第5話「金瀬らい」
金瀬らいは、強い人間になりたいと思って警察官になったわけではなかった。誰かが困っているとき、見て見ぬふりをしない人間になりたかったのだ。
その考えの始まりは、幼いころに通った町の柔道場にあった。母親と2人で暮らす家計に余裕はなく、習い事に金をかけることは難しかった。
だが、近所の道場は、経済的に厳しい子どもには月謝を取らずに教えてくれた。
畳の匂い、窓から入る夕方の風、先生の低い声。金瀬は今でも、それらをはっきり覚えていた。
「投げられたら、すぐに立て」
柔道の先生はいつも繰り返し、同じことを言っていた。
「よく覚えておけよ、金瀬。強いっていうのはな、相手を倒すことじゃない。自分より弱い人間を守れることだ」
小さな金瀬は、その言葉を何度も聞いた。何度も畳に転がされ、膝を擦りむき、それでも立ち上がった。
柔道は彼女に、自分より体の大きい相手と向き合う方法を教えた。ただし、それは力で勝つ方法だけではなかった。
相手の動きを見て、重心を読み、無理にぶつからず、必要なときに力を使う。勝つことより、状況を判断することが重要だった。
高校生になった金瀬は、授業のあとにアルバイトへ向かい、帰宅してから課題をこなした。母は疲れた顔で帰ってきても、娘の前ではなるべく笑おうとしていた。
金瀬は早く自分で生活できるようになりたいと思った。大学進学も選択肢にはあったが、学費と生活費を考えると簡単ではなかった。
高校2年の冬、駅前で忘れられない出来事があった。
夕方、冷たい風が吹く歩道で、酔った男が女性に絡んでいた。女性は何度も離れようとしたが、男は進路をふさぎ、声を荒らげた。
周囲には何人もの通行人がいた。誰もが見ていた。だが、誰も近づかなかった。
金瀬も、同じように足が止まったまま動けなかった。怖かったのだ。
柔道を習っていても、実際の揉め事は道場とは違う。相手が何をするか分からない。自分が近づいて、事態が悪化したらどうする。
頭の中で理由がいくつも浮かび、身体は固まっていた。
そのとき、近くにいた警察官が間に入った。
警察官は大声で威圧するのではなく、まず女性を安全な場所へ移し、男との距離を取りながら周囲の状況を確認した。
応援を求め、通行人にも協力を頼み、やがて男を落ち着かせた。すべてが終わるまで、警察官は何度も周囲を見ていた。
ひとりの勇敢な行動というより、職務として状況を引き受けているように見えた。
帰り道、金瀬は自分が動けなかったことを恥じた。しかし、同時に恥じるだけでは何も変わらないとも思った。強くなりたい。
誰かが助けを必要としているとき、自分がその場にいたなら、少なくとも何をすべきか判断できる人間になりたい。
高校卒業後、金瀬は大学へ進まず、警察官採用試験を受けた。家計の事情もあったが、それだけではない。自分の力で生活し、誰かを守るための仕事をしたかった。
警察学校では、法律、手続き、体力訓練、射撃、柔道、集団行動を学んだ。道場で身につけた技術は役に立ったが、それだけでは足りなかった。
相手を投げる前に、投げる必要があるのかを判断しなければならない。
拳銃を扱う訓練では、狙いを定めること以上に、撃たずに済む状況を作ること自体の重さを教えられた。
金瀬は人一倍練習した。射撃場では、同じ動作を何度も繰り返した。
的の中心に当たったときも、喜ぶより先に、なぜ当たったのかを確認した。失敗したときは、呼吸、姿勢、視線、判断のどこに問題があったのかを考えた。
警察官になってからも、若さや性別を理由に軽く見られることがあった。
「現場は大丈夫か」
「無理しなくていい。危険な仕事は男に任せればいい」
そう言われるたびに、金瀬は言い争わなかった。現場で判断し、必要な訓練を続け、任された仕事を終わらせた。評価が変わることもあれば、変わらない相手もいた。
全員を納得させることはできない。ならば、守るべき人間を守るために必要な力を身につけるしかなかった。
26歳になった金瀬は警部補となり、2036年4月、新設されたOZ対策特別チームに配属された。
チームの人数は15名。相手の規模すら分からない状況で、限られた人員をやりくりしなければならない。
「君は現場を頼む」
責任者の新庄は、最初の面談でそう告げた。声に軽視の色はなかったが、金瀬は簡単に信頼されたとは思わなかった。新庄もまた、結果を見て判断する人間なのだろう。
「分かりました。現場で必要なことを確認します」
「無理をするな。危険を恐れないことと、危険を理解しないことは違う」
「承知しています」
会議室を出たあと、同僚の1人が金瀬に声をかけた。
「大変そうだな。相手はテロ組織だ。訓練とは違う」
「分かっています」
「君が前に出る必要はないかもしれないぞ」
金瀬は足を止め、相手を見た。
「その必要があるかどうかは、現場を見て自分で判断します」
それ以上は言わなかった。相手は肩をすくめて去っていった。金瀬は廊下の窓から、春の街を眺めた。
歩道には新しい制服を着た学生がいて、駅前では買い物袋を持った高齢者が信号を待っていた。
守るべき人々の生活は、誰かが危険を引き受けていることを意識しなくても続いている。
OZは、老人を社会の負担と呼ぶ。金瀬は、その言葉が人間を簡単に分類してしまうことに危険を感じていた。だが、社会の問題が存在しないとも思わない。
政府の対応が遅れれば、人々の不満が積もる。その不満を理解することと、殺人を認めることは別だ。
金瀬は手帳を開き、担当する仕事を書き込んだ。情報を集める。現場の状況を把握する。隊員の安全を確保する。判断を誤らない。やるべきことは多かった。
そのとき、彼女はまだ知らなかった。
数週間後、防犯カメラの映像の中に、何度も思い返すことになる若い構成員の姿を見つけることを。
名前も顔もはっきりしないその人物は、やがて彼女の記憶に「名前のない誰か」として残り続ける。




