く泥濘を踏みしめ、一歩を前に踏み出した。その足取りには、単なる力任せの剛腕とは一線を画する、深遠な理があった。


全身の筋肉としなやかな骨組織が、一本の強靭な太縄の如く見事に連動し、一分の狂いもなく「自らの重心を支配する」機能美そのものだった。


大男が放った棍棒の鋭い軌道を、丁奉は完璧に見切っていた。ほんの数寸だけ上体を傾けて風をかわすと、拳を握ることすらしない。


放たれたのは、電光石火の「掌底(しょうてい)」であった。


肉と骨が激突する重い音が響き、大男の顎が美しく跳ね上がる。


それだけに留まらず、丁奉は泥濘を鋭く踏み締め、わずか数寸の距離から「寸勁」の如き掌打を一閃。


衣服を突き抜けて芯に響く衝撃に、巨躯の大男は悲鳴を上げることもできず、その場に崩れ落ちて悶絶した。


「……!」

その一部始終を、歩隲は身を乗り出すようにして凝視していた。


彼の端正な顔が、純粋な知的好奇心と、魂を揺さぶられるような畏敬の念に震える。


昨日の沈宗をはじめ、江東の名士たちは皆、美辞麗句と虚飾の言葉で自らを飾り立て、中身のない政治闘争に明け暮れていた。


だが、目の前の少年はどうだ。言葉を完全に捨て去り、ただ己の肉体と「重心の制御」という、現場の合理主義の極致だけで命を守り、敵を排してみせた。


「言葉ではない……。これこそが、現場における究極の合理だ」


歩隲の胸に、かつてない閃光が焼き付いていた。


◇


小競り合いが収まった後、歩隲は穏やかな微笑を浮かべ、泥のついた手ぬぐいを差し出しながら二人に近づいた。


丁奉は獣のような鋭い視線で歩隲を警戒する。


だが、泥濘に深く足を沈めながらも、一本の竹のように「完璧にブレない軸(重心)」を保って立つ歩隲の姿勢を見た瞬間、少年の野生の直感が告げた。


この男は、他の有象無象とは違う、と。丁奉の眼光に、驚きが混じる。


「見事な身のこなしですね。怪我はありませんか」


歩隲の無私にして知性に満ちた佇まいに、曹性は片目の視線を注ぎ、ふと息を呑んだ。


少年の胸元、大事に抱えられたボロボロの麻布の隙間から、鈍く黒光りする鉄の面が覗く。


それこそが、かつて下邳(かひ)の戦場でその名を轟かせた「陥陣営(かんじんえい)」の長、高順(こうじゅん)の形見である「雀光の鉄面(じゃっこうのてつめん)」であった。


曹性にとって、高順はただの主君ではなかった。


同じ女の身でありながら、荒くれ者の兵たちを率いるために素顔を鉄面で隠し、無敗の盾であり続けた気高き「同性の友」。


戦場では生死を共にした大将と副官であり、すべてを分かち合った戦友。


そして、過酷な放浪の時代、飢えと寒さに震えながら互いの体温で命を繋ぎ止め、助け合ってきた無二の仲間。その友が遺した魂が、いま、丁奉の腕の中にある。


曹性は歩隲の濁りのない瞳の中に、かつて下邳の泥濘で、一言の愚痴もこぼさずに誰かを守るためだけに立ち尽くしていた高順の、無私で、どこか寂しげな横顔を重ね合わせていた。


「子山殿、あんたの目は嘘をつかないね。……あいつと、同じ目をしている」

曹性は静かに、だが重い決意を込めて語り始めた。


「この子はね、私が教えられる限りの『重心の理』をその肉体に継いだ。だが、この乱世を渡るための『言葉』を持たない。猟師としてこの泥の中に埋もれさせるには、あまりに惜しい、あいつが遺してくれた牙さ。……頼む、子山殿。あんたの知識と合理の、その『不落の盾』として、この子を一緒に連れていってくれないかい。高順の魂を、乱世の先へ繋いでくれ」


歩隲は、曹性の言葉の裏にある、女二人で地獄を生き抜いてきた歴史の重みを、そして沈黙のなかに宿る圧倒的な機能美を、深く尊敬した。


「……承知いたしました。言葉なき重き意志、そして高順殿の誇り。この歩子山、確かにその未来を引き受けます」


歩隲は深く、深く一礼し、黒鉄の面とともに、少年を自らの右腕として召し抱えることを誓った。


◇


その夜、歩隲の粗末な庵には、冷たい秋雨をしのぐ静かな火が揺らめいていた。


新たな家族である丁奉を迎え、窮屈ながらも、そこには確かな温もりがあった。


庵の片隅では、丁奉が静かに座っている。


昼間の飢えた狼のような鋭さは鳴りを潜め、母・曹性が夜な夜な仕立て直してくれた「鉄面の結び紐」を、その太い指先で丁寧に、愛おしそうに確かめながら締め直していた。


自らの猟刀を黙々と研ぎ澄ますその表情には、母への誇りと、どこか年相応の素朴な少年の顔が覗いている。


一方、歩隲は脳内に満ちた日中の熱を冷ますため、庵の裏手で静かに土に触れていた。


暗闇の中、無駄な雑草を根から毟り取り、土の感触を確かめる。言葉の通じない自然と対話することで、彼の精神は深く澄み渡っていく。


「おいおい、大食らいの狼がまた一匹増えちまったぞ。これじゃ俺の取り分が減る一方だ」


庵の中で寝転がっていた衛旌が、大袈裟に顔を歪めてボヤきながらも、昼間買ったいびつな瓜を丁奉へと放り投げた。


丁奉はそれを大きな手で受け止めると、一瞬きょとんとした後、豪快に齧り付いた。


その口元に、泥に塗れた、だが生まれて初めての、心からの少年らしい笑顔が咲いた。


歩隲は庵に戻り、大切に保管している一握りの「瓜の種」にそっと指先で触れた。


そして、静かに日録へと筆を走らせる。


『言葉なき者のなかにこそ、真の合理が宿る。着飾った名士の絹の衣が乱世を引き裂くならば、私はこの黒鉄の盾とともに、乱世の土を耕そう。泥の中にこそ、最も合理なる種は咲く。』


静かに蝋燭の火が消え、暗闇の中に、高順から繋がれた未来の息吹だけが、確かに息づいていた。

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