第二十六話:『錨の消えゆく庭』
赤烏元年、西暦二三八年の冬。
骨まで凍てつくような冷たい雨が、建業の宮廷を白く煙らせていた。
雪をはらんだ雨音を背に、私――二十六歳になった孫魯班は、母の寝室へと続く重い漆塗りの扉の前に佇んでいた。
すぐ隣で、二十二歳の妹の魯育が、衣の裾をちぎれんばかりに握りしめて震えている。
母上が病床に伏して幾月。小虎(魯育)はその細りゆく呼吸の音を聞くたびに、まるで天地が崩壊するかのように涙を流し、取り乱していた。
「……お姉様、母上は、本当に治るのでしょうか」
蚊の鳴くような声で縋ってくる妹の横顔を、私は冷ややかに見下ろす。
感情など、何の足しにもならない。
悲しみに身を窶す暇があるなら、この一族の「絶対の錨」である母上が統べる後宮の空白を、次に誰がどう奪い合うか、その数理を計算すべきなのだ。
私は一糸乱れぬ絹衣をまとい、背筋を凛と伸ばしたまま、微動だにせず扉を見つめ続けた。
十数年前の遠い記憶が、私の脳裏をかすめる。
父上――孫権が、かつて歩隲様が交州から「黄金の船団」という圧倒的な実績を携えて帰還した話を、未だ誇らしげに語っていた頃の姿だ。
あの頃の父上は、門閥をねじ伏せるための現場の合理を心から愛し、まだ江東を治める明晰な英主だった。
しかし、長い年月の堆積は、父上の精神を内側から削り取っていった。
魏との国境で流れる兵たちの血、重税に対する山越の反発、そしてかつての重臣たちの相次ぐ死。
「誰も信じられぬ」という不治の病――猜疑心が年を追うごとに父上の碧い双眸を濁らせ、それと比例するように、父上の身体からは常にうだつの上がらない強い酒の臭いが漂うようになった。
酒に酔うたび、父上は豹変した。気に入らない臣下をその場の気まぐれで斬り殺せと命じ、翌朝、酔いが覚めると「なぜ私を止めなかった」と青ざめて側近に当たり散らす。
あの脳内を埋め尽くすドス黒い不信の澱みを、父上はもう、酒で脳を麻痺させなければせき止めることができないのだ。
私は、酒に溺れ、自らの狂気に怯えるその姿を「老いと果てしない弱さ」として深く蔑む。
同時に、その歪んだ猜疑心と酒乱の凶暴さこそ、いずれ邪魔な政敵を合法的に葬り去るための、最高に利用価値のある「刃」になると、私は静かに学習していた。
扉が、音もなく開いた。
室内に一歩踏み込んだ瞬間、小虎が小さく息を呑む。
同時に、私の鼻腔を突いたのは、母の部屋の清廉な香を汚す、ひどく酸鼻な、度数の強い酒の悪臭だった。
そこにいたのは、死の淵でただ哀れに喘ぐ病人ではなかった。
母上――歩練師は、確かに病によってその身体を痩せ細らせてはいたが、その佇まいは驚くほど濃密な「静寂」を纏っていた。
母上は寝台の上に上体を起こし、ゆっくりと、深く、呼吸を刻んでいた。
それはまるで、中原の山奥で何十年も極意を練り上げた老仙が、太極の型を演じているかのような、淀みのない「導引」の動きだった。
吸う息が体内の正中線を一本の硬質な芯として貫き、吐く息が周囲の空気を穏やかに押し広げていく。
弱り果てているはずのその肉体から、達人のみが持つ、不可侵の円の結界が放射されているかのようだった。
その枕元に、五十七歳になる呉の主が、子供のように跪いていた。
父上の衣服は乱れ、寝室に持ち込んだ漆の杯からは酒が床にこぼれている。
赤く充血した碧眼からはボロボロと涙が流れ、母上の細い手を両手で必死に握りしめていた。酒の力を借りてなお、父上の震えは止まっていない。
「練師、お前のこの呼吸がなければ……私は夜の闇に怯えて眠ることすらできないのだ。あの者たちが、私を殺そうと暗闇で笑っている。頼む、私を置いていかないでくれ」
かつて中原の群雄を睥睨した天下の英雄が、ただ一人の女の、その静かな呼吸に縋り、酒で濁った息を吐き散らしながら命を繋ぎ止めている。
そのあまりの惨めさと醜態に、私の胸を激しい侮蔑が満たした。
小虎は、父上のその脆い「人間らしさ」に自分を重ね、胸を締め付けられて涙を流している。
実につまらない感傷だ。
母上という「すべてを受け流す絶対の盾」が失われた後、この酒浸りの王の狂気は、制御を失ってこの国を一気に支配する。ならば、その狂気の手綱を握るのは、この私でなければならない。
母上の規則正しい、太極の如き呼吸が、静まり返る寝室に響き続ける。
緊迫した夜の闇の中で、私たちの心は、それぞれの身体を通じて異なる未来へと調律されていく。
母上は、父上のどれほど激しい嗚咽も、酒の悪臭とともに吐き出されるどす黒い猜疑心も、ゆっくりとした導引の呼吸ひとつで、柳のようにしなやかに受け流し続けている。
これこそが、かつて後宮の頂点に君臨しながら一歩も退かなかった、母上の「無欲という最強の生存戦略」の完成形なのだと、私は理解する。
対して、父上はもう、母上のその完璧な呼吸に己を合わせることを、とうに諦めている。
脳内を侵す酒精と不信の残響はあまりに重く、濁りきった己の肺腑では、母上の清廉な律動に二度と同調できないことを悟っているのだ。
父上にできるのはただ、狂気の中で、太極の如く美しく刻まれる母上の動きを、縋るように見つめ続けることだけだった。
その澄んだ軌跡を目で追う間だけ、父上の血塗られた心は束の間の静寂を与えられ、洗われていく。
失われゆく錨の光を、暗闇の底からただ見上げるしかない、哀れな老いさらばいた獣の姿が、そこにあった。
寝室の片隅で、私は自らの懐から取り出した「六博 」の冷たい木製の駒を指先で弄んでいた。
中央の水を泳ぐ獲物を貪り喰らい、敵の「梟」を謀殺する血塗られた宮廷の遊戯。
この完璧な達人の呼吸が止まった瞬間、歩一族は狂い、呉の宮廷はまさにこの盤上のごとき泥沼の権力闘争へと引きずり込まれる。
仕掛ける罠、誘導する駒、排除すべき政敵――その美しい破滅の数理が、私の脳内で完璧な勝ち筋として組み上がっていく。私は暗闇の中で、不敵に微笑んだ。
私の背後で、小虎は小さな青磁の器に、自ら摘んできた冬の野花を静かに生けていた。
かつて、母上に教わった通りの不器用な手つきで、一輪、また一輪と、折れそうな細い茎の均衡を調えながら、声を殺して泣いている。
父上がとっくに忘れ去り、私もとうに捨て去った、いずれ枯れゆく「植物の命と、家族の温もり」という泥に縋っているのだ。
そのあまりに無防備な甘さが、私をひどく苛立たせ、同時に痛烈な危うさとなって胸を締め付ける。
母上という盾が失われた宮廷で、そんな優しさを抱えたままでは、いずれ誰かの牙に真っ先に引き裂かれてしまうだろう。
(この小虎の脆さは、私がこの手で守ってやらねばならない)
不敵な笑みを収めた私は、六博の駒をきつく握りしめ、妹の細い背中を静かに見つめ直した。
外の雨が、いつしか密やかに、白い雪へと変わり始めていた。




