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第一話:『泥の中の瓜』

長江のうねりは、夜明けの闇の中で低く、重い獣の唸りのように響いていた。


建安八年(西暦二〇三年)、秋。


江東の地を這う朝霧は、白く、どこまでも冷たい。廬江郡の辺境に位置するその荒野は、ただ泥濘と、枯れかけた雑草が広がるだけの見捨てられた泥土であった。


その漆黒の泥の中に、一人の男が立っていた。


歩隲(ほしつ)、字は子山(しざん)。今年で二十四歳になる、若き流寓(りゅうぐう)の士である。


彼の足は、長江の湿気を含んだ泥土(でいど)の中に深く埋もれている。


身に纏うのは、幾度も綻びを縫い直した粗末な麻衣であったが、その襟元は驚くほどに白く、一点の汚れもない。湿った土塊(つちくれ)に塗れながらも、彼の背筋は一本の竹のように天へと真っ直ぐに伸びていた。それは、徐州の名門・歩氏の血脈が、その肉体に刻み込んだ矜持そのものであった。


「……ふう」

歩隲は重い鉄鍬を振り下ろした。


ザク、と湿った土が両断される。泥の匂いが、長江の湿った風に乗って鼻腔を突いた。


彼の脳裏を、一瞬、紅蓮の炎がよぎる。


十年前の、徐州大虐殺の記憶であった。曹操の軍勢が引き起こした地獄。悲鳴、流血、焼き払われる故郷、そして非業の死を遂げた一族の顔。かつて名門として栄華を誇った歩氏は、一夜にして灰燼に帰し、彼は着の身着のままでこの江東へと逃れてきたのだ。


胸の奥から湧き上がる焦燥と、やり場のない憤怒。


だが、歩隲はふたたび鍬を握る手に力を込めた。


冷たい土の感触が、掌の肉を通じて、彼の荒れる心を現実に引き戻す。泥を耕し、土を反す。その単純な反復のなかで、胸中の雑音は静かに払われ、無心へと近づいていく。


額から流れ落ちる汗を、泥のついた袖で拭う。


足元を見れば、己の手で均された美しい黒土が広がっていた。


その瞬間、歩隲の端正な唇が、わずかに弧を描いた。徐州の地獄を見て以来、決して消えることのなかった張り詰めた緊張が融け、幼児のように穏やかで安らかな充足の微笑みが、その顔に浮かんでいた。


「土は裏切らぬ。手をかければ、必ず応える。……合理的だな」


彼は小さく呟き、ふたたび鍬を天へと掲げた。


◇


陽が昇るにつれ、白い霧は長江の水面へと引き引いていき、畑の全容が明らかになった。


まばらに植えられた瓜の蔓が、朝露を浴びて青々と光っている。その畑の脇にある小高くなった畔の木陰に、一人の青年が近づいてくるのが見えた。


「おいおい、子山。また夜明け前から、そんな骨の折れる真似をしているのか」


衣服をわざと着崩し、大きな桐の葉を日傘代わりに弄びながら、飄々とした足取りで現れたのは、衛旌(えいせい)、字は子旗(しき)であった。


歩隲とは同い年の二十四歳であり、同じく徐州の戦火を逃れてこの地へ流れ着いた、生涯の知己となる青年である。


彼は耕されたばかりの湿った土塊(つちくれ)が広がる畑を本能的に嫌悪するように、眉根を寄せて露骨に顔をしかめてみせた。湿った土から滲み出た水がわずかに彼の履物に触れただけで、大げさに飛び退く。


「そんな名門の立派な体躯を持ちながら、牛馬のように泥にまみれるとはな。頭を使え、頭を。なんと非効率なことか」


衛旌はそう言うと、泥の届かない乾いた畔の草の上に、どさりと寝そべった。そして、片目を細めて、悪戯っぽく不敵にニヤリと笑う。


歩隲は鍬を止め、泥だらけの手を腰に当てた。彼の顔には、このサボり魔の友に対する呆れた苦笑が浮かんでいた。しかし、その瞳の奥には、戦火を生き延びた者同士だけが共有する、深い信頼と温かい眼差しが滲んでいる。


