第二十八話:『泥の初心、大地の錨』
赤烏十年(西暦二四七年)、秋。
建業の秋雨は、冷たい鉄の針となって丞相府の白砂を刺し続けていた。
閉ざされた帳の奥、老境の病床にある歩隲の耳に届くのは、ただ己の微かな、しかし規則正しい呼吸の音だけである。
突如として、廊下の外で幾重もの足音が退く気配がした。
静寂を破って現れたのは、絢爛たる甲冑も、君主の威儀をただす朝服すらも身につけぬ、至って粗末な平服姿の老躯であった。
「子山、起きているか」
呉国主、孫権であった。
他の一切の臣下を疑い、夜毎に刃を恐れて常に重き鎧を帯びる君主が、この老丞相の前に限っては、初めからすべての鎧を脱ぎ捨てた無防備な平服で現れる。
それこそが、二人が培ってきた不動の信頼の証であった。
しかし、その碧き双眸は不眠の血走りに濁り、語る声は猜疑の霧に濡れて震えている。
歩隲は静かに寝台の上に身を起こし、深く頭を垂れた。咎める色もなく、ただ平穏なる大地のごとく、主君の狂気を受け止める。
「仲謀様、よくぞおいでくださいました」
「皆が、私を呪っておる。私の命を毟り取ろうと、暗がりに潜んでおるのだ。子山、お前も私を、老いさらばいた愚物と嗤うか」
孫権の言葉は、猜疑の霧に濡れて震えていた。
歩隲は静かに微笑んだ。
その細き指先で、枕元に置かれた一冊の精緻なる書付を示す。
それは交州の泥濘から耕し上げ、数十年をかけて蓄積した歩一族の全財産の目録であり、水軍の私兵の配置図、そして朝廷の役人の目を晦ませてきた二重の帳簿のすべてであった。
巨万の富、一族の名誉、その利権のすべてを、歩隲は何の未練もなく、主君の足元へ押し戴いた。
「これらはすべて、仲謀様、あなたの選別眼が正しかったことの証明にございます」
「……何だと?」
「私はかつて、廬江の地で泥にまみれ、ただその日暮らしの瓜を売っていた貧賤の徒にすぎませぬ。その泥塗れの私を見出し、取り立ててくださったのは、他でもない仲謀様、あなたにございます。私が築いたこの数理のすべては、あなたの呉国のためにこそ編まれたもの。私には、初めから私欲などございませぬ」
裏切りのない純粋なる言葉。
そしてその静かな佇まいには、かつて後宮で孫権の荒ぶる魂を宥め続け、十年前に先立った歩練師の、人を活かす導引の呼吸の面影が色濃く残っていた。
孫権の眼の奥から、猜疑の光が消え失せる。
代わりに溢れ出たのは、濁った涙であった。
老いた君主は、子供のように歩隲の細く乾いた手を両手で握りしめた。
「お前だけは……お前だけは、私を裏切らなかったな、子山……!」
すべての警戒を解いた男泣きの声が、静かな室内に響く。
他者を糾弾し続けた孤独な国主が、生涯で唯一、その弱さをさらけ出せる拠り所。
廬江の泥濘から始まり、ともに「呉」という巨大な国家の骨組みを削り出してきた二十余年の歩みが、老いた君臣の、言葉にならぬ大いなる抱擁となって静かに完結した。
◇
主君が去り、夜が更ける頃には、窓外の秋雨はいつしか上がっていた。
雲の切れ間から差し込む澄み切った月光が、病床の歩隲を白々と照らし出す。
己の命の灯火が、今や芯を焼き尽くそうとしていることを、歩隲は静かに感じ取っていた。
開け放たれた窓の向こうには、底知れぬ闇を孕んだ呉国の大地が広がっている。
宮廷は今、後継を巡る「二宮の乱」という醜悪な濁流に塗れていた。
なによりも歩隲の心を苛むのは、その狂乱の双璧をなす者たちが、亡き練師の遺した実の娘たち――己の血を分けた歩一族の愛娘たちであるという非情なる現実であった。
天に昇った鳳凰の血脈が、地上で骨肉を喰らい合う。
その業の深さに、歩隲の五内は激しく灼かれる。
