第二十五章 刺繍の花束
「旦那様、足元にお気を付けください」
小船から降りようとすると、ドリナが手を貸してくれた。たかが川を渡っただけだが、痩せた板でも揺れない桟橋の上に足を置けるとほっとする。視線の先、桟橋の根は平野から伸び、そこには街が広がっている。
ウィルの背後、大河の対岸には小高い丘、そのてっぺんには先ほどまで居た石壁に囲まれた王宮が小さく見える。数百年前、防衛上の理由から城が移動し、政治の中心となっている西岸とは違い、低地の東岸は商人たちが集まり、自由都市となっている。
船着き場が近いせいか、通りには露店が所狭しと並んでいた。棒切れに薄汚い布を垂らして屋根にしただけの粗末な店先に毛皮を吊り下げている店や、荷車のまま蕪やケールを売っている店、脇で石畳に座り込んで鍋を叩いている修理工までいる。
「そんな気を使ってもらわなくても大丈夫だよ」
ドリナの案内に任せていたが、たまらず声をかけた。気分転換に市場に行きたいと言ったところ、外国に行ったローザに代わり彼女が付き添ってくれたのだが、悪路では手をひいたり、車道側を歩いたり、通行人を警戒したりとこっちが恐縮するほど尊重してくれる。
「ですが……」
「今はお忍びだから」
丁重に扱ってもらって申し訳ないが、どう考えても一介の同僚への態度ではない。周囲が不信感を持ってしまう。彼女にはどうにか納得してもらい、気ままに露店を眺める。
ウィルが事前に集めた小麦と外貨で冬を越す目星はついた。冬を乗り切れば、春になる。雪で閉ざされていた道も行商人の行き来が増え、流通が活発になる。食糧による赤字を抱えていては、幾ら金貨の山を積み上げたところで目減りしていくだけだ。
エースターで冬の間に市民の間で広まった軍靴はきっと飛ぶように売れるだろう。欲を言えば他にも外貨を得る術があると有難い。
何軒か冷やかしたところで、思わず足を止めた。行き交う一人の女性の出で立ちに目を奪われたのだ。身体にぴったりとした上着、肩のあたりで膨らんでいる袖、フリルのついたスカート。そのスカートの上には白いエプロンを着用しているのだが、色とりどりの花々がびっしりと刺繍されている。それにしてもどこかで見たことがある顔だ。ウィルが凝視していたら相手も同じようにこちらを見つめていた。
「誰かと思えば王配殿じゃないか!」
あまりの大音声に通行人が振り返る。慌てて彼女の口を塞ぎ、ドリナが「あらら、何仰ってるのかしら、おほほほ」と猿芝居している間に路地裏に引っ張った。ウィルはようやく思い出した。あのお茶会で蜂を出した、無礼で粗野な領主夫人だ。
「ステイステイ。今、お忍びで出かけているんで静かにしてくれる?」
「ありゃ。そりゃ悪いことしたね。しかし何だってこんなところに」
「引き続き特産品探しだけど。そう言うあなたは?」
「食料の買い出しに来てるのさ。領地ではあまり穀物がとれないからね。都は小麦が安くってありがたいね」
「彼女の夫君の領地は国の北東の方で、オノグルでもとりわけ貧しい地域なんです」
ドリナがそっと耳打する。
「それにしては派手な刺繍だね」
女性に対しては不躾だが、しゃがみ込み、エプロンを掴んでまじまじと眺める。白い生地にはシャクヤクやバラ、カーネーション、チューリップ、スミレなどの図案が所狭しと、赤い糸と青っぽい糸を使って丹念に表現されている。
「腕が良い人が作ったんだね。これ何かな、レース?」
エプロンがカラフルなのは先に述べたとおりだが、スカートの先にも装飾が施されている。模様が浮き上がるようで、糸で編んで作ったものとは違うようだが。
「布を切ってつくったんだ。他の村でやってたのを真似して。そう言ってもらえるんなら、腕を振るった甲斐があるってもんだよ」
思わず裾から手を離す。
「あなたが縫ったの?」
「そうだよ。刺繍の上手い女はモテるんだよ。今の旦那もそれで射止めたのさ」
今の旦那とは領主のはずである。
「あたしらはどんなにひもじい思いをしてでも華やかな刺繍をした服を着るんだ」
