平穏な日常
ジリジリと照りつける午後二時の太陽が、古びたアルミサッシの窓枠を通して、教室の端にある机を真っ直ぐに射抜いていた。
その窓際の特等席で、神代悠真はいつも通り、机に突っ伏して深い眠りの中にいた。両腕を器用に枕代わりにし、教科書は開かれることもないまま机の隅に追いやられている。
クラスメイトたちから見た悠真の印象は、徹頭徹尾、これに尽きた。
『いつも寝てるやつ』
それが、2年A組における彼の定位置であり、存在理由のすべてだった。特定のグループに交わることもなく、かといって誰かと険悪な空気になるわけでもない。彼はただの背景として、この教室の片隅に静かに溶け込んでいた。
だが、そんな「眠り姫」を見つめる視線は、教室の中に少なからず存在していた。
最前列の席で、黒板の文字を几帳面な字でノートに書き写している学級委員長の桜庭美咲だ。彼女は時折、シャープペンの手を止めては、小さくため息をつきながら悠真の様子を盗み見ていた。 美咲と悠真は家族ぐるみの幼馴染だった。
周囲は悠真を『ただの無気力な男』だと思っているが、美咲だけは知っている。彼が本当は誰よりも観察力に優れ、いざという時には信じられないほど頼りになる、優しい人間だということを。
(……もう、また寝てばっかりなんだから)
美咲が心の中で愚痴をこぼしたその時、教室の反対側の壁際から、低く重い溜息が聞こえた。
そこにいたのは、短髪の黒髪に鋭い目つき、そして校則違反のピアスを1つ光らせた男 神崎蓮である。制服を着崩し、周囲から「近寄りがたい不良」として恐れられている一匹狼だ。 蓮もまた、頬杖をつきながら悠真の寝顔を睨みつけるように見ていた。
だが、その瞳に宿っているのは敵意ではない。幼稚園からの親友である悠真に対する、呆れと深い信頼だった。高校に入ってからは周囲の目もあって滅多に話さなくなったが、二人の絆は未だに変わっていなかった。
教室の空気は、六限目特有の弛緩しきった熱気に包まれていた。
教壇に立つ担任の佐伯恒一は、ジャージ姿にメガネといういつものスタイルで、黒板に世界史の年表を書き進めている。普段は穏やかで生徒第一の彼は、厳しくも優しい性格で分け隔てな生徒に接する信頼され人気のある教師だった。
その黒板に向かう佐伯の背後では、それぞれの生徒がすでに「放課後」を見据えて動いていた。
サッカー部キャプテンの高橋大輝は、放課後に始まる練習試合のシミュレーションをし、陸上部の朝比奈葵は、窓の外を走る部活の動線を目で追っていた。
女子グループはリーダーの西園寺莉奈を中心に、黒川美優と藤原彩花がスマートフォンの画面を隠しながら、今週末に行く美容サロンや新作コスメの話題をアイコンタクトで盛り上がっている。
オタクの相馬拓海と結城智也の二人は、ノートの裏に何やら「最強の生産チート」についての理論や、Web小説のプロットらしきものを書き殴り、見せ合っていた。
誰もが、いつも通りの、明日も続くはずの「日常」の中にいた。
チョークの音がピタリと止まり、佐伯が眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、振り返って窓際の一角を見やる。
「~以上の理由から、この時代の交易路の確保は国家の至上命題だったわけだ。……さて。神代、お前は寝てばかりだが、やればできる男のはずだ。今説明した、この交易路がもたらした最大の文化的影響について、そこの教科書の一節を読んで答えてみろ」
クラス中に小さな失笑が漏れる。いつもの光景だ。
美咲がハラハラした様子で振り返り、蓮は「またかよ」と天井を仰いだ。
しかし、悠真は佐伯の声が止まった瞬間に、まるで最初から起きていたかのようにスッと上体を起こした。その目は少し眠そうだったが、焦点は完全に合っている。
悠真は机の端に置かれていた教科書をめくりもせず、黒板の年表と佐伯のチョークの跡をほんの一瞬だけ観察した。彼の高い観察力と学年上位の頭脳は、授業を真面目に聞いていないように見えて、耳に入ってくる音だけで前後の文脈をすべて把握していた。
「……教科書142ページの3行目からですね。『この交易路の開通により、東方の宗教思想が西方へと伝播し、既存の言語体系と融合して新たな文学的土壌が形成された』――これで合ってますか、先生」
淀みのない、冷静な声が教室に響く。 当てられれば必ず正解する。それが学年上位の実力を持つ、また誰も真似が出来ない神代悠真の隠された力だった。
佐伯は満足そうに苦笑し、「正解だ。やればできるんだから、起きとけよ」とチョークを持ち直した。
「うっす……」
悠真は小さく呟くと、再び腕の中に顔を埋めようとした。 美咲はホッと胸をなでおろし、オタクの相馬は「相変わらずの主人公ムーブだな」と小さく笑った。
窓の外では、セミが激しく鳴き小さく鳥のさえずりが聞こえる。
『キ~ンコ~ンカ~ンコ~ン』
授業終了の鐘が校舎に響き渡る。
「今日はここまでだ。お前ら明日から2泊3日の課外講習だ。朝は早いから遅刻するなよ。」
佐伯の声が教室に響き渡る。気怠そうに返事を返す生徒を見渡し苦笑いを浮かべる佐伯。
生徒たちはそれぞれ放課後の予定に向けて教室を出ていく。神代もまた、のそのそと起き出し教室を後にする。その後姿を、美咲と連はため息を吐きつつ見送るのだった。