この狂乱の果て、中央の石畳が凄惨な返り血に染まる未来は、もはや火を見るより明らかであった。
我が血脈が招くであろうその破滅の予感に、老いた身を震わせながらも、なればこそ、彼のまなこは中央の虚飾から離れ、辺境の泥へと向けられる。
魏との国境、最前線の泥の中にすっくと立ち、かつて己が交州の最前線で見せた「現物の実理」を、その背中から無言の内に感じ取り、己の肉体へと昇華させた将たちの姿であった。
直に随行した老将・丁奉、そしてその誇りを受け継ぐ丁封の兄弟。
ただ純粋に眼前の民を、大地を護るために泥にまみれて立ち続ける彼らの泥臭き背中が、歩隲のまなこに鮮烈に浮かび上がる。
国を救うのは、いつだって机の上の前例や、綺麗に整えられた制度ではない。
泥をすすり、現場で戦う泥臭き者たちなのだ。
我が血族の引き起こす狂乱が、自らの愛した呉国を根底から弱体化させかねないという、暗憺たる心労。
しかし、その泥沼の最中にあっても、最前線でただ実直に大地を護る将たちの姿は、歩隲に確かな救いをもたらしていた。
中央の虚飾がいかに歪もうとも、己が泥にまみれて生きてきた軌跡だけは、決して間違いではなかったのだと、胸の内に一つの踏ん切りがつく。
未来の破滅の予感に震えながらも、自らが撒いた実理の種が確かに大地へ根づいていることに、老丞相は静かに、己の魂の錨を下ろすのであった。
◇
深夜。すべての喧騒が遠ざかった室内には、ただ一人、極貧の時代から寄り添い続けた糟糠の妻、淑玲だけが静かに付き添っていた。
彼女の膝の上には、夫が今日、主君との最後の拝謁のために身にまとった「右都督」の重々しい官服があった。きらびやかな金糸で織られた鳳凰の紋様。朝廷の格式を体現するその美しき衣服の裏地に、淑玲はそっと指先を這わせた。
鳳凰の刺繍に覆い隠されたその最奥、彼女の指先は、確かな凹凸を捉える。
それは、かつて若き日の彼女が、祈りを込めて縫い込んだ、小さな歪な「瓜の種」の不格好な結び目であった。
「鳳凰の金糸に隠されようとも、ここにあります。子山さん。あなたの逃げ場所は、最初から、ずっとここにありましたよ」
淑玲は、かつて廬江の荒末たる庵でそうしたように、からっとした、しかし涙に濡れた温かい微笑みを夫に向けた。
歩隲は、ゆっくりと手を伸ばし、彼女の手を握り返した。
その手の確かな温もりに触れた瞬間、老丞相の乾いた口の内に、かつて二人で、友の衛旌とともに分け合って齧りついた、あの廬江の泥の瓜の、圧倒的な、みずみずしい甘みが鮮烈に蘇った。
「……甘いな、淑玲」
「ええ、とても甘うございます、子山さん」
一族の名誉も、丞相の権勢も、すべてを削ぎ落とした先にある、ただの「瓜売りの男と女」の至福の静寂。
歩隲の顔に、これまで幾多の謀略を煙に巻いてきた「二重の笑み」はなかった。
ただ幼児のように穏やかで、純粋な充足の微笑みだけが浮かんでいた。
その微笑みを残したまま、歩隲は静かに瞼を閉じ、息を引き取った。
「子山さん……!」
淑玲は夫の胸に顔を埋め、声を殺して慟哭した。
開け放たれた窓の向こう、建業の夜空には、歩隲が生涯をかけて愛し、錨を下ろした呉の大地を祝福するかのように、静かな月光がどこまでも白々と降り注いでいた。
【二宮の乱】
三国時代の呉で起きた、孫権の後継者を巡る凄絶な御家騒動です。皇太子の孫和と魯王の孫覇の派閥に臣下たちも二分され、陸遜をはじめとする多くの有能な重臣が処刑や流罪、憤死へと追い込まれました。約十年に及んだ泥沼の政争は、呉の国力を大きく衰退させる原因となります。晩年の孫権の判断力の衰えと、禍根を残した冷酷な裁定が招いた、三国志屈指の悲劇的な内紛です。