「そんなことある?」
「彼女たちの村のことを詠んだこんな詩があります。
Ragyogok mindenkor,(私はいつも、キラキラ輝く)
Koplalok früstükkor,(朝餉はいつも、お腹ペコペコ)
Ebédkor nem eszek,(お昼ご飯は、食べてない)
Vacsorára lefekszek.(夕食時は、眠ってる)」
「それ、皮肉では? 着飾るばかりでろくに食事もできてないっていう……」
見栄っ張りで生活を切り詰めても衣服にお金をかけていると言うことだ。呆れ交じりに指摘すると、夫人はまあね、と肩を竦める。
「でも単に派手なだけじゃないよ。実は悪魔を避けるためのまじないでもあるんだ」
「なんでエプロンすることが魔除けになんの?」
「実は地元にこんな昔話が伝わっていてね」
彼女の語った話を要約するとこうだ。
昔、村に突如悪魔が現れ、一人の青年をさらっていった。その青年の許嫁の女性は、彼を返してくれと泣きながら悪魔に訴えた。すると悪魔は「エプロンいっぱいの花を持ってきたら返してやろう」と言い残し、姿を消してしまった。
季節は冬、しかもオノグルの中でもとりわけ貧しい村に花など一本も咲いていなかった。
しかしこの女性はあきらめなかった。エプロンに花の刺繍を施したのだ。約束の日、美しい刺繍に埋め尽くされたエプロンを見た悪魔は大変驚き、青年を村に帰すしかなかった。
「そう言うわけで、うちの村には男に婚約指輪の代わりにエプロンを贈る風習があるんだ」
「男にエプロン!?」
エースターにもスカートの上にエプロンをつける風習がある。勿論、労働者階級がつけるものだからこんなに派手な刺繍はないが。
「そんなに驚くことかね。エプロンっつったって他国みたいに料理の時に着るやつじゃなくて、礼拝の時にスカートの上に重ねるやつのことだよ。うちの村は悪魔を避けるために男も女もエプロンするのさ」
所変われば衣服も変わる。男が着るなんてとびっくりしたが、通行人の中にもズボンの上につけている者や、そもそもスカート的なものを穿いている者もいる。そう言う民族衣装なのだろう。
「蜂じゃなくて最初からこの刺繍を持ってきてくれれば良かったのに。これならエースターや他の国でも通用するよ」
図案は素朴だけど可愛らしい。それに彼女の言葉が正しいなら、村の女性は殆どがこのクオリティの刺繍ができると言うことだ。
「え? これを売るだって? 外国に?」
似非夫人は明らかに困惑した。
「そんなこと考えたこともなかったよ。だってこれは自分や好きな人のためのもんだもの」
この出来栄えの刺繍を内輪だけで終わらせるなんて勿体ない。作っている本人がその価値がわからないなんて。近くにあるものは案外見えないのかもしれない。しかし元は恋人のために祈りを込めて刺繍したもの、それを売り物にしないと言う考え方も素朴で良い。そこにお金を持ち込んで勘定すると言うこと自体、間違っているのかもしれない。
とは言え、悪いがそう言う感傷に浸っていられる状況ではない。他国に売れそうなものは片っ端から売るしかない。
夕食の席でウィルは早速、領主夫人から預かったエプロンを女王に披露した。
「どう? 可愛いくない?」
「はあ」
いつもながら反応が薄い。今日は輪をかけて機嫌が悪い気がするが、めげない。
「この刺繍なら布地は暗い色の方が映えると思うんだよね。服はサイズや流行りの形もあるから一着作るのは大変だけど、ハンカチや小物とかなら取り入れやすい。それならすぐに作れるし。いずれドレスのデザインにも取り入れたいね。糸は草木染のものではなく、エースターから取り寄せたらどうだろう。俺が使うと言えば外交官も融通してくれるはず。最近はもっと色が長持ちするものもあるし
……どうしたのイロナさん?」
女王は苦り切り、唇を歪めた。
「ああ、外交官なら逃げた」
「逃げた?!」
ウィルは目を白黒させる。いけ好かない外交官だったが、エースターとの唯一の窓口。外国にいるエースター人を守る役目もある。それが、逃亡?