「種を蒔かねば、実りは得られぬよ、子旗。口だけを動かしていても、腹は膨らまない」


「ふん、私は実りを得るための最善の路を考えているのだ」


「手を動かしていれば、世の不条理への憤りも消えていく。私にとっては、この肉体の労苦こそが、これ以上なく合理的なのだ」


歩隲が静かに返すと、衛旌は「頑固者め」と鼻を鳴らした。


しかし、衛旌の鋭い眼光は、寝そべりながらも歩隲の耕した畑の起伏を冷徹に見抜いていた。彼は桐の葉を放り投げ、顎で畑の北側を指す。


「……だが子山、その合理主義とやらも、天候の前には形無しだな。江東のこの湿気だ。このままでは北側の水が溜まりすぎて、瓜の根が腐るぞ。あそこの水路の口を少し泥で塞ぎ、乾きを調整したほうがいい」


歩隲は一瞬、言葉を失った。

言われてみれば、北側の土はわずかに黒みが深く、水が滞っている。己が黙々と鍬を振るう中で見落としていた土地の微細な変化を、畔で寝そべっているように見えたこの男は、その鋭い眼でつぶさに観察し、見極めていたのだ。


歩隲の顔から呆れが消え、瞬時に知的な喜びの笑みが弾けた。

「……なるほど。確かに君の言う通りだ。やはり君の眼は欺けないな」


「当然だ。私は泥に入らずとも、泥の機微がわかる男だからな」

衛旌は誇らしげに胸を張った。凸凹な二人の笑い声が、秋の柔らかな陽光の中に溶けていった。


◇


昼下がり、長江からの風がにわかに熱を帯び始めた頃、静寂は街道から響く粗野な足音と馬のいななきによって破られた。


畑の脇を通りかかったのは、地元の市場を牛耳る小役人と、数人の傲慢な兵卒たちであった。彼らは、贅沢な絹を身に纏い、見るからに傲慢な態度で歩を進めていた。


「おい、見ろ。あれは徐州から逃れてきた名家(めいか)の生き残り ではないか」

一人の兵卒が、泥まみれで働く歩隲を指さして下品に笑った。


小役人は馬を止め、蔑みの眼差しを歩隲へと向けた。


「名門の誇りも、江東の泥に塗れれば形無しだな。徐州の名門の倅(せがれ)が、 江東の泥を舐めて瓜売りか。哀れなものよ」

小役人はわざと馬の腹を蹴り、歩隲のすぐ脇の泥濘を駆け抜けさせた。


ビチャリ、と黒く冷たい泥が跳ね上がり、歩隲の清潔だった麻衣の襟元と、その端正な顔を汚した。

「……っ!」

畔にいた衛旌の表情が、一瞬で強張った。


彼の瞳に激しい憤怒の炎が燃え上がる。自分のこと以上に、親友が不当に侮辱されたことに、彼の血の気は一気に沸点へと達した。衛旌は拳を激しく震わせ、顔を歪めて立ち上がり、小役人へ掴みかかろうとした。


しかし、 それよりも早く、歩隲の長い腕が衛旌の肩をがっしりと制した。


「子旗、動くな」

歩隲の声は、凍りつくほどに低かった。


その瞬間、歩隲の瞳の奥に、普段の温厚さからは想像もつかない「射抜くような鋭い冷気」が走った。それは、徐州の焦土で幾千の死体を見つめ、地獄の戦火を潜り抜けてきた男だけが持つ、凄絶な眼光であった。その眼に射貫かれた小役人は、一瞬、己の心臓を掴まれたかのように身震いした。


しかし、次の瞬間、歩隲はその冷気を完璧に理性で融かしてみせた。


彼の顔に宿ったのは、相手を完璧に安心させ、煙に巻くための、穏やかで無害な、泥まみれの笑顔であった。


歩隲は深く頭を下げ、小役人に向かって恭しく一礼した。


「お役人様、貴重なご忠告、痛み入ります。私どものような流れ者、この江東の豊かな土地の恵みを頂戴し、日々生き延びるだけで精一杯でございます。以後、お目汚しにならぬよう励みます」


その卑屈なまでのへりくだりと、完璧な笑顔を見た小役人は、先ほどの恐怖が気のせいだったと思い直し、鼻で笑った。


「ふん、所詮は牙を抜かれた犬か。泥を舐めて生きるのがお似合いだ」

小役人たちは嘲笑を残し、そのまま街道の彼方へと去っていった。


彼らの姿が見えなくなると、衛旌は悔しさに奥歯を激しく噛み締め、怒りで顔を真っ赤に染めて歩隲の手を振り払った。


「なぜ耐える、子山! あのような奴輩(どはい)、お前の知略と私の弁舌があれば、いくらでも追い詰める路はあったはずだ! なぜあんな泥まみれの屈辱を呑み干した!」

歩隲は顔についた泥を、手ぬぐいで静かに拭い取った。


そして、今度は偽りのない、心からの穏やかな笑みを親友に向けた。


「意地を張って飢えるより、耐えて生き延び、この土地を利用させてもらう方がはるかに合理的だ、子旗。無駄な刃傷沙汰で命を落とすなど、最も愚かしい。我らの命は、あのような小役人の自尊心を満たすためにあるのではない」


