象形的な文字列
何故詩は述べず語らずかということについて。つまり、短歌は述べるか。俳句は語るか。ということである。侘寂は述べるか。語るか。ということでもある。抒情は言葉を描き色を付けるが、言葉のままを並べはしない。感情を置くが、論理を述べない。理を書くときは、それもまた色として使うのみだ。そうして表情を見せるが、屈託を語らない。それは共感の材料として配置されるだろう。余韻とは音であり意味ではない。幕が下りても響きが止まないことを示すことをそう呼ぶのなら、詩の最終行を読み終えてもまだ残っている何かことを何と呼ぶのか。景色のようでもあり、残響のようでもあり、記憶のようですらある。それは述べているか。語っているか。そこにこそ詩があるのだ。むしろ始まっている。読み手の中にだけある固有の内形に沿う、それは象り。その詩を引き金として起こるもの。見えぬはずの形なき己の姿が霧の中の影のように映し出されている。どうして己が述べられようか。語られようか。まだ未定の未来があるのだから。今の瞬間にすら追いつけない感覚の遅れより、わたしたちは己を掴み切れないのだから。つまり、詩は我らの象形的な文字列である。我らはそれに映し出される影であって、また映し出す光源ともなりえる不確かな未確定なのだ。