「先日、貴国の真意をお伺いしたいと外交官を呼びつけたのだが」
外貨の取引を停止されたこと、女王は正式に抗議した。しかし外交官はウィルと対談した時と同じような調子で、交渉は決裂した。苛立った女王が「それは我が国との関係を終わらせ、ことを構えるおつもりと言うことだな?」と詰問したら青い顔で退出し、その日のうちに荷物をまとめたらしい。
「エースターはなんて……」
外交官が無断で逃亡なんて国同士の信頼を裏切るとんでもない行為だ。帰国した外交官が自分を正当化するため母国であらぬことを吹聴したら、さらに関係が悪化してしまう。
「現在進行形で喧嘩を売っている国と言えど、外交官に何かあっては国際問題になる。経緯を事細かに知らせ、潜伏している外交官の動向を日報でエースターに送りつけている」
女王は大きめに切った肉を噛みちぎった。
それはお気遣いどうも、としか言いようがない。女王は大人の対応をしてくれた。たぶん外交官の首だけ送り届ける選択肢もあったが、ウィルとの約束の手前、戦争にならないように気を使ってくれたのだ。
「全く意味が分からん。我々を挑発すれば戦争になり、外交官である自分の身が危うくなるなどわかりきったことではないか。何故、今更逃げ出すのだ」
オノグルが困窮すれば戦争に向かうことは学生だったウィルでもわかったのだ。母国の外交官は平和ボケしているとしか言いようがない。
「それに、国境付近の警備も平常通りだ。兵糧も用意しておらず、警戒すらしていない。理解に苦しむ」
「調べたの?」
侵略しないと約束したのにと恨みがましい視線で抗議するが、女王は悪びれない。
「言っておくが君の条件とやらを呑んで猶予しているだけだ。状況が改善せねばこの国が飢え死ぬ状況は変わっていない。軍を動かす前に偵察するのは当たり前だ。ただ……」
言葉を区切り、刺すような目でエースターの小麦で作ったパンを睨む。
「一体、エースターは何が目的なのだ。国内がバラバラなのはいつものことだ。軍でもそうだった。有力貴族同士のイザコザ、聖戦だの何だの言って軍を勧誘してくる宗教家との対立、足の引っ張り合い。おかげでこっちは付け入るスキがあるわけだが。我が国と表面上は上手くやっていきたい勢力もあれば、蛮族と蔑み帝国ともども始末したい勢力もあるだろう。が、今回のことは私の理解を超えている。まさか、ただの嫌がらせではあるまい? 我々を経済的に追い詰めれば武力を用いることなど明白ではないか。だと言うのに国境では迎え撃つ準備すらしていない。おかしいだろう? 政策が矛盾している。曲がりなりにも大国を支える重鎮もいるはずだ。それとも、考えなしの馬鹿ばかりなのか?」
言葉は酷いが、一人でこの国を背負い、行く末に憂いている王の目から見れば意味不明の決断だろう。
「謝って欲しかったんじゃない?」
「……は?」
「そんな大ごとになるとは思わず、単に嫌がらせのようなつもりだったのかも。実際、兵の一人も動かしてないわけだし。女王が謝罪すれば、案外それで満足したのかも」
ウィルはこの国を脅かす論文を書いたが、実際に政策として反映させてやろうと思ったわけではない。父を亡くした悲しみや弱い国に生まれた鬱屈を紙にぶつけた。苦境に陥る国を想像したり、手段を考えるだけでも気が済むものだ。
「国ってのは体面を気にするものだ。特にエースターは教皇に選ばれた神聖な国としてのプライドもある。また、王の権力は弱く、家柄や面子を重視する有力な大貴族が実権を握っている。そんな奴らが正面から蛮族の国家に打ち負かされたら、良い気はしないだろ?」
少なくとも外交官はそう思っていた。
「そんなことのために私の国の民を苦しめたと? 私の頭を下げさせるために?」
猫のような眼がさらに丸くなっている。
「誰もが単純に世の中を見ているわけじゃない。白か黒か、勝つか負けるか、得か損か。例えばイロナさんは食べられるか食べられないかで食事を見ているけど、そうじゃない人もいる。食べ物を切り詰めて着飾る人がいるように」
勿論、女王には余分なことを考え、感じる余裕が無かったのは重々承知しているのだが。
「俄かには信じられぬな。しかし君の言い分が真ならば、私が謝罪を入れることも視野に入れよう。戦争よりプライドを捨てる方が犠牲が少ない」
そんなことを簡単に言ってしまえる女王だからこそ、エースターの決断は短絡的で理解できないものだろう。




