俺は悪くない
人生には、どうしようもない事故というものがある。
たとえば、朝起きたら目覚ましが鳴っていなかったとか。
たとえば、コンビニで買ったおにぎりの具が、思っていたより端に寄っていたとか。
たとえば、駅前の階段で突風が吹いて、前を歩いていた女性のスカートがふわりと持ち上がってしまったとか。
そう。
今の俺である。
「…………」
「…………」
駅前の歩道橋。
通勤と通学の人間が入り混じる、朝の人類大移動タイム。
その真ん中で、俺――佐久間レン、二十歳は、石像のように固まっていた。
目の前には、同じく固まっている女性。
年齢は俺より少し上くらいだろうか。スーツ姿で、いかにも仕事ができそうなタイプだった。
そして、空気だけが死んでいた。
いや、違う。
先に言っておく。
俺は悪くない。
これは不可抗力だ。
たしかに見えた。
見えてしまった。
でも、それは俺の意思ではない。
強風が悪い。
天気予報が悪い。
もっと言うなら、この街のビル風を計算しなかった都市設計が悪い。
つまり、俺は被害者側である。
「見ましたよね?」
女性が、にっこりと笑った。
笑っているのに、目が笑っていなかった。
俺は人生で初めて、笑顔というものが人間を追い詰める武器になることを知った。
「い、いや」
俺はゆっくり首を振った。
「見てないです」
「見ましたよね?」
「見てないです」
「目、合いましたよね?」
「それはあなたとです」
「違います」
「いや、でも、目が合ったならそれは健全なコミュニケーションというか」
「どこと目が合ったんですか?」
「すみませんでした」
反射で謝ってしまった。
まずい。
謝ったら負けだ。
こういう時は堂々としていなければいけない。堂々としていれば、たとえ状況が最悪でも、人は多少ごまかせる。
俺は咳払いをした。
「あのですね。これは本当に事故なんです。俺はただ普通に歩いていただけで、そこに急に風が吹いて、自然現象の結果として、視界に入ってしまっただけで」
「つまり見たんですね?」
「見たか見てないかで言えば、自然が見せてきた」
「最低ですね」
「違う! 自然が最低なんです!」
周囲の視線が集まってきた。
会社員。学生。犬の散歩をしているおばあさん。ついでに犬までこっちを見ている。
やめろ。
そんな目で見るな。
俺だって好きで朝から人生の裁判にかけられているわけじゃない。
そもそも、俺は今日、ただバイトの面接に行くだけだった。
二十歳。
大学にも行かず、就職もせず、なんとなくフリーターをやっている俺が、さすがにそろそろちゃんと働こうと思って、求人サイトで見つけた倉庫作業の面接に向かっていただけだ。
それがどうして、駅前で社会的生命の危機を迎えているのか。
人生は理不尽だ。
「言い訳はそれだけですか?」
女性が一歩近づいてくる。
俺は一歩下がる。
「待ってください。話し合いましょう。人間には言葉があります」
「さっきから言葉で最低なことしか言ってませんよ」
「それは俺の語彙力の問題であって、人格の問題ではありません」
「大体同じです」
「違います! 人格はまだギリギリ助かります!」
女性のこめかみが、ぴくりと動いた。
あ。
これはまずい。
俺の口は昔から余計なことを言う。
黙っていれば被害は小さく済む場面で、なぜか一言多い。昔、母親にも言われた。
『レンはね、悪い子じゃないけど、口が悪いせいで全部悪く見えるのよ』
母さん。
その教育方針、今すごく実感している。
「本当に……」
女性が小さく息を吸う。
「反省してます?」
「してます。めちゃくちゃしてます。今なら風に対して訴訟も辞さない構えです」
「あなたが反省してください」
「はい」
俺は素直に頭を下げた。
ここはもう謝るしかない。
朝から女性を不快にさせたのは事実だ。俺に悪意はなかった。でも相手からすれば、そんなものは関係ない。
俺は勢いよく頭を下げる。
「すみませんでした! 本当にわざとじゃありません! 俺は見ようとしたわけじゃなくて、視界の方から勝手に――」
