第二十五話:『最高位の裏地、瓜売りの系譜』
交州平定から十五年。中央(建業)で急速に栄達していく歩氏の広大な私邸。
黄武四年(西暦二二五年)、秋。
交州のむっとするような熱気と、足の裏にまとわりつく泥の感触から離れて、もう十五年の月日が静かに積み重なろうとしていた。
建業の広大な歩一族の私邸。格調高い格子窓から差し込む秋の陽射しはどこまでも穏やかで、庭に敷き詰められた白砂を白々と照らしている。けれど、この美しく整えられた静寂のなかにいると、私は時折、息が詰まりそうになる。
かつて廬江の極貧の庵や、交州の泥濘のなかで、泥まみれになりながら「いびつな瓜」を分け合って笑っていたあの日々は、もう遠い幻のようだった。
「淑玲様、失礼いたします。丁奉様、丁封様より、戦勝の御報告と、これより国境の防衛要衝へ向かう旨の書状が届きました」
侍女が差し出してきた竹簡を広げ、私はふっと目を細める。
丁奉。あの頃、いつもお腹を空かせて、私たちの育てた瓜を美味そうに頬張っていた少年。いまや三十九歳となった彼は、弟とともに数万の兵を従え、魏との国境を転戦する呉国屈指の「将星」へと上り詰めていた。
書状に並ぶ文字は力強く、どこか荒削りだ。かつて私の前で、瓜を掴んでいたあの「節くれ立って、傷だらけのごつい手」が思い浮かぶ。
彼らはもう、一介の護衛や私兵としてこの家を訪れることはない。
国家の盾として立派に自立したのだ。
それは心からの喜びであり、同時に、彼らの背中がもう手の届かないところへ行ってしまったような、寂しさを交えた温かな祝福を私に抱かせた。
皆、遠くへ行ってしまう。
そして、私の最も近くにいる家族もまた、栄達という名の荒波に揉まれ、少しずつ形を変えようとしていた。
「ただいま戻った、淑玲」
深夜、そう言って寝所に現れた夫・歩隲の顔は、酷く白く、疲れ果てていた。
衛将軍、右都督。
朝廷で顧氏や陸氏といった江東の伝統的門閥と対等に渡り合い、名門・歩氏の長老として祭り上げられる四十六歳の夫。
だが、一糸乱れぬ綺麗に敷き詰められた朝廷の石畳の上で、言葉の刃を交わし続ける日々は、彼の精神を確実に磨耗させていた。
「お疲れ様でした。お着替えを……」
「いや、少し、庭に出てくる」
歩隲は私の差し出した衣服を断り、ふらりとした足取りで中庭の片隅へ向かった。
朝廷の石畳は、カツカツと自分の足音を反響させて彼を追い詰める。
けれど、この私邸の暗がりの土は、彼の重圧を無言で吸い込んでくれる。
私は静かにその背を追った。闇のなかで、夫は膝をつき、誰に見せるでもなく黙々と土を耕している。そして、交州から肌身離さず持ち帰った「瓜の種」に、そっと指先で触れていた。
その白く綺麗な、けれど微かに震える手。
彼はこうして冷たい泥に触れることでしか、ただの「瓜売りの男」であった頃の自分を取り戻せないのだ。その孤独な調律の姿を見るたび、私の胸はきゅっと締め付けられる。
だが、夫が泥のなかに見出している「救い」は、息子たちの世代には、まったく別の歪みとなって伝わっていた。
ある夜、長男の歩協の書斎の前を通りかかったとき、私は息を呑んだ。
今年で十七になった歩協は、深夜だというのに、 血走った目で松明を掲げ、庭の小さな瓜の苗木に向き合っていた。一匹の虫の食害も許さぬよう、強迫観念に駆られた手つきで虫取りをしている。
その「名門の看板」の重圧が、彼にとっては過酷な足枷となっていた。
父の「まず自分が動く、率先垂範の姿勢」を、彼は「人に仕事を頼むのは無能。
すべて自分で百点を取らねばならない」と誤認してしまっている。父が勧めたはずの土いじり(瓜の育成)すらも、彼にとっては「完璧に育て上げる義務」という果たすべき課役と化し、自らをすり減らす刃になっていた。
そっと彼の書斎に入り、机の上に置かれた『日録』を開いてみる。
父の『日録』は、心の泥を吐き出すための余白があった。しかし、歩協の帳簿には、驚くほどの筆圧で、一分の乱れも許さない几帳面な文字が敷き詰められていた。
『今日の反省:処理に五分遅れた。明日はさらに早く動く。歩氏の長男として、これ以上の遅滞は許されない』
自分を責め立てるだけの言葉の羅列に、指先が冷たくなる。
そして、その兄の異常なまでの「正論」に、激しく反発しているのが、今年で十二になる次男の歩闡だった。
「兄上はうるさい。歩一族の人間ならこうあるべきだと、そればかりだ」
昼間、歩闡は私にそう不満を漏らしていた。
だが、彼は兄に真っ向から立ち向かうことはしない。
兄に怒られないために、兄の好む書類の書き方や態度を先回りして「偽装」し、要領よく目を盗んで立ち回る術を身につけ始めていた。
傷を負わないための、冷徹な処世術。
兄の歪みから逃れるために、自分本位な現場合理主義を磨いていく次男の冷めた目を見るたび、私は深い愛情とともに、拭いきれない大きな不安を覚えてしまう。
この子たちは、どこへ向かおうとしているのだろう。
夜が更け、邸宅が深い静寂に包まれる。
私は一人、夫が明日身にまとう、重々しく息苦しい「衛将軍」の官服を広げた。
きらびやかで、どこか冷たい絹の裏地。私は針に黄色い糸を通し、外からは絶対に見えないその場所に、一針、また一針と、祈るように刺繍を施していく。
縫い取るのは、小さないびつな「瓜の種」。
朝廷でどれほど名門の長老として振る舞おうとも、あなたの心の逃げ場所は、あの泥のなか、私の隣にある。そう伝えるための、私にできる唯一の調律だった。
刺繍を終え、私は温かく甘い「葛湯」をお盆に載せて、まだ明かりの灯る歩協の書斎へと向かった。
扉を開けると、やはり息子は目を血走らせて木簡に向き合っていた。
「協、少し休みなさい。葛湯を持ってきましたよ」
からっとした笑顔を意識して声をかけると、歩協はビクッと肩を揺らし、私を見た。
差し出された器から立ち上る湯気と温もりに触れた瞬間、彼の張り詰めた瞳が、一瞬だけ、子供のように小さく揺れた。完璧の仮面が剥がれ落ちそうになる。
「……ありがとうございます、母上」
けれど、彼はすぐに「名門の長男」の顔を作り直し、一気に葛湯を飲み干すと、再び筆を握った。その健気さと、あまりに深い歪みに、私の胸は引きちぎれそうになる。
寝所に戻り、私はそっと横たわった。
中庭で今も泥に触れている夫の気配。書斎で自らを追い詰め続ける長男の息遣い。寝室で兄の目を盗みながら息を潜める次男の気配。
誰もが、この「歩氏」という名門の重圧のなかで、静かに形を変えていく。
私は暗闇のなかで、そっと目を閉じ、心の中で何度も、何度も繰り返した。
(どうか、この子たちが、百点など取れなくともいい)
(泥まみれの、いびつな瓜のままであってもいい)
(ただ、生きて。傷つきながらでも、生きていてくれれば、それだけでいいから……)
母親の、届かぬほどに切ない祈りだけが、秋の夜長のなかに、静かに溶けて消えていった。