歩隲の言葉には、揺るぎない理性の重みがあった。


衛旌はまだ納得のいかないように拳を握りしめていたが、歩隲の揺るぎない瞳を見るうちに、その怒りの歪みは、やり場のない溜息へと変わっていった。


◇


夜が訪れ、廬江の辺境は深い闇に包まれた。


二人が身を寄せる庵は、雨漏りの音が時折床を叩く、薄暗く狭い空間であった。


その中央に、一本の細い蝋燭の火が揺らめいている。


昼の過酷な重労働を終えた後だというのに、歩隲の眼にはいささかの疲労の色もなかった。彼は真剣な眼差しで、文字の擦り切れた古典の竹簡を蝋燭の火にかざし、一字一句を頭に叩き込むように読み進めていた。


傍らで寝そべっていた衛旌が、呆れたように顔を向け、不満げに呟く。


「よくもまあ、そんな退屈な聖人の言葉を丸暗記できるものだ。過去の遺物をいくら覚えたところで、明日の腹の足しにもならんだろうに」


歩隲は竹簡から目を離さず、静かにその一節を読み上げた。

「『礼は其の奢らんよりは、寧ろ倹なれ。喪は其の易(おさ)まらんよりは、寧ろ戚(いた)め。』……形骸化した儀礼よりも、内なる誠実さと倹しさこそが本質である、という意味だ。今の我らの境遇にも通じるものがあるとは思わないか」


衛旌はふっと表情を変えた。

彼の飄々とした空気が消え、天才特有の鋭さがその顔に宿る。彼は天井を見上げたまま、鼻で笑うように言った。


「要するにその聖人が言いたいのは、こういうことだろ。『中身のない大層な器を飾る暇があるなら、中身の泥水を捨てて、一滴の清い水を満たせ』と。形ばかり立派で中身のない名門よりも、我らのように泥にまみれても牙を研ぐ者のほうが、よほど聖人の教えに叶っているということさ」


歩隲は、目を見開いて驚愕した。


端正な顔が驚きの色に染まる。何年もかけて学者たちが議論するような難解な教えの本質を、この男はただの一言で、しかもこれ以上なく的確に独自の比喩で言い当ててみせたのだ。


驚きは、やがて敗北を認めるような、心からの愉快な大笑いへと変わった。

「はははは! やはり、君には敵わないな、子旗! 君こそ、その頭脳を埋もれさせておくのは非合理的だ」


「ふん、言ったろう。私は頭を使う男なのだ」

衛旌もまた、相好を崩して屈託のない笑顔を見せた。


歩隲は机の脇から、昼に収穫したいびつな瓜を取り出した。包丁で叩き割ると、パキッと小気味よい音が響き、みずみずしい香りが庵を満たした。二人はそれを分け合い、豪快に齧りついた。


「……甘いな」


「ああ、泥の中で育ったとは思えんほどに、瑞々しい」

口いっぱいに広がる圧倒的な甘みに、二人は目を細め、子供のように屈託のない幸せな笑みを咲かせた。


◇


やがて夜が更け、満腹になった衛旌が静かな寝息を立て始めた。


庵の中には、時折響く虫の声と、蝋燭の爆ぜる音だけが残る。


歩隲は静かに筆を執った。


彼は今日あったこと――小役人からの侮辱、己の心の奥底に走った激しい揺らぎ、そして衛旌が示した驚くべき才知を、感情を一切交えずに、日録(にちろく)へと淡々と客観的に書き留めていく。己の心を客観視し、整理すること。それもまた、彼が編み出した精神の合理主義であった。


書き終え、筆を置いた歩隲の視線が、机の隅に置かれた「いびつな瓜の種」に留まった。


彼はその小さな種を、愛おしそうにそっと指先で触れた。


「人の心も、同じように耕さねばならぬな。泥を恐れず、種を植え、時を待つ……」

静かな決意を胸に、歩隲は息を吹きかけ、細い蝋燭の火を消した。


庵は深い静寂と闇に包まれ、江東の夜が更けていく。彼らの未来を育む泥土だけが、暗闇の中で静かに呼吸を続けていた。

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