第1話
その電話は、唐沢の行先を変えた。
探偵でありながら、いつからか決まった時間に事務所に入るようになっていた。
秘書兼お目付役である叔母の存在も、その理由のひとつだ。
唐沢はこの電話を好意的に受けた。向かう先は閑静な住宅街である。正確な住所は携帯に送られてきたが、番地を確認するまでもなかった。
救急車が、目的の家を告げていた。
榎本刑事に呼ばれたと、制止する警官に告げると、胸の前に置かれた手が玄関に向けられた。ドアは開け放たれている。重厚な造りだったが、その重さを味わう機会は失われていた。
玄関から中を伺うと扉の印象は霞み、代わりに一人の女性が立っていた。住人であることに疑いはなかった。
「貴方は、黄色いですね」
唐沢は、解剖しても意味はない、と胸の奥で呟きながら、唐突に女性に言った。
女性はわずかに困惑を見せたが、すぐに表情を整えた。
「何がですか?」
その身に、黄色はない。
「貴方の中にあるもの……」
「私の中に……?」
言葉は宙に浮いたまま、どこにも触れずに落ちた。
「よう、唐沢。来たか」
刑事の榎本が、その言葉を断ち切った。
「玄関で立ち話とは、場をわきまえろ」
それを聞いていた、高瀬真由の表情が、わずかに抜けた。
「バカ言うな。さすがの俺でも、それくらいの常識はある」
「この男が失礼なことを」
「だから……」
二人のやり取りを真由は黙って聞いていた。視線は静かで、どこにも定まっていない。
「こちらでお話を聞かせてください」
榎本に促され、真由はダイニングルームに向かった。この家のダイニングは、不思議とこういう話に馴染んでいた。
唐沢はふたりの背中を動かず見送った。
「では、ご主人を発見した時のことを」
榎本が内ポケットからメモ帳を取り出した。真由は、目をメモ帳に向けた。
「昨夜、帰宅したのは深夜遅くでした。主人はもう寝ていると思い、起こさないようにそのまま休みました」
「……”思った”?」
榎本は、手を止めて視線を上げた。真由の視線がほんのわずかに揺れた。
「寝室は別ですので」
「なるほど。では、実際には確認していない?」
「ええ」
榎本は、わずかに間を置いた。
「それで、今朝は?」
「リビングに降りても主人がいませんでした。いつもなら私より先に起きているはずなのに」
「ですが、寝室は?」
その問いに、真由は一度だけ息を止めた。
「……娘が、先に気づきました」
声が、わずかに低くなった。
「きっと、私が行くべきでした」
「娘さんが発見された?」
真由は頷き、視線をやむなく下げた。
「娘が……お父さんが、と」
その先は、続かなかった。
「寝室が同じ方が異常だろう」
背後から、唐沢の声が落ちて、榎本の顔を歪めた。
「お前を呼んでいない。座るなら俺の隣だろう」
「そうか。この状況でどちらを選ぶかは当然の帰結だろう」
「お前は状況をどのように理解しているかな」
「状況」という言葉が、唐沢の中で形を変える。神経の奥を、ゆっくりと動き回った。
「分かったよ」
そう言いながら、唐沢は榎本の隣に座る代わりにリビングに向かった。
「失礼しました。ちょっと変わり者で。話を戻しますが、それからどうされました?」
「娘が降りてきて、お父さんが……それで私が夫の寝室に行きました。そして、救急車を呼んだのです」
唐沢は、二人の会話を背に、リビングのテーブルにある一枚のコピーに目を落とした。その一文だけが、黄色に縁取りされていた。
「対象が選択の責任を単独で引き受けた状態において、外的承認は逸脱行動の最終的な引き金となる」
唐沢は、その一文をもう一度だけなぞった。
「……なるほどな」
唐沢は顔を上げた。
「……これは、ご主人の論文ですか?」
真由は、すぐには答えなかった。