言い終わる前に。
ぱぁんっ、と乾いた音がした。
一瞬、世界が横にずれた。
頬が熱い。
いや、熱いというより、燃えている。
脳みそが遅れて理解した。
俺はビンタされた。
しかも、なかなかの威力で。
「……いってぇ」
「これで終わりにします」
女性はそう言うと、俺を睨んだまま歩き去っていった。
周囲の人たちは、見てはいけないものを見た顔で、そそくさと散っていく。
犬だけが最後まで俺を見ていた。
なんだ、その顔は。
お前に人間社会の何がわかる。
「……俺は悪くない」
ぼそっと呟く。
いや、完全に悪くないとは言わない。
でも、百パーセント悪いわけでもない。
せめて三十パーセントくらいは風に責任があるはずだ。
俺は頬を押さえながら、ふらふらと歩き出した。
まずい。
面接の時間に遅れる。
ただでさえ職歴が薄いのに、遅刻までしたら終わりだ。いや、さっきの時点で社会的にはだいぶ終わっている気もするが、まだ物理的には終わっていない。
そう思った瞬間だった。
ぐらり、と足元が揺れた。
「……ん?」
地震かと思った。
けれど違った。
揺れているのは地面ではなく、俺の視界だった。
歩道橋の手すり。駅前のビル。信号機。行き交う人たち。全部がぐにゃりと曲がっていく。
ビンタの威力で脳が揺れたのか。
いや、そんな漫画みたいなことがあるか。
「え、ちょ、待て……」
体に力が入らない。
膝が抜ける。
倒れる。
まずい。
ここで倒れたら、さらに人が集まる。救急車を呼ばれる。さっきの騒動と合わせて、完全に不審者として記憶される。
俺は手すりを掴もうとした。
だが、指先は空を切った。
視界の中心に、奇妙な光が浮かぶ。
白くて、丸くて、やけに神々しい光。
その中から、声が聞こえた。
『条件を満たしました』
「……は?」
誰だ。
何の条件だ。
俺は今日、面接以外の予定を入れていない。
『対象者を召喚します』
「召喚?」
最後に見えたのは、歩道橋の床ではなかった。
足元に広がる、幾何学模様の光。
円形に並んだ文字。
見たこともない記号。
そして、やたらファンタジーっぽい魔法陣。
俺は思った。
いや、待て。
この流れはおかしい。
さっきまで俺は駅前にいた。
パンチラ事故を起こし、ビンタされ、人生の尊厳を少し失ったばかりだ。
そこから魔法陣は急すぎる。
せめて間に説明を挟め。
「おい……まさか……」
意識が遠のく。
体が光に飲み込まれていく。
その瞬間、俺は心の底から叫んだ。
「異世界転移のきっかけがビンタって、あんまりだろぉぉぉぉ!」
そして俺の意識は、そこでぷつりと途切れた。
次に目を覚ました時。
俺は、石造りの床の上に倒れていた。
頬はまだ痛い。
頭も痛い。
ついでに心も痛い。
ゆっくり顔を上げると、そこには見知らぬ天井があった。
高い天井。
古びた柱。
壁にかかった剣と盾の飾り。
木製のカウンター。
酒場みたいなざわめき。
そして、俺を囲むように見下ろしている、見知らぬ人々。
耳の尖った女。
小さな羽の生えた女。
狼みたいな耳と尻尾を持つ女。
黒いマントを羽織った盗賊っぽい女。
全員、顔はいい。
顔だけは、やたらいい。
だが俺は、そんなことより先に確認しなければならないことがあった。
「……ここ、どこ?」
周囲がしんと静まり返る。
しばらくして、カウンターの向こうにいた受付嬢らしき女性が、困ったように微笑んだ。
「ここは、ポンコツィア大陸、ポンコツァール王国の冒険者ギルドです」
「…………」
俺はもう一度、床に顔を伏せた。
「終わった」
「え?」
「名前からして、絶対まともな世界じゃない」
こうして俺、佐久間レンの異世界生活は始まった。
現実世界では、ただの事故。
異世界では、なぜか召喚。
そして俺はまだ、この時知らなかった。
このあと自分に与えられる能力が、人生で二番目くらいに恥ずかしいものだということを。
一番はもちろん。
異世界転移のきっかけが、ビンタだったことである。




